人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
社長のお話
◆髙井社長は有名人。しゃべりも抜群。いろいろと語っていただきま
した。ブドウ栽培として4代 目、ワイン醸造で3代目なのだそうです。
◆明治政府が、米を確保するため日本酒の消費を減らし、ワインを奨励しようとした。前にもかかわったことのある播州葡萄園などを作るも、いずれもダメ。甲州で、日本の封土にあった種が作られたのだったか。柏原市の資料館の特展図録で勉強しなおさないといけません。栽培は江戸期からしていたのではなかったか。
◆とにかく河内と甲州のぶどう・ワインが生き残ったと。大正7年から昭
和10年までは大阪がワイ ンの生産日本一だったのだとか(いまは7位だそうである)。昭和9年の室戸台風で、風速60mを超える台風で、1000haの葡萄の65%が倒壊したのだとか。カタシモワイナリーは大正3年の操業とのこと。水はけのよい山の上の方の土地は、かつてJR柏原駅前の平米単価より高かったのだそうです。土が砂ケの多いところ、粘土質の高いところ、畑のひとつひとつで違う。ブドウの木、1本1本で違う。そ
れは熟してきた葡萄で見分 け方を教えてもらいました。栽培にはストレスを与え刺激を与えるのがよいのだそうです。根を8分割して1年ごとに1/8を切るのだそうです。そうして細い根を再生させることで葡萄の木も長持ちする。100年以上の木が日本に5本あり、そのうちの〓本がここにあるとのこと。除草剤は使わない、露天の畑には草が生えるまま。ハウスで水でふくらましたような葡萄とは甘みがぜんぜん違い、ワインにするとそれがテキメンに現れるのだとか。水はけのよいところがよいのだそうです。根が砂粒の水を吸う?といったように、で、ミネラルも吸収する、と。気候温暖化が一番の問題。昼夜の温度差がある方がよい。
◆むかしの写真では、ほんとうに一面葡萄畑で、その間に屋根が見えるという風景。社長が学校へ行くのも、すべてぶどう棚の下を通って通っていたと。同級生もまたみな葡萄農家の子供だったが、13~14人いてあとを継いだのは1人だけだとか。戦後のジェーン台風や伊勢湾台風とか第2室戸、すべて大きな被害をもたらし、昭和30年代から右肩下がりだと。雨が多いのもだめ。ハウスを作るにも金がかかり、徐々に離れていく、と。いま柏原市内で葡萄栽培をやっているところで、跡取りがいるのは30%。耕作しなくなるところがとどまらない。そうした畑も借りて栽培しているのだという。
◆明治政府が、米を確保するため日本酒の消費を減らし、ワインを奨励しようとした。前にもかかわったことのある播州葡萄園などを作るも、いずれもダメ。甲州で、日本の封土にあった種が作られたのだったか。柏原市の資料館の特展図録で勉強しなおさないといけません。栽培は江戸期からしていたのではなかったか。
◆とにかく河内と甲州のぶどう・ワインが生き残ったと。大正7年から昭
◆むかしの写真では、ほんとうに一面葡萄畑で、その間に屋根が見えるという風景。社長が学校へ行くのも、すべてぶどう棚の下を通って通っていたと。同級生もまたみな葡萄農家の子供だったが、13~14人いてあとを継いだのは1人だけだとか。戦後のジェーン台風や伊勢湾台風とか第2室戸、すべて大きな被害をもたらし、昭和30年代から右肩下がりだと。雨が多いのもだめ。ハウスを作るにも金がかかり、徐々に離れていく、と。いま柏原市内で葡萄栽培をやっているところで、跡取りがいるのは30%。耕作しなくなるところがとどまらない。そうした畑も借りて栽培しているのだという。
2019年9月26日、河内六寺とぶどう畑を歩く
◆大学の科目履修プログラム、おおさかガイド+講座で、大阪の歴史演
習を担当している。隔年開 講で、2019は3回目。いつものように履修生と仲良くなり、いつも前期の打ち上げで飲み会が設定される。で、8月に柏原市歴史資料館で講演した時も、みなさん押しかけてくれました。その前の7月時点で、柏原おいなーれの会の履修生が、授業で河内六寺のガイド案を作っており、履修生で実際に行こうということになり、日が設定され誘われたものです。
◆カミサンと2人で参加。JR高井田駅10時。参加者は10数名、大阪の歴史演習を履修していない同期生も半分。横穴を見て、資料館、鳥坂寺、家原寺、知識寺。そこでカタシモワイナリーの社長に出迎えてもらい、石神社の知識寺塔心礎、湧き水、そしてぶどう畑。それから社長宅のテイスティングルームで話を聞き、お宅のなかの部屋で食事。久宝寺のフレンチ料理屋提供の食事。ワインを4~5種類、いただく。14時解散。まあ、楽しい。役得です。
◆カミサンと2人で参加。JR高井田駅10時。参加者は10数名、大阪の歴史演習を履修していない同期生も半分。横穴を見て、資料館、鳥坂寺、家原寺、知識寺。そこでカタシモワイナリーの社長に出迎えてもらい、石神社の知識寺塔心礎、湧き水、そしてぶどう畑。それから社長宅のテイスティングルームで話を聞き、お宅のなかの部屋で食事。久宝寺のフレンチ料理屋提供の食事。ワインを4~5種類、いただく。14時解散。まあ、楽しい。役得です。
2019年9月18~20日、和泉市合同調査(3)
◆2日目、何をしていたかというと、絵図のフォトスキャン。井坂家文書2500点のなかに絵図がいく つかある。うち、かなり巨大な畳2枚分くらいのものもある。上からも撮れないし、壁に下げるにしても危ない(糊付けがはがれているところもある)。1日目夜のミーティングの時に、「そや、フォトスキャン!」だと。
◆できあがりの画像は示せませんが(作業上の画像で)、ほぼうまくいきました。フォトスキャンなので、
斜め写真でもいい(片側から撮るにしても向こう側は遠い)。ですが、合成したものを見ると、やはり角がひずんでいます(畳が反っていますよね)。基本、長い絵図に対し、長辺側に立ち、ずれながら同一方向から撮ったが、たぶん、撮影者が一周するように撮った方がいいようだ。
◆が、まあまあできるわけです。いちおう合成したものに対してXYZ座標が自動的に設定されているので、オルソーを出せば正規化された画像がえられる。このXYZの座標系の枠は表示されているので、もし修正するなら枠を動かすこともできる。
◆なお、もっとも時間がかかるメッシュ作成は、現場のトレンチでも時間はかかるができていたが、これが何度やっても、かなりの時間を要し、メモリが足りませんと止まってしまう。なんなんでしょうか。点群データが多いのでしょうか。そこでメッシュの素材を低密度クラウドにするとあっという間にできた。部分拡大をするなら別だが、全体を示すこと、あるいは文字を読みに行くには十分である。
◆前に杉本村絵図について、部分写真をイラレで合成し、いちおう作り上げた。できるだけ垂直に撮影しても、色調が違い調整しないといけないし、隣の画像とはどうしても合わない(チョー重いし)。が、ソフト上で合成され継ぎ目なく、色合いも変ではない。十分ではないか。
◆できあがりの画像は示せませんが(作業上の画像で)、ほぼうまくいきました。フォトスキャンなので、
◆が、まあまあできるわけです。いちおう合成したものに対してXYZ座標が自動的に設定されているので、オルソーを出せば正規化された画像がえられる。このXYZの座標系の枠は表示されているので、もし修正するなら枠を動かすこともできる。
◆なお、もっとも時間がかかるメッシュ作成は、現場のトレンチでも時間はかかるができていたが、これが何度やっても、かなりの時間を要し、メモリが足りませんと止まってしまう。なんなんでしょうか。点群データが多いのでしょうか。そこでメッシュの素材を低密度クラウドにするとあっという間にできた。部分拡大をするなら別だが、全体を示すこと、あるいは文字を読みに行くには十分である。
◆前に杉本村絵図について、部分写真をイラレで合成し、いちおう作り上げた。できるだけ垂直に撮影しても、色調が違い調整しないといけないし、隣の画像とはどうしても合わない(チョー重いし)。が、ソフト上で合成され継ぎ目なく、色合いも変ではない。十分ではないか。
2019年9月18~20日、和泉市合同調査(2)
◆4班編成で、ひとつの班は水利担当で、一緒に1日目に歩いた。午後
も1人で歩く。ここには、基幹 間水路の久保津土井、観音寺で完結する小山池・小井、の3つの水利組合がある。これら3つの組み合わせ方の概略を知ることができた。久保津土井については、和気町の合同調査でかなり歩いた。写真上は観音寺北側の段丘崖裾を通る久保津土井。
◆久保津土井の取水口に近い観音寺は、その水を使うのは西側の丘陵先端をまわってきたあたりで、集落東側の田地は丘陵地のため池による。小山
池水利組合というのは、 牛神池、七ツ池、大池、三ツ池という、4つの谷に設けられたため池による水利の総称とのこと。条里に沿う東西に集落まで一直線に通る水路が「大溝」とよばれる幹線である。写真下がそれ。
◆久保津土井の取水口に近い観音寺は、その水を使うのは西側の丘陵先端をまわってきたあたりで、集落東側の田地は丘陵地のため池による。小山
2019年9月18~20日、和泉市合同調査(1)
◆今年は観音寺。観音寺山遺跡。この丘陵上の宅地開発で、観音寺寄り
のところは「弥生町」とな る。昔、摩湯山古墳の測量をしていたころ、この丘陵を横断し、弥生町との地番を見て、このへんかと思い込んでいたのは1丁目・2丁目あたりの西側部分。だが、実際に調査されたのは4丁目となっているあたりであった(写真下の左側)。
◆三井不動産による開発だが、当時の調査は工事に追われ、一部にとどまったらしい。同じように西北にのびる丘陵の、調査地外にどれだけ弥
生の集落が広がっていたのかは、もはやわからなくなっている。そうなのだ。報 告書の経緯のあたりを丁寧に読み込む必要がある。
◆弥生の集落が、この槇尾川と松尾川にはさまれた一帯で、いくつか知られているようだ。池上のように大規模なものはない。が、観音寺山遺跡を考えると、各所にあった集団を足せば、そこそこの集団規模になるのだろう。尾根もいくつかに分かれ、住み分けることも可能だ。観音寺山遺跡は弥生後期の長きにわたって存続するという。山にあがって100年あまりは降りてこなかったのか。なぜだ、ということを考えていた。答は簡単ではないが・・・。
◆三井不動産による開発だが、当時の調査は工事に追われ、一部にとどまったらしい。同じように西北にのびる丘陵の、調査地外にどれだけ弥
◆弥生の集落が、この槇尾川と松尾川にはさまれた一帯で、いくつか知られているようだ。池上のように大規模なものはない。が、観音寺山遺跡を考えると、各所にあった集団を足せば、そこそこの集団規模になるのだろう。尾根もいくつかに分かれ、住み分けることも可能だ。観音寺山遺跡は弥生後期の長きにわたって存続するという。山にあがって100年あまりは降りてこなかったのか。なぜだ、ということを考えていた。答は簡単ではないが・・・。
2019年9月16日、紀美野→泉佐野
◆15日、14時には加古川を出て、オープンキャ
ンパスをやっていたカミサ ンの職場に向かい、広 い、一度、家に戻る(忘れ物)。そこから紀美野へ。
◆16日、施設に入っている岳父に会いに行き、買い物をし、とある茶店に入る。フレーバーティーで打ち出している店で、古民家でやっている。
◆昼ご飯を取り、14時半くらいには出たか。泉佐野長滝の蟻通神社の薪能
に行く。カミサンの同僚 から誘われたもので、ちょうど子供2人も帰ってくるのに重なったので、追加で2名のチケットも押さえ、でかけたもの。昔、院演習で日根野に行ったとき、立ち寄った。16時半開園。実行委員長についで、泉佐野市長のあいさつ(最後まで鑑賞していました)。世阿弥の確実な作に「蟻通」というのがあり、和歌山に赴こうとした紀貫之の話。狂言をはさんで、後半は「乱」というものでした。16時半だとまだ明るかったが、後半には暮れる。いちおう、ひととおりのセリフを文字にしたものの配られていた。そのまま聞いていても、半分はわからない。音は明瞭でも、言葉が古く、なかなかたどれませんね。でも、能というのも楽しめます。
◆16日、施設に入っている岳父に会いに行き、買い物をし、とある茶店に入る。フレーバーティーで打ち出している店で、古民家でやっている。
◆昼ご飯を取り、14時半くらいには出たか。泉佐野長滝の蟻通神社の薪能
2019年9月15日、加古川→紀美野
◆翌日、カミさんはオープンキャンパスで職場に向かう。わたしの
祖父母、子供らとでかける。い ちおう、多可郡のどこぞに行くと計画するも、加西市の鶉野飛行場→闘龍灘→西脇市となる。
◆鶉野飛行場では、特攻隊「白鷺隊」が編成され、63人が亡くなっている。その慰霊碑前で、地元のガイドさんが熱心に解説していた。6月に紫電改の実物大模型が設置されたことがニュースになっていたので、見に行く。まあ、それから間もないし、多くの人が訪れていた。もともと、鶉野飛行場が、川西航空機姫路製作所組立工場の専用飛行場だったもので、軍も使うことになったもの。で、紫電改の組み立て工場も近傍にあり、試験飛行をしていたとのこと。
◆西脇市の郷土資料館に、実に30年近くぶりに行く。帰る時間がせまっ
ていて、ざっとひとまわり するだけになった。再度、じっくり見に行こう。なかなか充実しているが、早い時期にでき、施設としてはやや古く、お客さんもいなかった。今日的にリニューアルできればいいですね。
◆鶉野飛行場では、特攻隊「白鷺隊」が編成され、63人が亡くなっている。その慰霊碑前で、地元のガイドさんが熱心に解説していた。6月に紫電改の実物大模型が設置されたことがニュースになっていたので、見に行く。まあ、それから間もないし、多くの人が訪れていた。もともと、鶉野飛行場が、川西航空機姫路製作所組立工場の専用飛行場だったもので、軍も使うことになったもの。で、紫電改の組み立て工場も近傍にあり、試験飛行をしていたとのこと。
◆西脇市の郷土資料館に、実に30年近くぶりに行く。帰る時間がせまっ
14日、放散虫写真展→加古川
◆まず14日は、11時に今井町に行き、カレーを食べる。15時に大阪
本町のフジフィルムのギャラ リーで放散虫の写真展があり、新潟大のM先生のギャラリートークがあるので聞きに行く。最近、放散虫の絵本が刊行され、それに使ったマリアナ海溝で採取した放散虫の電子顕微鏡写真の展覧会だ。M先生は、世界的権威なんだが、普及活動も活発にやっている。話も平易に面白かった。
◆放散虫は動物性プランクトン?。骨格がガラスなので、死んだら海底に沈んで
いく。ほかのもの はガラス質でないので分解されてしまう。なので海底には放散虫の死骸ばかりが堆積する。これが固まったのがチャート。1970何年かに、深海探査機でマリアナ海溝の下り斜面で1個の石が採取された。この石から、多くの基準となっている放散虫化石が採取されたのだとか。しかしモノは小さく、1個の石にも膨大な数が含まれており(というよりダラケ)、実際に石を砕き溶かし、取り出した化石はまだまだわずかなよう。ジュラ紀と白亜紀で、ある種?の形態変化による3時期のものが示されていた。それを見ながら、実際には同一母岩に累積しているなかで、A→B→Cという順番をつけるのは型式学か、と考えていた。考古学でもそうですが、実際には、判明しているこれより古い時期のもの、新しい時期の形態から、CBAでなくABCであると考えるのでしょうか。
◆放散虫については、うちのミュージアムの展示で取り扱う予定。
◆放散虫は動物性プランクトン?。骨格がガラスなので、死んだら海底に沈んで
◆放散虫については、うちのミュージアムの展示で取り扱う予定。
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自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。