人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
大歴考古部会9月例会
報 告:木村祐熙
演 題:埴輪生産体制からみた馬見古墳群の構造と特質について
日 時:2026年9月25日(金)19 時~
会 場:阿倍野市民学習センター 第1会議室(あべのベルタ3階。地下鉄・JR 天王寺駅/近鉄阿部野橋駅より徒歩8 分)
[報告者コメント]
近年は埴輪生産・供給体制に焦点を当てて大型古墳群の造営過程や階層構造を探る研究が多く蓄積されてきている。本報告は馬見古墳群を対象に、古墳時代前期から中期末にかけての埴輪生産体制から馬見古墳群内の階層構造や各古墳の関係を明らかにすることを目的とする。また、古市・百舌鳥古墳群などの畿内の大規模古墳群の中で馬見古墳群がどのような特徴を持つ古墳群として位置づけられるのかも考察していきたい。
[参考文献]
木村理 2019「埴輪生産からみた馬見古墳群と畿内大型古墳群の特質」『埴輪論叢』第9号
前期難波宮
◆聞くところによると、前期難波宮について、考古学の世界でも天武朝とする見解は根強いのだそうだ。2000年代に入って固まったとみていたが、それは大阪側の見方なんだと。ま、それ自体は、古い見方が払拭されるには時間を要するということだろう。いずれ解消しよう。
◆尺度の話。ひとまず1尺25㎝の南朝尺の存在は、甘粕先生の業績。それを掘り起こし、喚起したという意味で、自分の役割もあったか。ま、建物の方が説得力はあり、M上さんの業績が大きい。飛鳥寺や山田寺の柱間寸法が南朝尺と明らかにしたH瀬さんの論文は意義深い。
◆横穴式石室の高麗尺はダメといまは反省している。それはともかく、で唐尺の導入時期はいつかと、H瀬さんは、山田寺では創建の641年直後の時期は南朝尺で、山田寺での唐尺使用は天智期とし、その間の7世紀中頃に導入があったかとしている。1尺29.2㎝のやや短い唐尺が使用されている前期難波宮に言及してほしかったですね。もしかすると、前期難波宮を孝徳期であると認めない立場なのかもしれません。
◆O澤先生に送っていただいた終末期古墳の本を見て、ある人が、H瀬論文にもとづき唐尺導入は天智期以降だから、前期難波宮は孝徳期ではありえない(天武期)とする。これはまずH瀬氏の7世紀中頃の導入とする姿勢を読み取らない荒っぽい議論である。前期難波宮が孝徳期の難波長柄豊碕宮であるとして、唐尺が使用されていることは、H瀬論文からも否定されるものではないわけだ。しかし世の中は、まだここまでみなが認めるわけでもない、ということのようである。
◆さて、岩屋山古墳である。唐尺ということは認められるようになるだろう。前期難波宮はいつかともかかわり、岩屋山古墳の年代の問題である。もう気力もなく頑張れないが、630年代から650年前後が移行期というのはアリだと思っている。
◆尺度の話。ひとまず1尺25㎝の南朝尺の存在は、甘粕先生の業績。それを掘り起こし、喚起したという意味で、自分の役割もあったか。ま、建物の方が説得力はあり、M上さんの業績が大きい。飛鳥寺や山田寺の柱間寸法が南朝尺と明らかにしたH瀬さんの論文は意義深い。
◆横穴式石室の高麗尺はダメといまは反省している。それはともかく、で唐尺の導入時期はいつかと、H瀬さんは、山田寺では創建の641年直後の時期は南朝尺で、山田寺での唐尺使用は天智期とし、その間の7世紀中頃に導入があったかとしている。1尺29.2㎝のやや短い唐尺が使用されている前期難波宮に言及してほしかったですね。もしかすると、前期難波宮を孝徳期であると認めない立場なのかもしれません。
◆O澤先生に送っていただいた終末期古墳の本を見て、ある人が、H瀬論文にもとづき唐尺導入は天智期以降だから、前期難波宮は孝徳期ではありえない(天武期)とする。これはまずH瀬氏の7世紀中頃の導入とする姿勢を読み取らない荒っぽい議論である。前期難波宮が孝徳期の難波長柄豊碕宮であるとして、唐尺が使用されていることは、H瀬論文からも否定されるものではないわけだ。しかし世の中は、まだここまでみなが認めるわけでもない、ということのようである。
◆さて、岩屋山古墳である。唐尺ということは認められるようになるだろう。前期難波宮はいつかともかかわり、岩屋山古墳の年代の問題である。もう気力もなく頑張れないが、630年代から650年前後が移行期というのはアリだと思っている。
父のこと
◆1941年3月尋常小学校3年修了、1944年3月国民学校初等科修了12歳。1946年3月国民学校高等科修了14歳。実家から持ち帰ったもの。
倭国王墓の系列論は生き残るか
◆自分がやってきたことが、ことごとくダメである、というのはつら
いものです。三角縁ダメ、前方後円墳ダメ、尺度論ダメ、などなど。
◆そのなかで、前方後円墳の設計を緻密に分析する若手の研究でも、オオヤマト段階の2系列があることは認められているようだ。ただしこれはわたしのオリジナルではない。桜井茶臼山とメスリ山の測量をしたことくらいが残るか。一方で、若手の研究でも、2系列が何を意味するのか、という本質論への言及はない。茶臼山が王墓でないという見方は、鏡100面以上の前に、考古学的には困難になっているように思う。王墓でないと否定できないとして、また西殿塚との並列は明らかだと思うのだが。
◆それは措いておいて、中期です。墳丘は緻密な分析で、個々に設計され、系列論は完全否定である。大きな変化の動向に即して、個々の王墓での個々の割り付け設計にもとづき生み出されていて、2系列など存在しない、とされる。基本的には引退して、黙っておこうと思う。
◆少しだけ思い直して。ちょっとは言及してきた周濠の枠組みについて。図は、左が津堂(緑)と石津(ピンク)、右が津堂(緑)と仲津(オレンジ)。周濠の枠取りが完全に異なるわけです。石津は、津堂より少し内寄りだが、ほぼ肩部位置は近似する。濠底は広い。
◆仲津は、前方部相対長がやや長いというのが墳丘から別系列とみる根拠だが、さほど大きく違わないようには見える。今日的には、仲津も石津も誰がやっても3段分の墳丘復元は大きく異ならなくなっている。自分の復元案のシルエットで重ねているので、N納さんやS原さんの復元図でやってみる必要があるが、そう変わらないだろう。津堂と石津において前方部相対長が一致するのに対し、仲津の相対長はやはり長いのである。
◆それに加えて、周濠の差を加味すると、津堂→石津はいいと思うが、仲津はここには含められない。仲津の下段は高く、つまりは周濠が深いということだ。この先の検証は、仲津が特殊例なのかどうか、つまりはあとに続くものがあるのか、ということ。それで大仙の評価も変わってくる。
◆そのなかで、前方後円墳の設計を緻密に分析する若手の研究でも、オオヤマト段階の2系列があることは認められているようだ。ただしこれはわたしのオリジナルではない。桜井茶臼山とメスリ山の測量をしたことくらいが残るか。一方で、若手の研究でも、2系列が何を意味するのか、という本質論への言及はない。茶臼山が王墓でないという見方は、鏡100面以上の前に、考古学的には困難になっているように思う。王墓でないと否定できないとして、また西殿塚との並列は明らかだと思うのだが。
◆それは措いておいて、中期です。墳丘は緻密な分析で、個々に設計され、系列論は完全否定である。大きな変化の動向に即して、個々の王墓での個々の割り付け設計にもとづき生み出されていて、2系列など存在しない、とされる。基本的には引退して、黙っておこうと思う。
◆少しだけ思い直して。ちょっとは言及してきた周濠の枠組みについて。図は、左が津堂(緑)と石津(ピンク)、右が津堂(緑)と仲津(オレンジ)。周濠の枠取りが完全に異なるわけです。石津は、津堂より少し内寄りだが、ほぼ肩部位置は近似する。濠底は広い。
◆仲津は、前方部相対長がやや長いというのが墳丘から別系列とみる根拠だが、さほど大きく違わないようには見える。今日的には、仲津も石津も誰がやっても3段分の墳丘復元は大きく異ならなくなっている。自分の復元案のシルエットで重ねているので、N納さんやS原さんの復元図でやってみる必要があるが、そう変わらないだろう。津堂と石津において前方部相対長が一致するのに対し、仲津の相対長はやはり長いのである。
◆それに加えて、周濠の差を加味すると、津堂→石津はいいと思うが、仲津はここには含められない。仲津の下段は高く、つまりは周濠が深いということだ。この先の検証は、仲津が特殊例なのかどうか、つまりはあとに続くものがあるのか、ということ。それで大仙の評価も変わってくる。
ありがとう浜村淳です
◆MBSで平日の朝8時から10時まで。それが2024年3月で終了、そのあと土曜日の1日となる。それも、この2026年9月末をもって終了予定である。今日、三田の関西学院からの帰り、映画サロンでは
「夜の大捜査線」を紹介していた。91歳、すごいですね。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。