人を幸せにする人になろう

再び阪神尼崎駅

◆まあ寺町の有名な本興寺などに寄ってもいいのだが(通過)、前にあましんの記念館などを含めて、歴史学ハイキングで来たことがあるので、本町商店街に。これも博物館で、取り上げられていた画家の実家は、別の場所にあった戦前までの商店街の呉服屋だったらしいが、すっかり空襲でやられ、戦後、阪神尼崎駅北側に、新たに本町商店街を作ったのだとか。それを見て「行ってみよう」と。
◆まあ人が多い。シャッターが閉まっているところも少なく、現役バリバリの商店街です。ちょこ ちょこ買ってみました。昼間から(午後ですが)吞みたいですね。今度は、近鉄から電車で乗り込んでみたいもの。

ユニチカ記念館

◆探し求めて行くが、尼崎市が買い取って活用しようとしているようだが、まだ未公開のよう。人を入れるには、耐震工事だとか、修復工事が必要なんでしょう。安満遺跡の京大農場のように、レストランはどうか。

映画「あまろっく」

◆JR尼崎駅前のQずモールに行く。あまろっく、面白かったですよ。そこで食事。JR尼崎駅前の過去をあまり知らないが、カミサンは知っているとのことで、ぜんぜん変わったと。新しいマンションがガンガン建っている。まあ、便利なところやろね。そこで一枚、西方面の写真です。
◆尼崎市の人口は45万人だとか。そりゃ財政規模もけっこうなものやろね。思い出した。博物館の展示で、クボタの鋳鉄管を作っている職工が、S44年に表彰されたという、尼崎市作成の映像が流れていた。

産業資料展示室

◆この学校自体が、以下、HPより。

 建物は、1938(昭和13)年に尼崎市立高等女学校として建てられた歴史的建築物で、建設地は、尼崎城の本丸跡に当たります。
 市立尼崎高等学校、城内中学校、成良中学校の校舎として歩み、学校統合によりその役割を終えた後は、1階部分のみを文化財収蔵庫として活用してきましたが、2018(H30)年度着工のリニューアル工事により歴史博物館(1階の一部分は夜間中学校を併設)として、2021(R2)年10月10日に開館しました。

◆建物を出て、産業資料展示室に行く。 紡績会社の統廃合、ちゃんと勉強せなあきません。発電所、製鉄所、尼崎の沿岸大工場も、だいぶ様変わりをしたのですね。どことも似たようなものだが、工場が閉じるという時、歴史資料として何を残すか、それを働きかけるかどうか、それによってだいぶ変わってきますね。

2024年8月25日(日)尼崎

◆24日(土)、なんとか、途中までやっていたレポートと試験答案を読み、前期の採点をしてしまう。セーフ。この日、浜村淳です土曜日で~すの映画サロンで、ある映画を紹介していたのだが、その関係で映画「あまロック」を知る。帰ってきて調べると、尼崎で11:30から上映とある。なので、日曜日は、前から行けていない尼崎の博物館に行き、映画を見に行くこととなる。
◆博物館着は8:50。学校を転用したもの。前から埋蔵文化財関係の収蔵庫であり、また文献史の方の資料館であったものを、尼崎市立歴史博物館としたもの。学校も半分まだやっているような・・・。阪神尼崎駅の江戸時代以来の城下町の、本丸東側の二の丸地区にある。むかいの警察署も、無人のようだが、昭和はじめくらいの建物で残しているものと理解する。
◆3階の企画展示室が、近世絵図と画家。ともに面白かった。2回が常設展示で、考古から始まり、たこつぼが出迎えてくれる。武庫之荘遺跡の独立棟持柱建物の柱根あり。 三角縁も1面あり。水堂古墳、そうやった、あったな~、と。そして園田大塚山古墳。古代は猪名寺関係。6室あったのかな、近代・現代まで充実している。

2024年8月17日(土)河内大塚山古墳

◆松原市にできた西日本一の規模というホームセンターに行く。カミサンが、8月26日からの風洞実験に使う物体に使う、ネットで買うより、早く手に入れたい器具があるかどうか見に行ったのだが、なかった。
◆で、公大に向かうと、サイゼリヤを過ぎたところの交差点名が「河内大塚山古墳」になっているではないか。でパシャっと1枚。こういうのも世界遺産の効果なのでしょうか。河内大塚山古墳は、造山に次ぐ規模でっせ。全国5位!。

2024年8月23日(金)久津川

◆言い忘れたが、もう1か所、前方部側辺の渡り土手確認の深掘りもやりました。これ木曜日だったか。これもうまく掘削してもらい、渡り土手がないのは残念なことですが、「ない」という裏が取れたのはよかったと思う。
◆最後、金曜日。草刈り機を持ち込んで、草を刈っていた。で、前方部コーナートレンチが思いのほか削平されているのを承け、城陽市さんの意向で、側辺深掘りトレンチの位置で、テラス面を出す調査区を設定することになる。23日(金)の午後後半、深掘りトレンチの埋め戻しもおよそ終わり、この新たな調査区の機械掘削にかかる。狙い通り、より本来の位置に高いテラス面と、それに続く下段斜面が出てきて、最後はまた思い切り発掘をした。
◆よう働いた1週間でした。

2024年8月21日、久津川

◆20日(火曜日)。堤部分のトレンチの人力掘削も始まる。この日から、公大はE大学ミュージアムのY先生の集中講義なので、朝、頭の部分だけ顔を出し、現場に向かう。この日は、前方部側辺深掘りトレンチの掘削が始まる。GL、つまりは周濠埋没の高さが北側より低いので、予定の底面まで4m下ではなく3.5m程度だが、今年はこうした深掘りトレンチに学生を入れるのは危険なので、機械掘削でサッと出し、写真とメタシェイプで記録を取り、すぐに埋め戻してしまうことにしたもの。
◆写真は21日(水曜日)の写真。この日、Y先生と考古の院生・学生の呑み会としたので、15:30には現場を出て、4限終了の16:30には公大のいるように帰らせてもらう。
◆で、検出と記録は22日(木)にずれ込む。21日も泥だらけになって掘ったが、22日も思い切り発掘してました。学生が入るのは翌週なので、機械掘削に来てくれているのは、K君とI君など。まあ、細かく書くとまた怒られるので省略するが、生きている葺石を出し、ないところの地山斜面出し、濠底に礫敷のようにそこそこ密に出ていた石を始末し、なんとか掘り上げた、ぞ、と。これが15:15。この日も、集中講義のY先生と日本史教員との懇親会なので、15:30に現場を出る。無事、記録作成を完了したとのことです。めでたし。

2024年8月19日、久津川機械掘削始まる

◆前日に測量器材を積み込む。朝行って、測量しようとするとターゲットがない。あほ。2時間かけて取りに行き、戻り、昼となる。いちおう基準点測量は終わる。
◆前方部南東コーナー部の掘削から始める。想像以上に墳丘は削り込まれており、ゴミ捨て場状態であるが、旧耕土が出てきて、その下はすぐ地山となり、めでたくコーナーが入る。削られた分、肩部の位置がそれぞれ外側寄りとなるため、掘削範囲ぎりぎりに近いが、まあなんとか。

そのあと、がんこ六三園で

◆がんこ寿司和歌山六三園というところに行く。以下、ウィキ。

和歌山市堀止西の2,000坪という広大な敷地に、昭和3年頃に建築されたこの建物は、大正から昭和初期に株の相場師として活躍した松井伊助の別邸です。橋本の学文路出身の松井氏は「相場は世間の人さまに喜ばれながら儲けるもんや。嫌われて儲けたらあかん」と和歌山の米穀仲買問屋だった父に教えられ、13歳で大阪に奉公に出た後、相場師として巨万の富を築きました。米暴騰時には悪党に敢然と戦いを挑み、莫大な損失を抱えるも正義の味方として庶民から称賛を浴び後世に名を残した人物です。松井氏の63歳の祝いに完工したといわれる六三園は、戦後米軍に接収されマッカーサーが指揮をとる指令本部としても使用された時期もありました。その後、和歌山銀行のオーナーだった尾藤家の屋敷となり、一部で「六三園」という料亭が営まれていました。

◆で、その庭に大阪城石垣の天端の石らしきものがある。 刻印もあって、調べればどこの石かわかりそうに思う。そこの天端の石、欠落しているかな。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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