人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
部民制と荘園制
◆昨日、卒論を読んでいて、その本旨とは関係ないのですが、ふと、部民制と荘園制はよく似てんじゃないかと。王族・中央豪族、京都権門による、日本の国土の分割領有、そういうものが各所にはりめぐらされており、そういう経済基盤で、国家を支えているあり方も、同じちゃうんか、と。
◆古墳時代の部民制はいつからか知らんが5世紀後葉として、最大の利権集積者である蘇我を排除したのが7世紀中頃、後半を通じて部民制は俸禄に切り替えられ、原則的に在地支配と切り離す(むろん長屋王を見るまでもなく残存もするが)、その間、200年弱。荘園制は始まりは古代としても、中世荘園は12世紀にほぼ成立したとして、戦国大名が台頭して形骸化し、織豊期には完全になくなるとして、15世紀、16世紀前半までは生きてるかな。300年強。
【追記】その後、荘園制が形骸化するひとつの理由みたいなものを考えた。ある地域の実例ではあるが、地方寺院への寄進が鎌倉以降に進んでいく、それが経済基盤となり、南都寺院などとは異なる、地方の一山寺院のようなものが成立してくる。寺院のある山、そして周辺に散財する寄進地。つまり荘園制の枠はあるが、その内部において諸権利(内実は知りません)が寺院に集まっていく、実質的な荘園制の蚕食、またそうした寄進行為により、在地の有力者が、それはなんとか寺の土地だということで、実質的にはそこを経営し、上がりを寺院に納めることで、一定の土地に関する権利を獲得していく。それは荘園の枠をやがて突き崩していくのではないかと・・・。まったく荘園研究のイロハを知らない人間なので、ピントはずれかもしれないのだが、そんなことを考えた。
◆古墳時代の部民制はいつからか知らんが5世紀後葉として、最大の利権集積者である蘇我を排除したのが7世紀中頃、後半を通じて部民制は俸禄に切り替えられ、原則的に在地支配と切り離す(むろん長屋王を見るまでもなく残存もするが)、その間、200年弱。荘園制は始まりは古代としても、中世荘園は12世紀にほぼ成立したとして、戦国大名が台頭して形骸化し、織豊期には完全になくなるとして、15世紀、16世紀前半までは生きてるかな。300年強。
【追記】その後、荘園制が形骸化するひとつの理由みたいなものを考えた。ある地域の実例ではあるが、地方寺院への寄進が鎌倉以降に進んでいく、それが経済基盤となり、南都寺院などとは異なる、地方の一山寺院のようなものが成立してくる。寺院のある山、そして周辺に散財する寄進地。つまり荘園制の枠はあるが、その内部において諸権利(内実は知りません)が寺院に集まっていく、実質的な荘園制の蚕食、またそうした寄進行為により、在地の有力者が、それはなんとか寺の土地だということで、実質的にはそこを経営し、上がりを寺院に納めることで、一定の土地に関する権利を獲得していく。それは荘園の枠をやがて突き崩していくのではないかと・・・。まったく荘園研究のイロハを知らない人間なので、ピントはずれかもしれないのだが、そんなことを考えた。
メッセージ
◆このあいだ、大阪府の土屋みづほさんが、栄原先生のところに資料をもってきたので、一緒に見せてもらった。これは近々、報道されるので、あまりしゃべれない。ニュースバリューは以下に書くこととは別。
◆で、話は飛躍するが、軽寺、五条野丸山古墳の北にある古代寺院、軽寺式の標式遺跡、あれは蘇我系境部氏の氏寺ってことはない?、と思った。軽寺については、和泉市坂本寺から軽寺式が出ていて、昔、資料を集め、実測などもし、『市大日本史』に報告した時から興味があった。その時から、軽寺ってなんだろうと思っていた。丸山の菩提寺ちゃう?。飛鳥寺式から派生したもので、蘇我系だわなっと。小澤さんの稲目説とも整合するか、とも。
◆で、テルちゃんの論文で、あのあたりが「境」・「坂合」と呼ばれていたというのを呼んでいたので、(そこに今回の大阪府の新出資料が一枚かんで)、上記した発想に至った。畝傍山東麓部の蘇我氏の本拠地にある寺、馬子の弟とされるのがサカイベノマリセ、それは境という地名を冠した蘇我の境部のマリセということ、だ。
◆大脇さんの書いたものを引っ張り出すと、軽氏、大軽氏、などと書いてある。こいつらがなにものか知らないが、蘇我氏一族の境部の氏寺と考える方が、7世紀前半の軽寺建立に見合うと思う。どうでしょうか。そういや古代の瓦の研究会で、軽寺式をやってたことがあったな~。そこではどうなってんだろう。
【追記】02/25に現地に行ったが埋め戻し中だった。まあ遺構がきっちりでているわけではないので。前に和泉の古代寺院をぜんぶ学生とまわったことがあるが、前に来た時は、まあなんにもないとしかいいようがなかったが、調査地を訪れ位置の感覚がえられた。
◆で、話は飛躍するが、軽寺、五条野丸山古墳の北にある古代寺院、軽寺式の標式遺跡、あれは蘇我系境部氏の氏寺ってことはない?、と思った。軽寺については、和泉市坂本寺から軽寺式が出ていて、昔、資料を集め、実測などもし、『市大日本史』に報告した時から興味があった。その時から、軽寺ってなんだろうと思っていた。丸山の菩提寺ちゃう?。飛鳥寺式から派生したもので、蘇我系だわなっと。小澤さんの稲目説とも整合するか、とも。
◆で、テルちゃんの論文で、あのあたりが「境」・「坂合」と呼ばれていたというのを呼んでいたので、(そこに今回の大阪府の新出資料が一枚かんで)、上記した発想に至った。畝傍山東麓部の蘇我氏の本拠地にある寺、馬子の弟とされるのがサカイベノマリセ、それは境という地名を冠した蘇我の境部のマリセということ、だ。
◆大脇さんの書いたものを引っ張り出すと、軽氏、大軽氏、などと書いてある。こいつらがなにものか知らないが、蘇我氏一族の境部の氏寺と考える方が、7世紀前半の軽寺建立に見合うと思う。どうでしょうか。そういや古代の瓦の研究会で、軽寺式をやってたことがあったな~。そこではどうなってんだろう。
【追記】02/25に現地に行ったが埋め戻し中だった。まあ遺構がきっちりでているわけではないので。前に和泉の古代寺院をぜんぶ学生とまわったことがあるが、前に来た時は、まあなんにもないとしかいいようがなかったが、調査地を訪れ位置の感覚がえられた。
博物館設置基準にかかわる博物館法改正
◆日本考古学協会から、平成21年10月7日の地方分権改革推進委員会第3次勧告において、都道府県による登録要件の審査を定めた博物館法第12条の改正が示され、日本の博物館に大きな影響を与える改悪になるもので、それぞれの学会から反対の意思表明をするよう呼びかけがあった。12月4日には、文部科学省生涯学習政策局社会教育課から、都道府県および政令市の教育委員会社会教育主管課に対して、第三次勧告を承けて法改正になれば、それぞれで要件を定めることになるとの通知が出されている。
◆大阪歴史学会では、これが文部科学省で検討が進められてきた、日本の博物館を今日的な要請に応えられる機能を充実させていこうという方向性と相反するもので、博物館を存立させる根本にかかわる要件について国が責任をもたず、機能後退につながる虞があると考え、12月委員会で反対の意見表明を行うことに決定した。
◆地方分権推進委員会は国の地方行政への規制を点検するものであるが、実態は、国が定めた要件を満たす登録博物館は限られ、多くが相当施設であって、公式には博物館と呼べないという程度の問題であり、実際には公立の資料館がそれぞれ機能し、その運営に国が規制をかけているわけではない。そして登録要件を緩和して登録博物館の数を増やすことが日本の博物館・資料館にとって良いこととは思えない。
◆「これからの博物館の在り方に関する検討協力者会議」が2007年6月にまとめた『新しい
時代の博物館制度の在り方について(報告)』にしたがって、まずは国が登録制度について責任をもって基準を定め、また審査機関のあり方が検討されるべきである。しかし、この方向性は、2007年9月の第14回の検討協力者会議で、日本博物館協会への博物館登録基準の検討委任、そして第二次報告のとりまとめが図示され目指されたはずが(右図)、その後は、学芸員課程の見直しについて主に議論され、登録基準の見直しが会議で検討された形跡はなく、いきなり昨年の分権推進委員会の勧告に至る。
◆以上、『ヒストリア』の原稿だが、最後のところは裏が取れていないのだが、文部科学省のHPを追いかける限り、ニッパクキョウに検討委任し、それをフィードバックして、検討協力者会議で練られた形跡はない。どうしたんでしょうね。今回の博物館の見直しが、意気込みは大きかったが、あまり進展なしと新聞にたたかれ、委員からも2年間の時間はムダだったと言われ(どっかで見た)、ほとんどやる気を喪失し、学芸員課程の施行規則改正で終結させようとしてるんじゃないかと思う。で、分権委の勧告にしたがって都道府県に丸投げして幕引きをはかった。だが、さまざまな団体から反対表明が提出され(新聞で見たが切り取るのを忘れた)、さてと、文部科学省はどう対応するのか。
◆大阪歴史学会では、これが文部科学省で検討が進められてきた、日本の博物館を今日的な要請に応えられる機能を充実させていこうという方向性と相反するもので、博物館を存立させる根本にかかわる要件について国が責任をもたず、機能後退につながる虞があると考え、12月委員会で反対の意見表明を行うことに決定した。
◆地方分権推進委員会は国の地方行政への規制を点検するものであるが、実態は、国が定めた要件を満たす登録博物館は限られ、多くが相当施設であって、公式には博物館と呼べないという程度の問題であり、実際には公立の資料館がそれぞれ機能し、その運営に国が規制をかけているわけではない。そして登録要件を緩和して登録博物館の数を増やすことが日本の博物館・資料館にとって良いこととは思えない。
◆「これからの博物館の在り方に関する検討協力者会議」が2007年6月にまとめた『新しい
◆以上、『ヒストリア』の原稿だが、最後のところは裏が取れていないのだが、文部科学省のHPを追いかける限り、ニッパクキョウに検討委任し、それをフィードバックして、検討協力者会議で練られた形跡はない。どうしたんでしょうね。今回の博物館の見直しが、意気込みは大きかったが、あまり進展なしと新聞にたたかれ、委員からも2年間の時間はムダだったと言われ(どっかで見た)、ほとんどやる気を喪失し、学芸員課程の施行規則改正で終結させようとしてるんじゃないかと思う。で、分権委の勧告にしたがって都道府県に丸投げして幕引きをはかった。だが、さまざまな団体から反対表明が提出され(新聞で見たが切り取るのを忘れた)、さてと、文部科学省はどう対応するのか。
朝青龍のこと
◆カミサンがブログに書いとけと。とっかかりはアエラ。銀行員40代正社員の年収は1600万円だって。バカにしてるよな。公的資金を入れて、金利を思いっきり下げて回復を果たし、金利はそのままで、自分らは高給をハム。アエラの特集は二つあり、ひとつが不安定な40代正職(で上に上げたようなこと)というのと、もうひとつがその結婚プラスかマイナスか、というものだった。で結局、専業主婦を含め、年収ではなく、満足度だという話らしい。人それぞれのモノサシだ、ということか。
◆これが本題ではない。どうもJAXAの宇宙科学研究本部(カミさんの前の職場)の仕事のやり方、いついつが報告書が締め切りだから、持ち寄りはこの日に設定し、それにむけての打ち合わせを1週間前にやって、とか、そういうマジメ人間のやり方に「ついていけん」という話。で、朝青龍が登場する。仕事をちゃんとやるかどうかが問題で、やり方は人それぞれや、相撲に強い朝青龍がなんでやめなあかんねんと。
◆いまどこでも成果が問われ、それをキチキチやっていくためには、段取りして計画的にコトを進め、間違いのないように進める風潮が進行し、ツマランと。仕事やから、給料もらっているから、することはせなあかんが、締め切りの前の日にやってもええやん、と。顔をあわしても仕事の話しかしない、なんの面白みもないと。破天荒な生き方しとるやつ、別にそんなんでなくとも仕事はするが遊びもちゃんと入れてるヤツの方が、人間的だし魅力あるわな。
◆宇宙科学研究本部の正職は、日本ではそこしかない頭脳の集まる超エリート集団であるが、楽しそうに仕事をしていないようなのだ。でも一方、ハチャメチャナ東大の先生の話を聞くと安心もする。
◆とくに研究というのは、キチキチ計画通り成果を出すようなことが果たしてよいのか、あるいは成果が出るのか、といわれれば、積み上げ+発想や飛躍だから、どうなんでしょうね。人によってスタイルは違うから、キッチリやる人がいてもいいが、そうでない者が排除されるのはたぶんよくないんだろう。縛りのない自由さが必要だ、と。そういうことかな。
◆オレはけっこう自由にやらせてもらって幸せだ。計画性のなさはいつも反省しているのだが、それでいいんだと肯定しておこう。
◆いずれにしても、人の幸せとは何か、そのモノサシは個人のものだから、マジメだったらいかんのか、とはいえないが、カミさんの言うように、人とのつきあいや(あの人はほんまに幅広い。職場だけでなく、日銀・小学館・朝日新聞社・外務官僚、大学のテニスサークル、保育園の時の母親友達、小学校の時の母親友達、研究分野で言っても、形と構造をやっているので、折り紙研究家や、沖縄のプランクトン研究者・・・)、うまいもんを食う、そうした人間味のある生き方に共感する。おれもキチキチやる、研究史をしっかりふまえる、なんていうのが苦手で、一発屋なので、これからもチャランポランでいこう。メールを見てなくてもエエヤン。
◆これが本題ではない。どうもJAXAの宇宙科学研究本部(カミさんの前の職場)の仕事のやり方、いついつが報告書が締め切りだから、持ち寄りはこの日に設定し、それにむけての打ち合わせを1週間前にやって、とか、そういうマジメ人間のやり方に「ついていけん」という話。で、朝青龍が登場する。仕事をちゃんとやるかどうかが問題で、やり方は人それぞれや、相撲に強い朝青龍がなんでやめなあかんねんと。
◆いまどこでも成果が問われ、それをキチキチやっていくためには、段取りして計画的にコトを進め、間違いのないように進める風潮が進行し、ツマランと。仕事やから、給料もらっているから、することはせなあかんが、締め切りの前の日にやってもええやん、と。顔をあわしても仕事の話しかしない、なんの面白みもないと。破天荒な生き方しとるやつ、別にそんなんでなくとも仕事はするが遊びもちゃんと入れてるヤツの方が、人間的だし魅力あるわな。
◆宇宙科学研究本部の正職は、日本ではそこしかない頭脳の集まる超エリート集団であるが、楽しそうに仕事をしていないようなのだ。でも一方、ハチャメチャナ東大の先生の話を聞くと安心もする。
◆とくに研究というのは、キチキチ計画通り成果を出すようなことが果たしてよいのか、あるいは成果が出るのか、といわれれば、積み上げ+発想や飛躍だから、どうなんでしょうね。人によってスタイルは違うから、キッチリやる人がいてもいいが、そうでない者が排除されるのはたぶんよくないんだろう。縛りのない自由さが必要だ、と。そういうことかな。
◆オレはけっこう自由にやらせてもらって幸せだ。計画性のなさはいつも反省しているのだが、それでいいんだと肯定しておこう。
◆いずれにしても、人の幸せとは何か、そのモノサシは個人のものだから、マジメだったらいかんのか、とはいえないが、カミさんの言うように、人とのつきあいや(あの人はほんまに幅広い。職場だけでなく、日銀・小学館・朝日新聞社・外務官僚、大学のテニスサークル、保育園の時の母親友達、小学校の時の母親友達、研究分野で言っても、形と構造をやっているので、折り紙研究家や、沖縄のプランクトン研究者・・・)、うまいもんを食う、そうした人間味のある生き方に共感する。おれもキチキチやる、研究史をしっかりふまえる、なんていうのが苦手で、一発屋なので、これからもチャランポランでいこう。メールを見てなくてもエエヤン。
新潟が大雪だそうで
◆新潟市内が26年ぶりの大雪だって。1984年のことだ。そう、この冬は忘れない。オレが大学1年ではじめての京都の冬を体験した年。京都は寒いが、この年は特別だった。前年1983年の12月18日は総選挙で、ドカ雪だった。朝から子供みたいにはしゃぎ、叡電に乗って鞍馬に行って雪かきをした。この冬は、それ以来、北向きの軒下の雪が春まで溶けなかった。年が明けても、毎週のようにドカ雪が降り続いた。
◆おれの下鴨の下宿は、水道屋の物置の2階で、外気が廊下まで筒抜け、つまりドアの向こうは外気温で、布団から出ている顔がひりひりに冷えた。この話、前も書いたかな・・・。だとしたらもうボケてるんだけど。
◆おれの下鴨の下宿は、水道屋の物置の2階で、外気が廊下まで筒抜け、つまりドアの向こうは外気温で、布団から出ている顔がひりひりに冷えた。この話、前も書いたかな・・・。だとしたらもうボケてるんだけど。
試験の答案を次にいかそう
◆こないだの試験 2題出したが、1題は縄文で、2題目は日本列島における国家形成を論じさせた。設問にも工夫し、一定の予備情報を与えた上で、だ。弥生時代後期の話を1回、3世紀前半の話を1回、統合のプロセスを示し、これが日本の国家形成だ、と言ったのに・・・。答案を見ると、なかなか伝わっていない。弥生時代後期の社会に言及したもの、倭国乱に言及したものが少なすぎる・・・。
◆伝わってないのは、教え方がまずいんでしょうね。反省・・・。
◆伝わってないのは、教え方がまずいんでしょうね。反省・・・。
戦前における文化財の保護
◆2008年末から2009年はじめに、戦前の文化財保護制度を調べる機会があり、作っておいたメモを掲げる。ある小文に掲載しようと引っ張り出してきたが、少し長く趣旨がずれるのであきらめることにしよう。わたしの感想は、「戦後の文化財保護法の枠組み、とくに遺跡発掘の届出制度は、戦前の古墳の発掘に関する制度を一般化したものなんだ」ということ。これ、和田勝彦さんなんかの文章をたどれば、とっくに言われていることなのだろうが、自分としては新鮮であった。
◆1874年(明治7)の「古墳発見ノ節届出方」(太政官達59号)では、「御陵墓ノ所在未定ノ分即今取調中ニ付」、みだりに古墳を発掘してはならないこと、発見のあった時は図を添えて届け出ることが通達される。陵墓である可能性のあるものが発掘されることを規制するためで、縄文時代の遺跡などは対象としていない。
◆1880年(明治13)には、ほぼ同趣旨の宮内省達「人民私有地内古墳発見ノ節届出方」が出されている。皇陵比定事業は、1875年(明治8)から1876年に基本的に終了するが(1889年に一応完了)、その後も古墳の発掘には制約が続く。
◆日清戦争後の1899年(明治32)、民法とその特例法である遺失物法が成立し、所有者不明の「学術技芸若ハ考古ノ資料に供スヘキ埋蔵物」を発見した場合には、警察へ提出することが義務づけられた。これに関連し、内務省は「学術技芸若ハ考古ノ資料トナルヘキ埋蔵物取扱ニ関する件」の訓令を発し、発見された遺物が「古墳関係品其ノ他学術技芸若ハ考古の資料」となるべきものである時は宮内省へ通知することとなっている。また「石器時代ノ遺物」である時は東京帝国大学へ通知され、それぞれ必要な物件を保有するものとした。戦前出土の著名な出土遺物の多くが、今日の東京国立博物館・宮内庁・東京大学などで所蔵されているのは、この理由による。この段階で、遺失物法という一般法のなかで出土物を処理するため、古墳からの出土品のみならず縄文時代の出土品を含め、考古資料が発見された際の取り扱いが定められた。しかし発見された場合の遺跡の取り扱いを規定するものでなく、あくまで出土品の措置である。
◆古墳の発掘に関しては、1884年の太政官達と1890年の宮内省達に示されている届出を遵守するよう、1901年(明治34)に内務省から「古墳発掘手続ノ件依命通牒」が出されている。「発掘セントスルモノハ」、「予メ詳細ノ図面ヲ添ヘ宮内庁ヘ打合」せるように指示している。それ以前の段階は、みだりに発掘をしないこと、発見があったら報告することであったのに対し、その前半の部分が制度的に整備され、学術調査をおこなう場合は、宮内省と事前に協議することを求めることになった。制度的には、古墳の調査についての制約を手続きを定めて強化したといえる。それ以外の遺跡についての発掘調査にかかわる規定は引き続き存在しない。
◆史蹟名勝天然記念物保存法の制定は、1911年(明治44)の第27回帝国議会(貴族院)における「史蹟及天然紀年物保存ニ関スル建議書」の可決された頃からの運動の末に、1919年に制定された。建造物、美術工芸品が古社寺保存法(〓年)で保護されているのに対して、史蹟や天然紀念物を破壊から保護するためのもので、指定による保護措置を加える今日的な制度である。内部大臣が保存区域を定めて指定し、現状変更等の制限及び環境保全命令の規定、違反に対する罰則を設けたもので、地方公共団体を管理者に指定するものである。その施行令において、史跡となっている古墳を発掘する際、宮内大臣への協議を文部大臣に義務づけており、古墳に関する宮内庁の権限を引き継いでいる。
◆また施行規則にある、「土地ノ所有者、管理者又ハ占有者古墳又は旧蹟ト認ムヘキモノヲ発見シタルトキハ其ノ現状ヲ変更スルコトナク発見ノ日ヨリ十日以内ニ左ノ事項ヲ具シテ地方長官ニ申告スベシ」と規定され(第4条)、地方長官は文部大臣に報告することを求めている(1930年文部省訓令)。これは、指定物件以外の遺跡を対象としたもので、ここに出土品発見の手続きとは別に、遺跡の発見があった場合、古墳以外の「旧蹟と認むべきもの」についても届け出ることが規定された。
◆以上をまとめると、戦前において、遺跡からの出土品はすべて、民法上の所有権との関係から、普遍的な取り扱いが必要であり、遺失物法において、出土物の発見の警察への提出と、内容に関する通知を宮内省あるいは東京帝国大学への通知が定められた。これは発見物に関する手続きであるのに対して、そうしたものが出土し遺跡と知られたものの発見については、古墳については1874年に定められていたが、その他のものについては1919年の史蹟名勝天然記念物法でようやく一般化されたということだ。また学術調査については、古墳については1901年(明治34)に詳細な図面を添えて宮内省と打ち合わせることが規定されたが、古墳以外の遺跡については、戦前はとくに規定は制定されることはなかったのである。
◆要は、(1)重要遺跡の史跡指定、(2)遺跡の発見届、(3)学術調査の届出、(4)出土品の文化財認定(国保有も)、という基本は戦前にでき、文化財保護法が公布されたときは、ほぼこれを引き継いだ。保護法は記憶によれば(もう彼方)、すぐに(1949年?)、戦後の学術調査でない開発にともなう遺跡破壊に対応し、いわゆる周知の包蔵地における届出制度が、このあとに加わり、1975年改正までの基本ができあがる、ということだった、と思う・・・
◆実際の運用は、別に調べなければならない。河内長野の方が詳しく、大師山古墳出土品をめぐり、くわしく調べられたのがネットで公開されていたことを記憶する。
◆1874年(明治7)の「古墳発見ノ節届出方」(太政官達59号)では、「御陵墓ノ所在未定ノ分即今取調中ニ付」、みだりに古墳を発掘してはならないこと、発見のあった時は図を添えて届け出ることが通達される。陵墓である可能性のあるものが発掘されることを規制するためで、縄文時代の遺跡などは対象としていない。
◆1880年(明治13)には、ほぼ同趣旨の宮内省達「人民私有地内古墳発見ノ節届出方」が出されている。皇陵比定事業は、1875年(明治8)から1876年に基本的に終了するが(1889年に一応完了)、その後も古墳の発掘には制約が続く。
◆日清戦争後の1899年(明治32)、民法とその特例法である遺失物法が成立し、所有者不明の「学術技芸若ハ考古ノ資料に供スヘキ埋蔵物」を発見した場合には、警察へ提出することが義務づけられた。これに関連し、内務省は「学術技芸若ハ考古ノ資料トナルヘキ埋蔵物取扱ニ関する件」の訓令を発し、発見された遺物が「古墳関係品其ノ他学術技芸若ハ考古の資料」となるべきものである時は宮内省へ通知することとなっている。また「石器時代ノ遺物」である時は東京帝国大学へ通知され、それぞれ必要な物件を保有するものとした。戦前出土の著名な出土遺物の多くが、今日の東京国立博物館・宮内庁・東京大学などで所蔵されているのは、この理由による。この段階で、遺失物法という一般法のなかで出土物を処理するため、古墳からの出土品のみならず縄文時代の出土品を含め、考古資料が発見された際の取り扱いが定められた。しかし発見された場合の遺跡の取り扱いを規定するものでなく、あくまで出土品の措置である。
◆古墳の発掘に関しては、1884年の太政官達と1890年の宮内省達に示されている届出を遵守するよう、1901年(明治34)に内務省から「古墳発掘手続ノ件依命通牒」が出されている。「発掘セントスルモノハ」、「予メ詳細ノ図面ヲ添ヘ宮内庁ヘ打合」せるように指示している。それ以前の段階は、みだりに発掘をしないこと、発見があったら報告することであったのに対し、その前半の部分が制度的に整備され、学術調査をおこなう場合は、宮内省と事前に協議することを求めることになった。制度的には、古墳の調査についての制約を手続きを定めて強化したといえる。それ以外の遺跡についての発掘調査にかかわる規定は引き続き存在しない。
◆史蹟名勝天然記念物保存法の制定は、1911年(明治44)の第27回帝国議会(貴族院)における「史蹟及天然紀年物保存ニ関スル建議書」の可決された頃からの運動の末に、1919年に制定された。建造物、美術工芸品が古社寺保存法(〓年)で保護されているのに対して、史蹟や天然紀念物を破壊から保護するためのもので、指定による保護措置を加える今日的な制度である。内部大臣が保存区域を定めて指定し、現状変更等の制限及び環境保全命令の規定、違反に対する罰則を設けたもので、地方公共団体を管理者に指定するものである。その施行令において、史跡となっている古墳を発掘する際、宮内大臣への協議を文部大臣に義務づけており、古墳に関する宮内庁の権限を引き継いでいる。
◆また施行規則にある、「土地ノ所有者、管理者又ハ占有者古墳又は旧蹟ト認ムヘキモノヲ発見シタルトキハ其ノ現状ヲ変更スルコトナク発見ノ日ヨリ十日以内ニ左ノ事項ヲ具シテ地方長官ニ申告スベシ」と規定され(第4条)、地方長官は文部大臣に報告することを求めている(1930年文部省訓令)。これは、指定物件以外の遺跡を対象としたもので、ここに出土品発見の手続きとは別に、遺跡の発見があった場合、古墳以外の「旧蹟と認むべきもの」についても届け出ることが規定された。
◆以上をまとめると、戦前において、遺跡からの出土品はすべて、民法上の所有権との関係から、普遍的な取り扱いが必要であり、遺失物法において、出土物の発見の警察への提出と、内容に関する通知を宮内省あるいは東京帝国大学への通知が定められた。これは発見物に関する手続きであるのに対して、そうしたものが出土し遺跡と知られたものの発見については、古墳については1874年に定められていたが、その他のものについては1919年の史蹟名勝天然記念物法でようやく一般化されたということだ。また学術調査については、古墳については1901年(明治34)に詳細な図面を添えて宮内省と打ち合わせることが規定されたが、古墳以外の遺跡については、戦前はとくに規定は制定されることはなかったのである。
◆要は、(1)重要遺跡の史跡指定、(2)遺跡の発見届、(3)学術調査の届出、(4)出土品の文化財認定(国保有も)、という基本は戦前にでき、文化財保護法が公布されたときは、ほぼこれを引き継いだ。保護法は記憶によれば(もう彼方)、すぐに(1949年?)、戦後の学術調査でない開発にともなう遺跡破壊に対応し、いわゆる周知の包蔵地における届出制度が、このあとに加わり、1975年改正までの基本ができあがる、ということだった、と思う・・・
◆実際の運用は、別に調べなければならない。河内長野の方が詳しく、大師山古墳出土品をめぐり、くわしく調べられたのがネットで公開されていたことを記憶する。
河内大塚山古墳
◆今朝、通勤前に河内大塚に寄った。実は昨日も、試験の答案の採点を、夜、河内大塚山脇の
サイゼリヤでやっていた。古墳はまっくらで、改めて今朝、行ったわけである。
◆河内大塚をちゃんと回ったのは、これが2回目である。前方部の両側の堤は、昨年、やりかえられたもので、実はその工事期間に宮内庁に立ち入りを要請したが、工事中で安全面から実現しなかった。で、石積の真新しい堤になっているわけである。後円部については、前回は東南しか行かなかったが、今回は西から見た。だいぶ堆積土がたまり濠は狭まっている。おそらく浅いのだろう。
◆この古墳、未完と思っているが、どう考えるか。土師ニサンザイに後続する神聖王墓であるので、候補は清寧だ。で、継体擁立にともなって王墓は未完に・・・、というのがシナリオ。土師ニサンザイがキナシカルに相当する神聖王墓であるが、埴輪
からすると、市野山と変わらんらしい。キナシの没年は不明だが、あまり下げられず、460年代のうちにはあるのだろう。そのあと、神聖王清寧と、執政王雄略の体制となる。
◆河内大塚が平面形がおよそ形作られているので、割り付けられて掘削され、おもに後円部に盛土され(後円部も高くはなく造営途上と理解しやすい)、そこで中断。が、しかし。清寧かどうかはともかく、ニサンザイに後続する神聖王墓として造営されたとして、継体即位まで未完状態だったというのは、あまりに後に引っぱりすぎており、違和感があるわな。
◆だとすると、河内大塚の年代を決めるのはきわめて困難だから、考えてもしかたないのだが、もう少し古く考える、5世紀後半のなかで未完に終わるデキゴトがあったとみるか、実は、雄略段階で、神聖王墓は小さくなり(白鳥陵)、その次が河内大塚と、1枚はさむのか・・・
◆河内大塚をちゃんと回ったのは、これが2回目である。前方部の両側の堤は、昨年、やりかえられたもので、実はその工事期間に宮内庁に立ち入りを要請したが、工事中で安全面から実現しなかった。で、石積の真新しい堤になっているわけである。後円部については、前回は東南しか行かなかったが、今回は西から見た。だいぶ堆積土がたまり濠は狭まっている。おそらく浅いのだろう。
◆この古墳、未完と思っているが、どう考えるか。土師ニサンザイに後続する神聖王墓であるので、候補は清寧だ。で、継体擁立にともなって王墓は未完に・・・、というのがシナリオ。土師ニサンザイがキナシカルに相当する神聖王墓であるが、埴輪
◆河内大塚が平面形がおよそ形作られているので、割り付けられて掘削され、おもに後円部に盛土され(後円部も高くはなく造営途上と理解しやすい)、そこで中断。が、しかし。清寧かどうかはともかく、ニサンザイに後続する神聖王墓として造営されたとして、継体即位まで未完状態だったというのは、あまりに後に引っぱりすぎており、違和感があるわな。
◆だとすると、河内大塚の年代を決めるのはきわめて困難だから、考えてもしかたないのだが、もう少し古く考える、5世紀後半のなかで未完に終わるデキゴトがあったとみるか、実は、雄略段階で、神聖王墓は小さくなり(白鳥陵)、その次が河内大塚と、1枚はさむのか・・・
圃場整備事業の推移
◆新聞の趣旨は政権交替にかかわる地殻変動を順次取り上げるもので、民主党になって前年比63%減と大幅ダウンとなり、政権交替の影響がモロに出ていることを取り上げたものだ。野中広務の言うとおり、政争の具にしてはいけないだろう。土地改良が必要なものもあるに違いない。しかし、自民農水族と農水官僚が結託して、全国の農地をいじり倒してきたことは確かな事実であり、それがおおよそ終わってきているということもあるが、ようやくストップがかかったわけで、見なおされるのは当たり前だ。
◆80年代に異常に伸び、それにウルグラウンド合意が拍車をかけた。その結果はいかに。効率的な農地ができあがったのか。農民は事業終了後の換地を受けても、自分の土地が1枚ではなく、数人で同じ土地を分け合うことになる愚を聞いたことがある。自尊心ややる気をそぐ。また実際にどれだけ耕作されているのか。そうした検証がなされてしかるべきだろう。
◆これだけの予算があれば、農業を支える人々の高齢化を見越し、将来に向けて、いかに農業を継承し食糧自給率を上げていくかという明確な目的の上で、田圃をいじるだけではない政策が実現できたはずである。しかし、結果は、金が土建屋に流れ、政治家にバックされ、そうした予算は国債でまかなわれ、これからさきわれわれが負担し続けなければならない。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。