人を幸せにする人になろう

五代友厚の中之島屋敷

◆博物館実習でやっている古文書整理で、2週間前から鴻池文書に手をつけている。図面が出てきて、屋敷の平面図で、署名が五代トヨである。明治20年。五代友厚がM18に死んで、その屋敷の売却関係の書類かなと。一緒に宇和島藩士で大阪財界で活躍する土居通夫関係の文書も。五代は、両替商の鴻池が傾いた時、誰か推薦してくれと頼まれ、土居をおいてほかになしと送り込んだ。
◆月曜日に大学史運営委員会に出たが、予算がたったの40万円くらいと、半分以下に(人件費は別)。大学には大学史資料室の活動など、まあ関心はないわけだ。紀要とかぜんぶ電子化でいいですよねとばっさり切っている。
◆そこで、五代の好きな人は多いので、大学史が新資料として発表してはどうだろうか。
◆脇塚のメタシェは完了。埴輪片のレボポイントは、表裏のスキャンは終わり、これを合体させるために、同じポイントを打つところまでたどりつく。が、博物館実習の準備で、今日はここまでかな。

2025年7月16日 実習の準備を

◆5限の博物館実習での古文書整理の今日は最終回。先週までのデータ整理と、今日の1回でどう区切りをつけるかを考えないといけない。
◆科研シンポのパワポづくりは、月・火の空いている時間にやってきたが途中。土曜の夜に、相模原に行き、息子夫婦と食事をすることになっている。シンポ当日は、朝、相模大野から茨木キャンパスに向かう。まあ、金・土と、最後は日曜日の行きの新幹線もあるので、なんとかなるだろう。
◆いま、脇塚のメタシェイプと、レボポイントでの埴輪片のモデルづくりを2台のノートPCで並行してやっています。メタシェは片手間でできる。がレボポイントははじめてなので、マニュアルを印刷して、自力で何とかやろうと奮闘中。

脇塚

◆今年修論を書く院生のテーマの関係で、T字形石室の脇塚古墳に行く。なんとかたどり着くが、うっそうとしていて、どこからどう侵入していいのかわからない。先頭に立って、いちおう山道らしきものがあるものの、篠竹等が両側から密生してふさがっているのを開いて進んでいくが、石室開口部にでくわさない。違うとなって戻る。舗装道路から旧の鶏舎を抜けたところに実は看板があった。Uさんがメタシェの写真撮影。
◆しかしまあ、石室もレボポイントでしょう。カミサンは群馬の研究室旅行の時、伊勢塚などでやってまして、そのデータがあります。部分部分なので、これを合成してみよう。

三陵墓古墳群

◆都祁盆地(都介野)。なんどか通過しているが、この古墳群に行くのははじめて。奈良市である。西古墳:円墳:5世紀前半、東古墳110m:5世紀後半、南古墳:6世紀代とのこと。闘鶏国造との関連性が指摘されているとのこと(ウィキ)。
◆東古墳は前方後円墳とあるが、これそう言っていいのかな。前方部が1段で、これは規制された帆立貝だろうと思う。が全体として前方部は長いので、前方後円墳としているのだろう。が、こんな前方後円墳はないし・・・。

名張の遺跡

◆美旗古墳群はひととおり国史跡になっているんですね。少しずつ整備のための調査を進めてほしいものです。女郎塚のまわりはグルリと子供園になっていて、堤はなかったのかと思ってしまう。子供園の駐車場を後円部の後まで進んだところに、柵が空けてあるところがあり、渡り土手から中に入ることはできる。
◆毘沙門塚は、くびれ部に渡り土手があるが途切れていて侵入できない。今回は、田んぼの用水関係で使っておられる角材やコンクリートブロックなどを拝借してステップを作り、全員がなかに入った。大きな盗掘穴があり、石室天井石が2石横たわっている。この途切れ、なんとかしてほしい。
◆夏見廃寺の展示館は有料だった。大伯ヒメミコが建立したものかということになっているんですね。お一人の方がおられ、展示室でいろいろ話をする。戦後?に地元がセン仏を掘りだす?、それが京都大学に入り、保管されていたらしい。それを名張市の発掘を経て国史跡になり、展示館を作る際に、「寄託」されたよう。実物が展示されている。
◆郷土館は名張市内でも奈良に近い方に進んだ廃校になった小学校の転用施設。埋蔵文化財センターでもあるようだ。いい展示施設ですよ(2回目)。ここにも事務室に1人おられ、前方後円墳で片袖の琴平山古墳の石室に入れないかお尋ねしたが、入れないとのことでした。施設の新築はきびしいなかで、教育委員会としては廃校利用になるのであるが、そう中心部から遠くないとはいえ、どのくらいの人が足を運んでくれるのか、もったいないと思う。

女郎塚

◆Sさんの労作である空中レーザ陰影図にもとづき復元をしてみました。「設計原理論」で説明できるSさんの見方に反論できるわけではない。

殿塚古墳は五社神型か

◆美旗古墳群最古の殿塚古墳は前方後円墳。はじめて行きました。現代の墓地は周溝部に相当するように思われる。後端側も丘陵切り離しの周溝状遺構が残る。が測量図は墳丘部とその外側で、周溝外側におよんでいない。
◆これが帆立を中心とする中期の美旗古墳群と一体であることは間違いない。最初が前方後円墳。そりゃ佐紀段階ですよ。和泉ほか、全国で同じ。ではその殿塚古墳の墳丘のモデルは。なかなか復元が難しいのであるが、それでもやってみて段築を描いてみないとイメージが生まれない。3段の根拠はあまりないが、90m超えで普通は3段築成でしょう。やってみると、やはり五社神型かな。

2025年7月13日 名張見学会 記事№6700

◆美旗駅957着電車。こっちはレンタカーで美旗駅。殿塚、女郎塚、毘沙門塚、馬塚。貴人塚、赤井塚。昼飯。夏見廃寺。名張市郷土資料館。三陵墓古墳群(西・東)。脇塚古墳。桜井駅で解散。

レボポイント

◆久津川の埴輪、メタシェのデモをこないだやってもらったところだが、フォトグラメトリより、このレボポイントを導入したい。少し前の記事に書いたもの。本日、三田に行き、埴輪を置いてどうやるのか、ひととおり見た。断然、簡便です。
◆(1)距離を計算していてスケールを入れる必要がない。(2)回転台に埴輪片を置き、表でまわしてモデルを保存、裏でまわしてモデルを保存、なんなら破面部をさらにやって、これらのモデル上に同一点をマークして、合体ボタンを押せばひとつの破片モデルができあがる。このデータをエクスポート。そこから先の仕事はまた勉強ですが、ひとまず自分で、15分程度で1点作り上げる操作ができるようになろう。

1964年

◆朝日新聞に掲載される古い写真はいつも見ている。こないだあったものから1枚。これ、映画「天国と地獄」だったかの場面を思い出す。犯人は下町にいて、高台の上の豪邸をながめ、子供を誘拐する話だったかな。それとは違うが、昔ながらの家屋とコンクリート建物の団地の対比が、実に鮮やかである。大きな社会の変化は明治でもなく、終戦でもなく、高度経済成長にあることがよくわかる。1964年あたりが転換期なんだろう。生まれた年です。
◆枚方宿も1970年代前半まで、まだ昔ながらの民家がたくさん残っていた頃の写真を思い出す。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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