人を幸せにする人になろう

考古学通論の試験

◆昨日2限は考古学通論の試験だった。持ち込み可、あらかじめざっっくりとした論述問題であることも言ってある。持ち込み可だから、いろいろ書けるけれど、単なる羅列ではダメよとも。1時間半、みなうんうんと書き込む。これでいいと思っている。けっこう今期はマニアックな授業だったし、持ち込み不可で、ほとんど書けずに早々に出て行く者続出の試験よりも、1時間半、集中して論述すること、これはいい風景だと感じている。数年前からのスタイル。
◆試験中、本を読んでいるわけにもいかないし、いつもメモ用紙を前に思索することにしている。試験中なので、なにも資料はない、あくまでも頭で考える。1時間半集中というわけにはいかないが、これもいい時間だ。2つのことを考えていた。ひとつは横穴式石室の話だが、これもいくつかのチェックポイントに気付いた。もうひとつは、5世紀後半以降の2王並立解消および河内大塚の問題だった。
◆試験時間にまとめた考え。允恭の次の世代は、キナシカルとイチノベ、土師ニサンザイと市野山はだいたい同じ時期。
◆460年頃には総入れ替え。神聖王シラカと執政王ワカタケル、ワカタケル墓が岡ミサンザイとして、河内大塚はシラカの神聖王墓として築造開始、未完に終わったのではないか。ともかく河内大塚が土師ニサンザイの後続形式とすると、日継とされる神聖王シラカの墳墓ということになる。ワカタケルは履中系のイチノベを殺害し、履中系が執政王も独占する。ワカタケルは479に没するが、倭王武であるシラカは6世紀初頭まで生存していた可能性がある(南朝梁だったかへの倭王武の献使、これは一般的には否定的に見られているが)。
◆このあとオケ・ヲケ王が登場する。顕宗の実在は疑わしいが仁賢は実在したとされている。これはなんだろうか。仁賢陵となっているボケ山古墳は、古市の100m級の前方後円墳。河内大塚は約300mで、これは神聖王墓の規範にしたがった規模であるが、執政王墓は岡ミサンザイからは大きく規模を落としている。シラカ王の段階では、まだ2王並立で、執政王として仁賢を擁立するが、執政王の墳丘規模を制限したと思われる。
◆しかし河内大塚は未完らしい。葺石もなければ埴輪もない。両宮山と同じだ。西田さんは横穴式石室だというが、これについては来年2月の立ち入りまでにもう少し勉強しておこう。だがしかし、前方後円墳としては未完と考えざるをえない。晩年に何かあったのだ。
◆考えられるのはオホドの擁立だろう。仁賢没後に大伴金村らが担ぎ出したオホド、彼は北陸を基盤とする政治的実力者で、執政王位に就く。前に福永さんが、和歌山・隅田八幡の人物画像鏡の話をしたとき、詳しくは忘れたが、『日本書紀』による即位年より前(何年だったか、503年とかそれくらい)に、実際には王になっていたといった話をしていた。百済・武寧王との密接な関係がある。オホド擁立そのものが百済の意向がかなり反映しているのかもしれない。問題は河内政権シラカ王と、オホド王の関係である。シラカは仁賢を立てながらも権力を掌握していたとも思われるが、これに対する反動として、河内政権を支える大伴・物部に裏切られ、仁賢後にオホド王を担ぎ出し、シラカを排除したのかもしれない。これによって河内大塚は未完に終わった。実権をにぎっていたシラカ、古市古墳群と百舌鳥古墳群のちょうど中間に河内大塚を築造しながら、河内政権はオホドをかつぐ大伴・物部のクーデタによって瓦解する。
◆オホドの新政権は、従来の葬法を一挙に転換する。6世紀の畿内型横穴式石室の原型は、柏原・高井田山古墳。安村さんによれば、百済王族の墓で、475年直後と推定している。畿内の倭人の横穴式石室採用はそれ以降となる。やっぱり、5世紀までの王墓は竪穴系で、横穴式石室の採用は今城塚からと考えるべきなんだろう。今城塚古墳の入念な基礎構造を見ていると、はじめて前方後円墳に横穴式石室を組み込む葬法が採用されたことにともなう、特殊なあり方とみるにふさわしい。石室は百済として、石棺との組み合わせからすると、阿蘇石石棺を製作した有明海沿岸の百済直結勢力の影響が大きいのだろう。全羅南道の倭系百済官人の前方後円墳もちょうどこの時期。
◆武寧王の時代は、熊津時代の全盛期。475に漢城を失い遷都するが、復興を遂げ、南朝に朝貢し、安定を見ていた。倭の軍事支援を一層引き出すため、武寧王は、有明海沿岸勢力、大伴金村、オホドと密接に連携し、親百済政権を樹立したということか。これが河内政権の終焉となる(古市ではいましばらく中規模の前方後円墳は残存する)。
◆横穴式石室のリストを見ると、圧倒的に大和だ。河内の群衆墳は早いけれども、渡来系の色合いが濃い。倭人の首長墓で、比較的大型の横穴式石室墳のほとんどは大和だ。河内政権打倒には、大和の豪族がかなり荷担したのではないか。むろん淀川流域から近江~東海というラインもあるが、大和も河内にとってかわる運動を推進したことの表れか(埴輪の製作技法と関連しそうだ)。6世紀、政権本拠が大和に移る背景には、オホド擁立を推進した大和諸勢力があったのかもしれない。
◆さ、仕事しよう。

民主党のマニフェスト実現のための財源

◆民主党が無駄を精査して9兆円を捻出するとしている点に対する、自民党の攻撃がはげしい。国民にしてみれば、民主党よ、やってみよ、自民党よ、それができなかった時に非難せよ、と言いたい。
◆それはともかく、わたしはひそかに期待することがある。民主党が現時点でどう考えているかはわからないが、小沢が以前に第7艦隊だけでよいといった発言から、もしかすると軍備費削減に手をつけることを考えているのかもしれない、と。あるいは、そうでないとしても、自民党の追求のように、思うように財源が確保できない時に、民主党に軍事費削減に手を付けて欲しいのだ。アメリカからどう言われようと、我が国の財政状況はそれどころではない、とつっぱねてほしい。「基地移転費も出せない」、「思いやり予算も見直す」、そこまでは無理だろう。しかし、公共事業は歴史的必然(人口減少・インフラ充足)として段階的に減らさざるをえないが、一方で雇用の受け皿も作っていかなければならないのに対し、自衛隊の費用は、ひとまず必要な人件費はいるとして、新規の軍備購入費は事業費ではない。訓練も最小限にする、これは地域の雇用へなんの影響も与えない。1機100億円以上もするような戦闘機をなぜに買う必要があるのか。
◆共産党の主張とも重なるが、共産党のような正論では世論は動くまい。民主党には、今日の財政危機をはっきり訴え、しかし年金や医療など必要な予算を配分していくためには、ここに手をつけるほかはない、とうまく説明して、右派の攻撃をいなして、実を取って欲しい。これを期待しよう。

国民の選択

◆昨日のニュースなんとかでの、福岡7区の選挙戦、大牟田市において、古賀誠が堂々と自分が公共工事をもたらしたこと、福岡でも有数のインフラの整う地域にしたのは自分であるとはっきり言うのを感慨深く見た。古い政治構造の典型で、古賀はもはやそれを否定できる年齢ではなく、こうした利益誘導を重ねてきた自分を正当化するしかなく、それで負けるなら仕方ないと思っているのだろう。古賀のその人を非難するのでない、自民党政治=公共事業の誘導という、従来の典型的な自民党議員のあり方を改めて確認できた。
◆これを見てすぐに思ったのが、いま朝日の夕刊でやってる、各地での地元に根ざした地道な町おこし、村おこし、との対照だった。取り上げられている地域個々に、とりたてて観光名所や産業や特徴があるわけではない。しかし、それぞれに過疎化に危機感を感じ、特産品を生み出したり、観光スポットを作り出したり、自分たちの住むところの魅力作りにボランティアで取り組むコミュヌティーを作り出すなど、地域において人と人とのつながりを再構築し、雇用を産み出し、若者も地元に戻ってきたり、お年寄りが楽しく暮らす姿が描かれている。
◆大牟田市民は、高速道路や新幹線の駅や、港湾整備や誠橋(ムネオハウスと同類)など、次々と工事が進む一方で、シャッター街となった商店街、こうした姿と、こうした大金を投じての公共事業がなくとも、地域作りをしていこうという新聞で紹介されているような取り組みと、どっちがいいのか、ということだ。

あめりか国債

◆中国政府のアメリカ国債に関する不安は正当なものだ。日本も、これを多量にかかえることの危険性を認識すべし。アメリカの財政状況が早々に回復することはないし、諸国の経済的台頭のなかで、相対的比重が今後ますます後退することは必然である。

大森実の本

◆むか~し買って読んだ講談社文庫の大森実(毎日新聞記者)の戦後史の本をなぜだか、読んでいる。10巻本だが、1・2巻がある。
◆昭和20年、ドイツがもうすぐ負けるという段階での、対日講話、対米講話について、ドイツのように本土決戦になることを防ぐべく、外務省などの公式ルートとは異なる道をさぐっていた動きが紹介されている。結局は、スイス、ベルンにおけるアレンダレスとの交渉もまったく取り上げられず、そうした努力はフイになり8月15日を迎えるという、まるで麻生政権のような、追い込まれてのポツダム宣言受諾に至る。ダレスは戦後CIA長官となるが、その活動はあたりまえだが戦時中に始まっていたわけだが、日本の為政者は、ダレスがルーズベルト大統領に直結する人物であり、重要なパイプになることがわからなかったのである。
◆ルーズベルトが死にトルーマンに変わり、原爆を落とすことが重要課題となり、アメリカ側の姿勢も変わるのだろうが、アメリカも望んでいた、より早い終戦は実現しなかった。ソ連の対日参戦の準備が整うまでのあいだに決着をつけたいアメリカとの間で、話が整う可能性は0ではなかったに違いない。
◆まあ、面白いのだが、学術的コメントができるわけではない。気になるのは、例えば、そういうスイスの海軍武官が独自に講和の道を探る根本は、ドイツのようにベルリン陥落というような悲惨な事態を防ぐということなのだが、彼らの考えはむろん正しとはいえ、そこには沖縄が入ってこないことだ。硫黄島と変わりがないのだ。あくまで本土が焼土となることを防ぎたい、ということであって、4月1日から3ヶ月にわたる沖縄戦はいたしかたないと考えているのだ。
◆それから児玉誉士夫の児玉機関の話と、児玉との対談記録が面白い。児玉は、国民あっての国家、国家あっての天皇であることを、為政者も天皇も忘れているという。天皇はけしからんと。たとえGHQが天皇を戦犯として扱わなかったとしても、天皇は謝るべきだった、そして退位して、戦争で死んでいった国民の慰霊に生涯をささげるべきだった、それでないと血の通った人間ではないと。まったく正論だ。

なんでハセ(長谷)なんだろう

◆長谷という漢字はけっしてハセとは読めないだろうし、ハセに長い谷という意味が含まれるとも思えない。音のハセがまずありきと想定しよう。倭語としてなんらかの意味があると思うが、それは調べてみないとわからない。
◆要は、地名のハセがまずあって、そこは長い谷地形のところなので、漢字を当てる時に「長谷」が当てられた(当字)になったのではないか、ということを思いついた。調べればわかるんだろうね。
◆全国の長谷という地名や長谷川さんという名前、これは長谷寺が起源ということになるが・・・。ちゃうのかな。
◆以下、小澤さんからのご教示(勝手に転載します、内容的に問題ないと思いますので、お許しあれ)「雄略を大泊瀬幼武(『日本書紀』)、大長谷若建(『古事記』)と記すように、初瀬・泊瀬は本来「はつせ」と読みましたが、貴兄が機上で実感されたごとく、西峠までまっすぐに延びる初瀬川本流の形状により、「長谷」の用字が生まれました。地名辞書類では、泊瀬にかかる枕詞「長谷(ながたに)の」から、転じて長谷を「はつせ」と読むようになったとあります。「春日(はるび)のかすが」「飛ぶ鳥のあすか」と同じというわけです。(もっとも、以前にちょっと調べたことがありますが、僕自身は、初瀬に枕詞「ながたにの」がついた用例を確認できませんでした。『万葉集』では、初瀬(泊瀬)の枕詞は「こもりくの」です。)ですから、長谷さんや長谷川さんは、本義どおり、谷や川に基づく名前なんでしょうね。長谷寺が起源、というのはちょっと違うかも。」

階級社会

◆列車の1等・2等などの差、日本ではグリーン車など特急列車などに残存するが、ヨーロッパではまだまだありそうだし、アフリカなど、ぎゅうぎゅう詰めの車両に対して、外国人観光客などが乗る1等に、厳然たる階級社会を見る。今回、飛行機に乗って、エコノミーとファーストクラス、それになんというのか最上級クラス、の3種類があることが新鮮だった。最上級は、1人掛け用のソファのようなシートだ。昭和30年代までのような、ぎゅうぎゅう詰めの3等などの風景はなくなり、また階級社会とまで言うのは誤りだろうが、階層社会ではある。あのような席にに座る奴、どうせ成り上がりの金持ちなんだろうが、鼻持ちならないんだろうな。そういうことで社会的成功者としてのステイタスを確認するんだろう。「オマエラとは違うんだ」と。ひがみかもしれない。だけどなんか違和感がある。格差社会を明示し、格差はあって当たり前という固定化をもたらすのでは。存在する格差は、ほっといても、着るもの、食い物、あらゆる側面に現れよう。せめて、公共交通機関は、在来線や地下鉄などと同じく、特急も飛行機もまったく同じにしてはどうか。これはすばらしい国策と思うが。

久しぶりの飛行機で成田に

0f1c2f73.JPG◆何年か前に家族で沖縄に行ったとき、昨年10月に宮崎に行った時、それ以来の飛行機だ(歴博の研究会参加のため)。文化庁にいたときは隔週くらいで飛行機に乗ることもあったが、9年のブランクがあると、とまどう。昨年も宮崎まで飛んだのだが、今回、なにかと新鮮だった。
◆まずはチケットレス。前はどうだったんだっけ。文部科学省内の旅行社に行き、発券してもらってたような気がする。チェックインは簡単になった。聞くところによると、発券さえもいらないのもあるらしい。
◆手荷物検査。おどおどしてしまう。どうするんだっけ、と説明看板を見る。パソe5d5404f.JPGコンを出すか・・・、それから・・・、携帯は出した、あっ財布をポケットに入れたままだ、あわてて出す。
◆座席に座り、手荷物は足元に置けると思っていたのだが、いまはダメらしい(これはこの機種だからのよう)。乗務員の人にカバンを寄こせと言われ、下に置くからと反論したがだめだった。
◆機体も変わる。777-300というヤツだったが、なにやら座席周りは進化している。
◆まあ、そんなんで、伊丹から成田へ飛ぶ。成田はユネスコの会議でパリに飛んだ時以来だ。あの時は新宿駅(?)まで泣きながら行ったことを思い出す。待ち合わせの時間0f7df79b.JPGに間に合う成田エクスプレスに、危うく乗り損ねるところだった。ほんとうの駆け込み(わたしが乗り込むのを待ってドアが閉まった)。
◆伊丹空港に着いて、鉄道の方がよかったかな、となんとなく思っていたが、飛ぶとそうではなくなった。そう、地上を見る楽しみがある。文化庁でも後半はあんまり窓の外を眺めなくなったかもしれないが、いつも外を見ていた。日本国内なら乗ってる時間はせいぜい1時間、なんか仕事をしようとは思わない。首が痛くなるくらい外を見て楽しんでいた。だって地形は面白いから。
◆今回、伊丹は曇っていたが、上空に上が南下すると雲はまばらになり大阪が17777f11.JPG見下ろせた。大阪ドームだ、天王寺公園だ、あそこが市立大学と思っていたら、そうだ古墳を見なければ!。見える!。市立大学のほんの先、きれいな前方後円墳が重なるようにある。大仙とミサンザイ。東に向かうと、おお!河内大塚だ、次いで、岡ミサンザイ(堀が広くてけっこう目立つ)、うん?応神陵は?、なんか緑の塊がある、あれだろう。
◆大和川がよく見える。馬見丘陵は見えたが巣山などは視認できなかった。島の山も見えなかった。オオヤマトだ。あれは箸墓じゃないか。そしてよかったのは初瀬の谷だ。忍坂で二又に分かれ、北路と南路に分かれるが、それが合一し99eab372.JPGて墨坂神社のところに来る。そこから細い谷筋がしばらく続く、この谷線に感動した。ここが防御の要だよな。楯もならべるわな、と。それを抜けると宇陀の平野。そこから山、次には伊勢湾が見えたが、三重のどのあたりだったのだろう。
◆あとはひたすら海だった。途中、陸(浜)が見えたなと思ったら突先になって終わった。何年か前に行った御前岬か?そしてまた海、そして九十九里浜か、と思うと着陸態勢に入る。千葉県の田園が続く。豊かだ。台地上の新興住宅地もあるが、まだまだ台地裾部に昔の村があり、平野部はほとんど水田だ(戦後まもなくまでは、大阪府下の、河内平野も和泉平野も三島もこうだったろう)。弥生時代後期にはじまり、古墳時代後期に本格的な入植が始まり、中世・近世と、広大な平野をひたすら耕地へと変えてきた歴史を感じ、またその豊かな風景がよく残っていることに感心した。
【追記】翌26日の帰りの便はもっとよく見えた。写真をいっぱいとったが、そのうちのいくつかを掲げておこう。上から、三保の松原、伊良子岬、磐余、巣山、そして大和川が河内に出るところ、です。

横穴式石室の研究ってどうなってるのか

ead190c7.jpg◆卒論で横穴式石室をやっている者が1人いて、一緒に勉強している。まあそれにしてもわからんことだらけ、研究は細分化をきわめていて、読んでもようわからん。ざっくりと大づかみで、理解したいのだが。
◆藤木-牧野-天王山-(丸山)-石舞台-ムネサカ-岩屋山、とまあこういう変遷観がある。で丸山が欽明墓571で、石舞台が馬子262といったとたん、破綻している。石室の型式的位置が間違っているか、両被葬者のどちらかが間違っているか。
◆和田さんと新納さんの石室や石棺の変遷観はほぼ一致していると思うが、年代観は異なる。和田さんの方がオーソドックスで、牧野・天王山、石舞台を定説的年代で考え、丸山(の石室と奧棺)が7世紀第1四半期にならざるをえず、巨大前方後円墳とはみあわないが、欽明墓であると考え、堅塩媛改葬時の石室の作り替えを想定する。ほんまかいな、という意見はあろうが、理詰めの上での解決方法としての想定である。新納さんも方法論を明確にした60a86b2c.JPG上での理詰めの議論であるが、丸山(の石室と奧棺)を6世紀第3四半期に引き上げ、これを欽明墓であるとする。これは、7世紀代の横穴式石室墳の年代観、新納さんのこれまでの前方後円墳終末の時期を引き上げ、推古朝の画期を重視する議論の延長ともいえる。ただし、この年代観は従来の通説的な見解をかなり引き上げるものであり、どうも支持者は少なそうである。
◆このあたりの研究に先鞭をつけた白石太一郎氏は、やはり「牧野=彦人」「石舞台=馬子」は確実とみて、見解にぶれはない(これは否定しがたいよな)。(最近、テルチャンの説になんか言ってたように思うが、論文を思い出せない)。
143d23f7.JPG
◆さてと、わたしのチョコットした見方。馬子は稲目没後、敏達即位572年に大臣となり、推古34年626年に死ぬ。54年間大臣として君臨した。物部守屋を倒したのが587年、完全にトップに立つ。やっぱり寿墓とちゃいますか。最後の仕上げは必要だし、それが蘇我一族が集まっていたという記事であって、石室は6末~7世紀あたまにできててもいい。岩屋山式は7世紀前半でいいだろうし、文殊院西は倉橋麻呂(649没)だろう。文殊院西もあれは650年頃の石室でなくて、640年代とみるべき。
◆で、問題はそれ以前。
◆丸山=欽明、牧野=彦人、石舞台=馬子、これらは横穴式石室墳で被葬者と結びつけうる最有力資料で、かつ、その確度はかなり高い。牧野・石舞台は整合的で、そこに丸山が割り込んだ。そうなると丸山=欽明は否定される。石室の型式学的位置づけがa1cc2be3.JPG間違っているのか、特大墳での積み方を特別に考えるか、和田さんのように作り替えを考えないと、説明できない。
◆被葬者の比定の確からしさを考えると、彦人は『延喜式』のみにより、馬子の場合、「桃原」があそこかどうかの考証は知らないし、嶋大臣=島庄遺跡、そして石舞台の規模を考慮するもので、ばっちり結びつける記事があるわけではない。。欽明墓は、檜隈坂合陵に葬る記事がばっちりあり、その後の堅塩媛追葬記事もあって材料が多くあり、それにもとづく小澤さんやテルチャンの考証の蓄積によって、もっとも確かである。これを定点とすると、全体が6世紀後半に上がり、そうなると牧野・石舞台とも否定することになる。これが新納さんの見方。

◆だが、そうだろうか、3つともOKではないのか。丸山の羨道は、石舞台とはぜんぜん違う、もっ0d252cbf.JPGと古相で距離は大きい。横穴研のように、石舞台の前に置くべきだし、牧野よりも古くてよいかもしれない。図面だけでなく、実際の石の用い方、結局は写真なのだが、それも狭い空間で十分な画像はなく、全体像がわかりにくく、客観的な比較が難しいように思う(考えるところあり)。もうすこしやってみるが、丸山の石室は十分に古いのではないか。
◆かつ石の大きさや用い方は、巨石化、多段から3段・2段へという大きな流れは間違っていないのだろうが、実際には、たとえば牧野に花崗岩を運んでいく労力は飛鳥よりたいへんだろうし、また石材供給が同条件として、石積み職人がまったく同一系統でない限り、時間軸でばっさり切れないように思う。(1)調達できる花崗岩+(2)石積み工人の差を考えておくべき。
◆むしろ、流派がこちらにもあるとはいえ、石棺の方が共通指標たりうるのではないか。石室の編年は重要であることは動かないし、それが石棺の変化とも整合的であるという新納さんの方法論はまったく正しいが、どちらかというと石室の方が偏差が大きいように思う。丸山は日本一の巨大古墳で、玄室規模も大きい。したがってもちいる石材も大きくなろう。奧壁の構成が石舞台と近いかもしれないが、羨道部の石材の整い方は大きく異なる。
◆だからといって、丸山をどこまであげうるかは、総合的に考えなきゃならん。けれど、藤木の石棺より丸山前棺は古くても良い。藤木の壁体は多段だが、垂直に積み上げるあり方は、かなり牧野などとは異質であり、市尾墓山とも異なる。主流派ではないのでは?。なので、丸山が藤木より新しいと決めつけることはできないだろう。
◆丸山の石室は560年代に置けないのか、それを論証することだ。牧野・天王山は6世紀後葉、石舞台を7世紀前葉、岩屋山を7世紀前半として、丸山を6世紀第3四半期に置きうるか、である。それにしても6世紀前半の市尾墓山以降の石室と石棺をわかりやすく並べた図を見ない。自分で作るしかないか。
◆【覚】岩屋山って誰の墓か?

西国三十三所巡礼

◆今日の大学院演習で中世の地方寺院の話があり、西国三十三所の話題になった。
◆1那智山 青岸渡寺(△那智に行ったときに寄ったか記憶が定かでない)/2紀三井山 金剛宝寺 (紀三井寺3風猛山 粉河寺4槇尾山 施福寺 (槇尾寺)/5紫雲山 葛井寺/6壺阪山 南法華寺 (壺阪寺)/7東光山 岡寺 (龍蓋寺)8豊山 長谷寺9興福寺 南円堂/10明星山 三室戸寺/11深雪山 上醍醐准胝堂(醍醐寺)/12岩間山 正法寺 (岩間寺)/13石光山 石山寺/14長等山 三井寺 (園城寺)/15新那智山 今熊野観音寺 (観音寺)/16音羽山 清水寺17補陀洛山 六波羅蜜寺/18紫雲山 六角堂頂法寺/19霊麀山 革堂行願寺/20西山 善峯寺/21菩提山 穴太寺/22補陀洛山 総持寺/23応頂山 勝尾寺/24紫雲山 中山寺/25御嶽山 播州清水寺26法華山 一乗寺27書寫山 圓教寺/28成相山 成相寺/29青葉山 松尾寺/30竹生島 宝厳寺/31姨綺耶山 長命寺/32繖山 観音正寺/33谷汲山 華厳寺
◆まだまだだけど、行こうと思えば、葛井寺は近くだし、京都・大津にいけば、けっこうかせげる。総持寺や勝尾寺・中山寺など摂津の寺院はこれまで行ったことがない。

プラグイン

カレンダー

06 2025/07 08
S M T W T F S
1 3 4 5
6 9 11
13 15 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索