人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
久米田貝吹山の復元
◆次に久米田貝吹山古墳。報告書をもとにやってみました。
◆この報告書、トレンチ配置図はあるが、アミベタで、遺構略図を記入したものはない。なので、いちいち各調査区の平面図を貼り込まねばならない。でよくある話だが、模式的なトレンチ配置図に置こうとしても、長さが違ったり、実際の調査区はきれいな長方形ではなく、だいたいあわせになる。埋葬施設もそうです。後円部墳頂のどこに、あの埋葬施設が正確に位置づくのか、簡単ではない。国土座標で合わせなさい、ということなんでしょう。
◆そういう図が作られてないことからわかるように、墳丘復元の検討が行われていないのは残念です・・・。
◆95歩132mと出た。佐紀陵山型でしょう。
◆この報告書、トレンチ配置図はあるが、アミベタで、遺構略図を記入したものはない。なので、いちいち各調査区の平面図を貼り込まねばならない。でよくある話だが、模式的なトレンチ配置図に置こうとしても、長さが違ったり、実際の調査区はきれいな長方形ではなく、だいたいあわせになる。埋葬施設もそうです。後円部墳頂のどこに、あの埋葬施設が正確に位置づくのか、簡単ではない。国土座標で合わせなさい、ということなんでしょう。
◆そういう図が作られてないことからわかるように、墳丘復元の検討が行われていないのは残念です・・・。
◆95歩132mと出た。佐紀陵山型でしょう。
金森長近
◆以下、ウィキ。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与した。養子の可重とともに徳川家康の上杉征伐に参加し東征し、のち諸将と共に反転し西上した。齢70台後半の長近は1千1百人余を率いて本戦に参加し、西軍の石田三成勢らと戦った。
戦後、戦功により、飛騨の本領安堵とともに、美濃国武儀郡2万石(上有知・関)と河内国金田3000石を加増され、計6万1700石の領主となった。
慶長10年(1605年)、80歳を越えた長近は、飛騨一国と高山城の采配を養嗣子の金森可重に任せ、自身は加増された上有知の鉈尾山城に入り、さらに小倉山城を築いて移った。この時上有知に整備された城下町は「うだつの上がる町並み」として現存し、重要伝統的建造物群保存地区となっている。なおこの年、次男(三男)の五郎八(長光)が産まれている。
慶長13年(1608年)8月12日、京都伏見の別邸で死去。84歳。
◆だそうです。美濃市はもと上有知(こうづち)。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与した。養子の可重とともに徳川家康の上杉征伐に参加し東征し、のち諸将と共に反転し西上した。齢70台後半の長近は1千1百人余を率いて本戦に参加し、西軍の石田三成勢らと戦った。
戦後、戦功により、飛騨の本領安堵とともに、美濃国武儀郡2万石(上有知・関)と河内国金田3000石を加増され、計6万1700石の領主となった。
慶長10年(1605年)、80歳を越えた長近は、飛騨一国と高山城の采配を養嗣子の金森可重に任せ、自身は加増された上有知の鉈尾山城に入り、さらに小倉山城を築いて移った。この時上有知に整備された城下町は「うだつの上がる町並み」として現存し、重要伝統的建造物群保存地区となっている。なおこの年、次男(三男)の五郎八(長光)が産まれている。
慶長13年(1608年)8月12日、京都伏見の別邸で死去。84歳。
◆だそうです。美濃市はもと上有知(こうづち)。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。