人を幸せにする人になろう

2025年11月3日(祝)三重見学会

◆翌日、9時集合だったか。津城をざっと見て、ミエムの速報展。
◆まずは企画展示室に入ると、手前に地域展があり、奥が列島展だった。地域展では伊賀の古墳の資料がならんでいた。これ、図録を作ってほしかった。8頁もののリーフレットのみ。もったいない。プリントパックでいいのに、と。で速報展。
◆次いで、常設展でなく基本展示室という名前だったか。前に来た時は、あんまり面白くなかったという印象をもってていた。が、こういう自然史系と人文系を融合的に展示するあり方も、今回はけっこう楽しめました。まあ、不満は考古系はわずかという点だったんでしょうね。それはそれとして、廻船の話や、御師など、いろいろと勉強になる。

まずい遅刻する

◆話が盛り上がり、時計をチラチラ見始める。そろそろ出ないと、と。ようやく切り上げて、国道で南下し三重大学入口に着く。が、今日は学園祭。立ち番の学生に、大学の駐車場が使えない、附属病院の駐車場に置いてくださいと言われる。で、完全に逆回りをして、ぐるっと一周し、駐車場に到達。残り10分もない。いまどこや、会場はどこやと確認しつつ、足早に開催棟をめざす。会場となっている建物の3階にすべりこんだのは1分前を切っていたか。
◆やれやれ、大幅な遅刻をせずに済んだ。
◆終了後、津駅前で懇親会。3時間近くやってたのかな。でまだ21時。4人で2次会に。

伝統工芸館

◆次いで伝統工芸館に行く。伊勢の墨と型紙のふたつを取り上げたもの。展示、作品ギャラリーがあり、また型抜きの体験ができる。ラッキーなことに、墨でなく、型紙切りの技術をもつ方の実演の日であった。この方には、結局手を止めてしまうことになったが、けっこうな時間話をうかがうことができた。
◆切り方にもいろいろあり、半円形の彫刻刀をくるりと回して円形に抜く作業をされていた。切り抜いた、柿渋色の0.5mmくらいの円形が散らばっている。われわれより上 の世代は型紙で食っていた人たち。しかしいまは和服を着る人が少なくなるとともに、営業的にやっていけるほどの恒常的需要はない。0でもない。このままでは着物を伝統的方法で染めるための型紙が衰退してしまう。その技術を守っていこうという有志のみなさんが、それぞれ別に職をもちつつ技を競い、染色用ばかりでない使い方なども模索しながら、技術を保持されている。
◆型紙をドアのガラスに貼ると、とてもおしゃれです。まあしかし、そこは1枚を仕上げるのに1ヶ月といった日数がかかり、その人件費からすると、1点22万円といった価格も仕方がないですね。手拭いを買うくらいがせいぜい。とはいえ、とても楽しめる場所でした。

白子の型紙資料館(続)

◆資料館は伊勢街道に面する。この街道がまたよい。ところどころに町屋が残る。もったいないので、国道23号線でなく、旧道を進みたいもの。
◆資料館では、まずはビデオを見る。これ、けっこう昔の、例えば1980年代くらいなんだろうか、の記録映像をもとにしたもののようです(年代はあたっているかな)。型紙の紙そのものを作る人、切り抜く人、糸を貼る人、ベテランのみなさんの仕事ぶりがわかる。建物自体が文化財なので、型紙の実物や歴史は蔵を利用して展示している。寺尾家にある古い型紙もあるが、いまその技術を残していこうというみなさんの作品もある。

2025年11月2日(日)三重大学で四校交流会

◆年1回の4大学合同卒論発表会。今年は三重大学。日程確定とともにホテルは取っていた。懇親会に出ても近鉄で帰ることはできるのだが。で、考古の見学会をこれにひっかけて、3日とした。
◆開始の13時まで、朝カミサンと出て、白子の型紙資料館に行く。三木の型紙を知り、わたしは覚えていないが、型紙といえば伊勢というのをカミサンは知っており、それが白子だったわけです。鈴鹿市の古墳の調査指導で、年1回、白子駅に下り立っているが、そんなことは知らなかった。で、3日の見学地のひとつに入れてくれるよう学生には伝えていたが、2日に行ってしまったわけです。
◆白子村・寺家村ともうひとつの3箇所に集中していて、問屋仲間を作っていた。以下は鈴鹿市のHPから。「伊勢型紙資料館は、江戸時代末期の建物で白子屈指の型紙問屋であった寺尾斎兵衛家の住宅を修復して、平成9年に開館しました。寺尾家は江戸時代から伊勢型紙の生産から販売までを行い、行商範囲は東北地方から関東一円にも及んでいました。寺尾家住宅は、型紙関係の商家としてまた町家建築の代表例として、市史跡に指定されています。」

播州清水寺

◆最後に加東市の清水寺に行く。むかし小野市の市史編纂にかかわっていた時に、巡検でここを訪ねた記憶がある。山の中にあり、中心的な建物がかなり大きく、縁を歩いていてスゴク立派なものという、けっこうな強い印象を受けたことを覚えている。それが、この清水寺だと思っていた。
◆が、訪ねてみると、違うように思ったわけです。確かに根本中堂や講堂、奥の塔跡など立派な寺院なんだが、記憶とは違うと。何が間違っているのだろうか。いちばん考えられることは、自分の記憶が怪しいということだろう。思い込みが強く、そこが確かな記憶ではないのだろうと。
◆同じことが前にもあった。朽木の寺である。昔、若狭向山古墳の発掘をしている時、泊り+京都から通いでやっていて、朽木を抜けていると、若狭にむかって右側に立派なお寺があった・・・という記憶があるのだ。その後、この寺が、室町期に将軍が逃れて滞在した寺に違いないという思い込みも加わる。で、何年か前に朽木を抜けた時、朽木付近の道の南側の木立のなかに古刹がある、と探し求めるも、ついに見つからなかったわけです。
◆さて清水寺の場合は、前に見たのは別寺院なのか、清水寺だが頭の中でお堂の立派さが拡大したのか、どちらなんでしょう。

虫眼鏡

◆好古館の2階企画展示室では、地域展をやっていた。この館では、ずうっとこの取り組みを続けている。市史編纂に続き、こうした機会に地元の資料をさらに掘り起こし、それで展示を構成していく。なかなかいいことですよね。テーマ性も大事だけれど、ひとつひとつの地域を取り上げていくことも大事。もっと他でも取り組まれてよいだろう。で、絵図を見るのに虫眼鏡が置かれていて面白かった。

小野市立好古館

◆カミサンは好古館に行ったことがないというので、三木から北上し小野に向かう。一柳の陣屋城下町である(小野市史にかかわるまで知らなかった)。で陣屋のあった場所は、いま小学校・高等学校になっており、好古館もその一画にある。近世・天保期に加古川沿いの大きな百姓一揆があったそうである。その時に小野の近藤亀蔵の屋敷が襲う対象になったのだとか。とんでもない金持ちだそうである。以下ネットから。

江戸時代後期の豪商で、東の本間と並び西日本一の豪商といわれました。亀蔵は商売だけでなく、地域の発展や慈善事業にも熱心で、灌漑用のため池「鶴池・亀池」を約3000両の費用と3年の月日をかけ完成させました。

ところで三木市史

◆みき歴史資料館で、いま刊行中の三木市史が販売されていた。で、和泉市史でいう地域叙述編にあたるものが、かなりの数刊行されている。それと資料編がならんでいる。本編はこれからなんだろうか。こうした市史で地域ごとにまとめるやり方というのは、和泉市史が影響を与えているのかもしれません。

旧玉置家住宅

◆道の駅で食事をして、道の駅2階の金物の物をのぞく。1点買い求めました。実にいろんな刃物などが売られている。
◆そのあと町あるき。旧玉置家住宅というのは国の登録文化財。その前に大宮八幡宮に立ち寄る。
◆で玉置家住宅。ガイドさんが4人おられて案内していただく。美嚢川南岸の東西道路に面し、家の裏はすぐ美嚢川。もともと館林藩の切手会所だったものを、玉置さんが明治になって買い求めたもので、通りに面する側の主屋は江戸期の建物という。興味深かったのは、三木市街地だけでなく、中国道のICから三木にむかう道すがらの村で、蔵がある昔ながらの家屋を見かけたのですが、その窓がすべて丸窓だ、ということです。この玉置家住宅の画像を出しておきます。
◆もうひとつ、着物の染色用の型紙も特産とのことを、屋内の展示で学ぶ。型紙というのは伊勢が有名なんですね(知らなかったが)。文様を切り抜き、それを反物に置いて蝋を引き、そこには染料が載らないようにする。文様は白ということだ。三木もまた、けっこうなシェアを占めていたのだそうです。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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