人を幸せにする人になろう

2月23日、用明陵と推古陵、ええもの見ました

◆なかなかよかった。また、後日、感想等を書き込むことにします。雨も用明に入る直前、パラパラっときた84a9b950.JPGが、そこまでで、ほとんど影響なく見て回ることができた。いろんな人に助けてもらい、無事、終わりました。
◆いろいろ考えたこと、当日、安村さんや森本さんにもぶつけてみた。まず、用明陵は587年に仮埋葬後、造営に着手し、593年には整い春日向山に埋葬した。一方、用明のあと、物部戦争を経て、崇峻が即位し、たぶん赤阪天王山の造営に着手する。つまり大王墓として、この2基はほぼ同時進行で進められたことになる。【追記】竹田墓もだろう。
◆敏達は仏教よりも神祇を重んじたという。そういうことからしても、伝統的な前方後円墳にこだわったであろう。前方後円墳の停廃は歴史的必然ではあろうが、敏達の死と蘇我系用明の即位こそが、それ88b6b1b3.JPGに踏み切る条件を用意したのだろう。敏達没後、テルチャンによれば、まず平田梅山への埋葬を取りやめる。これについても、朝廷内でもめたはずだ。息子の彦人がいる、まだ守屋もいる。そうした対立も、物部戦争の引き金になっているのかもしれない。
◆やっぱりシシヨ塚ですな。TK43は埋葬時期であって、造墓着手は用明陵や崇峻陵よりも明らかに先行しよう。いちはやく方墳を造営した、そしてむろん横口式石槨をも導入した被葬者、いったい何者か?
◆用明陵はピラミッド、推古陵は階段式ピラミッドだった。山田高塚は628年に推古が大野丘に一端埋葬された後、再度、造営したもので、改葬時期はわからないものの、舒明朝初期として、用明陵とは40年くらい離れている、ということも改めて認識した。この間、方墳はかなり定着したであろう。階段式ピラミッドへ、というのも、40年の時間差を反映しているようにも感じた。
◆それと高塚古墳東石室の羨道側壁の石材を見ることができた。切石だ。岩屋山式石室の年代資料になる。一方で、植山西石室をいつ作ったのかも、裏返しで問題になり、切石とちゃうやないか、ということにもなる。前にも書いたが、植山の墳丘をからめての理解が不可欠なのだが、ようわからん。
【追記】下の写真は茂木先生から送っていただきました。

プラグイン

カレンダー

02 2024/03 04
S M T W T F S
1 2
3 5 8 9
10 12 14
18 20 21 22 23
29 30
31

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索