人を幸せにする人になろう

9月になりました

◆8月23日(日)くらいから暑い日が続いています。みなさま、体調はいかがでしょうか。
◆9月になりました。精神的にフラフラしておりますが、ま、仕事をぼちぼちとやっております。

大歴考古部会9月例会

報 告:木村祐熙
演 題:埴輪生産体制からみた馬見古墳群の構造と特質について
日 時:2026年9月25日(金)19 時~
会 場:阿倍野市民学習センター 第1会議室(あべのベルタ3階。地下鉄・JR 天王寺駅/近鉄阿部野橋駅より徒歩8 分)
[報告者コメント]
近年は埴輪生産・供給体制に焦点を当てて大型古墳群の造営過程や階層構造を探る研究が多く蓄積されてきている。本報告は馬見古墳群を対象に、古墳時代前期から中期末にかけての埴輪生産体制から馬見古墳群内の階層構造や各古墳の関係を明らかにすることを目的とする。また、古市・百舌鳥古墳群などの畿内の大規模古墳群の中で馬見古墳群がどのような特徴を持つ古墳群として位置づけられるのかも考察していきたい。
[参考文献]
木村理 2019「埴輪生産からみた馬見古墳群と畿内大型古墳群の特質」『埴輪論叢』第9号

前期難波宮

◆聞くところによると、前期難波宮について、考古学の世界でも天武朝とする見解は根強いのだそうだ。2000年代に入って固まったとみていたが、それは大阪側の見方なんだと。これ自体は、古い見方が払拭されるには時間を要するということだろう。いずれ解消しよう。
◆尺度の話。1尺25㎝の南朝尺の存在は甘粕先生の業績。それを掘り起こし、喚起したという意味で、自分の役割もあったか。ま、ほぼ知られていなかったわけだ。建物の方が説得力はあり、M上さんの業績が大きい。そして、飛鳥寺や山田寺の柱間寸法が南朝尺であると明らかにしたH瀬さんの論文が発表されている。
◆唐尺の導入時期はいつか。H瀬さんは、山田寺では641年創建時は南朝尺で、山田寺での唐尺使用は天智期とし、その間の7世紀中頃に導入があったとする。1尺29.2㎝のやや短い唐尺が使われている前期難波宮に言及してほしかったですね。もしかすると孝徳期と認めない立場なのかもしれません。
◆O澤先生に送っていただいた終末期古墳の本を見て、ある人が、H瀬論文にもとづき唐尺導入は天智期以降だから、前期難波宮は孝徳期ではありえない、天武期とする。H瀬氏の7世紀中頃の導入とする見解を無視した荒っぽい議論である。唐尺導入が7世紀中頃とすると、唐尺使用の前期難波宮が孝徳期の難波長柄豊碕宮であることが否定されるわけではない。成り立ちうる、と理解する。
◆さて、岩屋山古墳である。石室の設計が唐尺ということは認められるようになるだろう(その前の横穴式石室の設計は高麗尺というのはダメと反省している)。問題は、唐尺導入時期にかかわり、岩屋山古墳の年代である。もう気力もないので頑張れないが、630年代から640年代が移行期というのはアリだと思っている。

父のこと

◆このあいだ実家の片づけで、アルバムなど、いくつかを持ち帰った。そのなかに父親の卒業証書がある。1941年3月尋常小学校3年修了、1944年3月国民学校初等科修了12歳。1946年3月国民学校高等科修了14歳。
◆学制が変わるタイミングも調べる必要がある。そして京都府立高校卒。一方、郵政省の学校に行っているはず。そういうことも、チラチラとは聞きながら、ちゃんと知ることなく。

倭国王墓の系列論は生き残るか

◆自分がやってきたことが、ことごとくダメ、というのはつら いもの。三角縁ダメ、前方後円墳ダメ、尺度論ダメ、などなど。
◆そのなかで、前方後円墳の設計を緻密に分析する若手の研究でも、オオヤマト段階の2系列は認められているようだ。ただしこれはわたしのオリジナルではない。桜井茶臼山とメスリ山の測量をしたことくらいは残るか。その若手の研究でも、2系列が何を意味するのかという言及はない。茶臼山が王墓でないという見方は、鏡100面以上の出土の前に、考古学的には困難になっている。また西殿塚との並列は明らかだと思うのだが。
◆それはそうと中期です。墳丘個々の緻密な分析で設計が追求され、2系列論は完全否定である。設計原理のもとで、個々の王墓で個々の設計により生み出され、2系列など存在しない、と。基本的には引退して、黙っておこうと思う。
◆が、ちょっと思い直して。少し言及した周濠の枠組みである。図は、左が津堂(緑)と石津(ピンク)、右が津堂(緑)と仲津(オレンジ)。周濠の枠取りが完全に異なる。石津の周濠肩部位置は、津堂より少し内寄りだが近似する。周濠は広い、濠底も広い。が、仲津はかなり狭い。
◆仲津の前方部相対長はやや長い。これが墳丘において別系列とみる根拠だが、そう顕著であるわけではない。いまの図は自分の復元案シルエットで重ねたものだが、N納さんやS原さんの復元図でやってみる必要がある。しかし、今日、仲津も石津も、誰がやっても3段分の墳丘復元は異ならなくなっており、結果は変わらないだろう。津堂と石津は前方部相対長が一致するのに対し、仲津の相対長は、やはり長い、のである。
◆それに加えて、周濠の差を加味すると、津堂→石津はいいと思うが、仲津はここには含められない。仲津の下段は高く、つまりは周濠が深いということだ。この先、仲津が特殊例なのかどうか、つまりはあとに続くものがあるのか、やる必要がある。つまりは大仙をやる必要がある。

ありがとう浜村淳です

◆大阪人としてはMBS。車に乗っている時はMBS。ラジコで職場でも、というわけではない。「ありがとう浜村淳です」は、平日の朝8時から10時までやっていた。それが2024年3月で終了、そのあと土曜日の1日となる。それも、この2026年9月末をもって終了する。今日8月29日、三田の関西学院から森之宮への移動中、映画サロンでは「夜の大捜査線」を紹介していた。91歳、すごいですね。

ブラジル移民1900年代から1960年代

◆何日か前の夕刊。ブラジル移民の記事があった。ブラジルへの移民 は1908年から始まるという。明治だ。出航地の神戸に、国立移民収容所(なんという名前でしょう)が1928S3年にでき、1971S46年に閉じたという。今は、神戸市立海外移住と文化の交流センターとなっている。記事に取り上げられた方は、1957年5月に神戸からブラジルに出発した。
◆自分の生まれが1964年で、1957年は7年前に過ぎない。むろん故郷を離れたくて離れるのではない。戦後の困窮者対策として、ブラジルの労働力不足など需要があることから、政府が募った政策だったのだろう。経済成長とともに終わっていく。

もひとつ川邊里の推定地

◆2案あることを知る。九大キャンパスの発掘調査で、その地が川邊里で、保存問題の時に、戸籍との対応が主張されていたと記憶する。
◆最後、昼食を取り、学研都市駅に戻る。13時までには戻る必要があった。新町遺跡は国史跡になり、展示館もあるようだ。志登支石墓もある。今回は半日くらいしかなかったので、またいずれ。
◆話は変わるが、智辯和歌山が優勝したのが、昼飯中の12時半くらいだった。

井田原開古墳

◆この「開」というのが、江戸時代の〇〇新田の意味で使われているようだ。まんなかが、バッコンとやられてますね。内行花文鏡が福岡市博にあるという。前方部はこれでいいのでしょうか。

図録から

◆買い求めた図録から。まずは江戸時代以降に埋め立て新田開発が進 む前の地形に、遺跡を落とした図を出しておく。志摩はほぼ島に近く、両側から湾が入り込み、港として適地だったんだろう。
◆魏の使者が常駐するところ、というのは、どこにあるんですかね。伊都国の中心部なのか、港の近くなのか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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