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人を幸せにする人になろう

2023年5月7日(日)、松前の福山城(19世紀中頃)

◆勝山館を作った武田信弘は蠣崎の婿養子となる(乗っ取り?)。それから5代。秀吉の奥州仕置き などの時期となり、その後、徳川幕府から3000石だかを認められ、松前に館を築く(ウィキ。「前身の福山館は、松前慶広の代に、松前氏が居城としていた大館(徳山館)より福山へ移城した際、1600年(慶長5年)から1606年(慶長11年)にかけて建設された。福山館は堀や石垣があり、本丸のほか二ノ丸、北ノ丸、櫓が築かれていたが、松前氏が無城待遇だったことから、正式に城とは呼ばれなかった。」とのこと)。大館というのもあるんですね。松前は松前だが、いまの福山城のすこし北のようである。
◆がコメは取れない。3000石とか7000石とか、換算というより、処遇をどのくらい相当にしておくか、というところなんでしょうか。参勤交代もたいへんで、3年ごととか配慮してもらったらしい。
◆で、天守の展示では、19世紀前半、一時期 青森県に移封されている。「なんでかいな」と思ったが、そう、ロシア船などの近接に対し、松前を幕府直轄にしたのですね。が、なんとか戻り、次は築城を命じられる(嘉永)。
◆「松前館」をベースに、高崎藩の兵学者が縄張りし、城へと変貌を遂げる。これを福山城というのだそうである。3万石だかに格上げも。グリーンタフの石垣で、石切丁場も調査されている。
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2023年5月7日(日)、白神岬

◆7日、全国的に雨だが、北海道は晴れ。朝はとくに天気が良かった。昨日も松前には寄るが、桜祭りで通常では車が入れる道路も封鎖されていた。松前に向けて再出撃。函館ICからまだ無料の有料道路を木古内まで行き、地道を松前にむかう。で、その手前の白神岬に再び立ち寄る。
◆昨日とちがって津軽半島の先端が見える。右端の突端が竜飛崎かと思ったが、違う。左側の丘陵の高い方の先端とのこと。天気が良ければ、岩木山も見えるとのこと。

2023年5月6日(土)、函館2泊目

◆福島から先は海岸に海が迫り、陸路は内陸に入る。そこを抜けると知内(しりうち)、そして木 古内となる。有料道路が木古内まではのびていて、それに乗りました。
◆で北斗市に入ると、沿岸部になにやら大きな工場。で、そこから湾内に橋が伸びている。あれはいったいなんなんだ。調べてみると、セメント工場で、山側から石灰石を運び込む8km?におよぶコンベヤーがあり。作ったセメントを湾内にのびる橋で沖合へ運び、船に積み込むのだそうです。
◆宿に帰り着き、食べに出る。昨夜よりずいぶんましで、すんなりと入れました。おっちゃんがとてもいい人で(漁師をやめてからだいぶ経つようだが)、ホッケ刺しなど、おいしくいただきました。

2023年5月6日(土)、伊能忠敬像

◆上ノ国から沿岸周りで帰ることにする。松前をゆっくり見るにはもう遅いのだが、立ち寄る。そこから白神岬。強風!。津軽半島は天気悪く見えず。
◆白神岬から東へ進むと、福島町、千代の富士のふる さとらしいですね。その吉岡というところを通過中、なにやら銅像があって、少しかがんだ姿勢で、もしかして測量か?、ということになり、しばらく先に進んでいたが引き返す。
◆伊能忠敬でした。55歳、最初の蝦夷地の測量は、渡海の時期が遅く、また測量許可の関係もずれ込み、計画通りとはいかず、ここから函館までの測量に切り替えたのだとか。伊能さんの全国測量着手の最初の起点がここ、ということらしい。【追記】間違い。この時、奥州街道を測量しながら津軽に行っているので、全国測量の起点でなく、蝦夷地測量の起点が正確。説明看板の標題もそうなっていました。

2023年5月6日(土)、上ノ国勝山館

◆江差はもっとゆっくりすべきですね。そこから上ノ国に向かう。 1996年、役所勤めの1年目でも最初の頃に出張し、勝山館を見せてもらった。
  ◆洲崎館と花沢館、この2つもめぐるべきでしたね。出張で上ノ国に泊まった時、武田信広とか、勝山館をめぐる歴史年表など、もらった資料を読んだことを覚えている。むろん、中身はすっかり忘れている。
 ◆その後、勝山館は史跡整備が進められ、ガイダンス施設もできあがっており、そこへ行く。1996年は海岸べりの旧笹浪家住宅のところから、館へ向かう道を歩いて上がっていった。が、勝山館があるのは、上ノ国の平地がとぎれ、丘陵地が海に突き出す場所で、海沿いの平地では場所はないのでしょう。勝山館のある、両側が深い谷になっている丘陵の裏側にガイダンス施設が設けられている。旧笹浪家住宅のある地点からもう少し進み、道の駅ができている手前から入る車道が整備され、ガイダンス施設へ到達できるようになっている。雨もやんでいなかったので、史跡地あるきはしなかった。
◆もらってきたパンフレット類によると、割と早くに本拠地を松前に移し、城代を置いていたようである。コシャマインの蜂起の話は1996年当時も知っていたが(15世紀中頃なんですね)、武田信広と結びついていなかった。以下、ウィキ。

 応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起。現在の北海道函館市銭亀沢支所管内にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬、コサマイヌとも呼ばれる)を中心とするアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが最終的には平定され、松前藩形成の元となった。
 製鉄技術を持たなかったアイヌは鉄製品を交易に頼っており、明や渡島半島から道南に進出した和人(渡党、道南十二館などを参照)との取引を行っていた。しかし1449年の土木の変以後、明の北方民族に対する影響力が低下すると明との交易が急激に衰え、和人への依存度が高まった。一方、安藤義季の自害により安藤氏本家が滅亡し、道南地域に政治的空白が生じた。
 そこにアイヌの男性「オッカイ」が志濃里の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生した。怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの男性を刺殺したのがこの戦いのきっかけである。
 1456年(康正2年)に発生したこの殺人事件の後、首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に和人に向け戦端を開いた。胆振の鵡川から後志の余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍はさらに進撃を続け、和人の拠点である花沢と茂別を除く道南十二館の内10までを落としたものの、1458年(長禄2年)に花沢館主蠣崎季繁によって派遣された季繁家臣武田信広によって七重浜でコシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。

2023年5月6日(土)、江差の五月は江戸にもない

◆開陽丸の後、旧郡役所の資料館に行く。2つの郡の郡役所だったそうだ。元の場 所にそのまま建ってい る よう。内装の刺繡?など、かなりお金をかけて修復しているようだ。
◆こちらでは北前船寄港地としての繁栄、ニシン漁のこと、江差追分など、江差の盛期の姿が示されている。「5月のにぎわいは江戸にもないもの」といわれる繁栄ぶりであった。横山家住宅など、ニシンを扱った大きな商人の屋敷が、海から、海岸線直交方向に、高い側に長く伸びる特徴あるものが3つほど残るようだ。入れるものもあるようだが、立ち寄れなかった。
◆旧郡役所の展示室のひとつは旧江差線にあてられていた。鉄道がなくなったのですね。ウィキによると、「江差駅―木古内駅間が2014年に廃止され、残る木古内駅―五稜郭駅間も2016年に「道南いさりび鉄道」に移管された。」とある。沿岸沿いでなく中山峠越のよう。

2023年5月6日(土)、いよいよ開陽丸

◆幕末維新がとくに好きというわけではない。どっちかというと嫌いな方。開陽丸は、日本におけ る水中考古学では著名なものだったので、一度、来てみたかったわけです。で、水中考古学が好きなのか、といわれればそうでもない。仕事でやる機会があって、その時に知り、それ以来、一度来てみたかったのです。ようやくかないました。
◆500円で入れます。明治以降、金属の値が上がるたびにブツの引き揚げがなされたのだそうですね。そんなこと、知らんかった。でも会社的には採算があわなかった、とのこと。そもそも必ずしも沈没地点が明確にはなっていなかったらしい。それが防波堤工事が行われたことで、海流の動きが変わり砂が流され、沈没船が確認されるに至る。これが1974年。そこから1980年代前半までの10年間くらいの沈没船の調査へと進んだようである。
◆韓国・木浦の新安海底での沈没船の発見が1975年というから、ほぼ同じ時期なんですね。カモメ島との接続部に、開陽丸を復元して据え、引き揚げられ保存処理された遺物を収納するとともに、展示館として公開している。

2023年5月6日(土)、乙部町の「官軍」上陸地

◆江差へ南下する。海岸べりの道路が通行止めになっていて、ナビでは迂回路が指示され、しびの岬に行くのに迂回し たのだが、この通行止めも既に長く、脇に新道ができているよう。
◆で、乙部を通過していると、官軍上陸の地とあったので、行ってみる。「官軍」というのもな~とも思うが・・・。函館戦争の経過について、詳しく知っているわけではない(開陽丸記念館でそれを学ぶことになる)。まあとにかく、1968の年初めに戊辰戦争が始まり、籠城していた会津が降参したのが11月か。その前に江戸が新政府に明け渡されたのち、榎本ら2000人が江戸を逃れ蝦夷地に渡り、函館も松前も押さえた。開陽丸の座礁沈没が11月だったか(松前城を奪われるも藩士らが江差で抵抗を続けていて、開陽丸はその支援のためにかけつけ、暴風によって座礁・沈没となる)。で、最終的に「官軍」がこの地上陸し、旧幕府側が降参するのが、翌年春のこと。で、この間、4か月ほどは戦っていないようだ。なんでやろと思ったが、それは冬場は津軽海峡が荒れ、蝦夷地に渡れなかったということのよう。
◆青森で待機していた「官軍」側が、春を待って上陸したのがここなのである。

2023年5月6日(土)、しびの岬

◆さらに北上し、安山岩の露頭へ。玄武岩なのかと思ったら、安山岩とのこと。半島状に露岩が突き出 ているが、北面が見やすい。同行の3人に地質屋はいないが、地質の話をしている。「知らんけど」。

2023年5月6日(土)、滝瀬海岸

◆翌日、レンタカーを借り、娘の下宿に行き、拾い、江差に向かう。半島を横断するルート で、新緑がとても美しい。川も護岸などされておらず自然のままで、渓流の美しさは格別である。中山峠を抜け、日本海側へ。
◆開陽丸の記念館に行くのが主目的。が、その前に北上し、乙部町の滝瀬海岸へ。調べていなかったが、たまたま引き潮で、崖下を歩くことができた。しかしこれは新しい砂礫層だな。本物の白亜海岸は、以下、ウィキ。

チョークは未固結の石灰岩のこと。イギリスのドーバー海峡周辺で崖をつくる厚い地層のことで、円石藻の化石(炭酸カルシウムのココリス)から成る。日本語では白亜という。日本では地層が堆積した年代から、白亜紀の語源となったほか、黒板に用いるチョークの語源にもなっている。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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