人を幸せにする人になろう

大阪都になるとして

◆名前はともかく、住民投票では大阪市消滅が選択されそうである。その先を考えないといかん。
◆今日は雑曜日。土日と研究室にほとんどおれず、片付けが進んでいないので、それをやっつけるのが今日の課題です。
【写真】河内国分駅から北を見る。鳥坂寺です。

ヒストリアが来た

◆まあ頑張りました。20頁くらい書いてます(人の文の転載が多いが)。兵庫城の文章を読むと、 校正が適当だったな、とは思うが(4月上旬はめいいっぱいだったの で)。御廟野の、自分のノートに書いた想定スケッチを見ると気恥ずかしいが、でも文章で書いても伝わらないと思ったので、メモ書きをそのまま載せた。
◆またまた考古学研究会大会の話をする。やろうと思ったのは、よくできた図を作ること、レジュメを完璧にすること、パワポに工夫をこらすこと、語りを魅力的にすること、である。委員会にむかってちゃんとやったでしょ、といったポーズのためではない。意識したのは聞きに来る学生・院生等にむけて話すということ。
◆まずレジュメとは何か。いちばんよくできているといつも思っているのは、うちの近世史のレジュメ。まあ文献史では普通なのかもしれないが。要するに、論の運び、章・節・項が実にきっちりと組まれており、この根拠からこれが言え、次にこれがあり、それによってこうではないか、という論理立てを表現したもの。発表の前刷りは文章なのかもしれないが、レジュメというのは違うと思っている。文章で書くものではないと。
◆自分の経験でいうと、ヒストリア大会報告の時、準備報告を2回し、それによってレジュメがど んどん整備されていったという実感があったのを思い出す。よくできたレジュメは、それを設計図にして文章を書けば論文になる。うちの近世史は、卒論・修論で、実際に書き始めるまでに、整ったレジュメを完成させる指導を行っているようだ。
◆自分のところの考古の学生に対してもそういう。レジュメは文章じゃないと。論じる組み立てだと。はじめにで、自分の考えるところや意図を5~6行の文章で書くのはいいが、本論レジュメの本体は文章で書くなと。まあ我流です。無駄なできの悪い文章を書き連ねると、一定のボリュームになり、またなんとなく伝わったらそれでよしとなる。ちがう。レジュメは、論理展開の設計図なのだ。

大阪市博物館協会との打ち合わせ

◆木曜日の10時からでした。ほんと、ちゃんと会議を開き、次の企画を考えていく、形ができてきているように思う。改新シンポⅢ、それから昨年度に提案した森ノ宮貝塚のシンポ、さらに4回の講座をやれということで、幕末大阪湾の台場を提案、3つとも企画を組むのはオレ。もちネタの総動員。まあ、けっこうやりがいをもってやっているので苦ではないが、もっとみながいろんなアイデアを出し、アイデアにあふれ、どこからやろうかといった姿が望ましい。出てこないのがそもそも問題。例えば加賀屋新田もやりたいし、大阪砲兵工廠もやりたいし、近代建築もやるべきだし・・・。まあそんなんで、あまたネタをもっとかんといかんわな。大阪本願寺だって、難波宮の調査で本願寺時代の遺構や遺物を集めればそこそこネタはあるだろうに。
◆大阪レキハクが、名前の通り「大阪」の「歴史」を伝える博物館で、歴史に関するネタをあまたもちあわせ、順々に調査研究し、企画展示をしてブックレットを出していくといったことを、ほんとうはやってほしいのだ。博物館というところはそんなところであるべきと思っている。何やろ~じゃなくて、あれもこれもやりたくってしかたない、というのがあるべき姿だと、博物館の授業では言っている。福屋工務店でなければならない。伝えたい熱意がすべて、である。

考古研OB名簿も整わず

◆まあそんなことやってるヒマはなかったからね。日曜日が終わっても、市大日本史は日々の戦いだし。でも次の幹事会である土曜日が近づく。今日、ようやっと、再びエクセルにむかい、いろいろと手を打ったが、土曜日までになんとかするのは難しい。少しは前進させ格好をつけるほかない。ひとつ下の国文卒で国文学資料館に就職した後輩を調べると、南山大学に移っていた。U岡さんは信州大学だし。Mさんは神奈川大学だし。Iさんは松山大学(どっかで再会したのだが・・・)。1960年創設、55年分の名簿を整えるのは容易ではない。

藤ノ木のこと

◆もひとつ、藤木の石棺には2体の遺骸が残っていたが、遺存状況の悪い一方は、これまで男とされ ていたが、考古学的には足玉があり、普通に考えれば女性だと。結局、身長の長さによる判断で、人類学者は高いとみて男という。しかし、それはそれで足の指の長さから計算式で算出するもの(それもエエかげん)。そんなことしなくても、首飾りがあり、おおよその遺骸のあり方は想定でき、とても人類学者の算出した身長にはならない。少なくとも、男とは断定できないという言い方がまっとうな判断。ところが、当の鑑定をした人類学者は、まったく慎重さをもちあわせず、どこかの論文集で、こうしたマトモな発言に対しコテンパンに攻撃し、それを取り上げた新聞記者にも矛先をむける。そんなマトモでない原稿、普通の感覚からすれば、収録しないか、書き直しをお願いすべきものだと思う。おかしいものはエライ先生でもおかしいのである。
◆自分も断定的だといつも指摘される。反省しなければならない。が、学術上の根拠をのべあっての論戦とはこれは違う。今回の考研の発表後、いろんな若手の人に書いたものをいただき、そのへんの最新の研究を参照できていないと反省。ぱらぱらと見たが重要な論文もある。伝世鏡なんですけど、踏み替えしの技法が後漢代にず~とあるということを学ぶ。後世に踏み返したのでなく、当時の鋳造技術のなかに存在していると考えられるというもので、学び受け止めなければならない。間違っていたことは訂正します。それで結論も違ってしまうなら、ごめんなさいと言います(たぶんそんなことはないが)。そういう他者の意見は、取るべきところは吸収できるつもりです。が、藤木の応酬はそれとは違って、権威を守るための、反対意見に対する罵倒なのである。
◆おそらく女性でしょうね。男2人として被葬者に言及している方もおられるが、まあそんなことはないだろう、というところ。

ピースおおさかのリニューアルオープンは30日 記事№2800

◆しばらく前にHPに上がったようです。4月1日かと思っていたが、月末とのこと。どこかでさっそく見に行かなければ。

車塚の発掘が記事になったようです

◆です。それと樹木の伐採など、環境整備を進める地元のみなさんの活動があり、ネットを見てい たら、紹介があったので、それを。また、展示をやって いるらしい。教えてくれ!。
◆それと報道への資料提供をする際にコメントを求められ、作成した造り出し比較図。造り出しにも、きっと規模の規格があるんでしょうね。

4月12日、三田現地見学検討会

◆雨が降り続く中、土曜日から晴れ、さいわい12日の日曜日も晴れでした。京橋から東西線経由 で、尼崎、そして三田に行く。午前中、三田の町歩き。とても丁寧に町の成り立ちを教えていただいた。武庫川がしょちゅう氾濫していて、水に浸かっていたのだとか。いまでこそ橋がたくさんあるが、もともとはひとつで、武庫川西岸の本町などに対し、川をわたった東方の三輪社に至る街道沿いも町場となっており、複合的な面がある。
◆それと有馬郡のほぼ中央が三田で、郡衙はいまの市街地でなく播磨に抜けるもうひとつ南が有力候補地だそうだが、三田には古代寺院があり、やはり早くから盆地中央部の平野に面した地域の中心地であったようだ。しかし、近世の支配で、三田藩は有馬郡北半部となり、南半部は切り離されたらしく、これにより、その後、南は神戸市北区および西宮市に編入されていく。したがって三田市域は北半なのだが、三田市街は盆地中央部なため、市域の南端になって しまっているのだとか。
◆九鬼が志摩から入るが、お家騒動を好都合と、通説では水軍を擁する九鬼を陸に上げる幕府政策と言われているらしいが、そうでもないとのこと。そして、幕末に藩政改革を進める。九鬼隆一は東博初代総長として著名だが、白洲退蔵、川本幸民、あるいは神戸に出て儲け神戸市長になっていく家など、なかなか面白い人物達が輩出している。
◆午後の検討会の1本は、城跡や陣屋の発掘成果で、おおよそ三田城や陣屋跡がどこまでわかっているか、知ることができた。また町場の調査でも防火用の水溜めなどが検出されていることを知る。

小山田遺跡

◆3月末に八木で呑んだとき、先輩の話を聞く。小山田遺跡の西にも適当な尾根先端部があり、これ が蝦夷と入鹿の墓で、これらを破壊した後、宮ヶ原古墳に遺骸を埋葬したのだろうという話を聞いた。なるほどです。2つあんのか、というところが問題だったが、ちょうど横並び、宮ヶ原が最終的な埋葬墓とする根拠はいま理解していないが、すべて説明が可能である。なるほどです。
【追記】新聞を見ると、朝日カルチャーセンターでこれに関する講座があり、舒明初葬陵説について講義するのだとか。どうするんですかね。カシコーケンが発表するのは、なんでもデカデカ報道し(弥生の米が現代のものという誤りも象徴的です)、さっそくに講座で速報してくれと。考古学の大本営発表みたいだし、それを求める需要もなんだか形成されている。根拠が希薄なのに結論めいた話をするのは、藤ノ木人骨の性別問題と同じではないでしょうか。個人的にそう思う人があってもいい。しかし、普通は組織として発表するとなれば、いろんな意見を聞きつつ、言える範囲で言及するのではないか。

相変わらず

◆市大日本史の論文5本、合同調査、購読など、大物はすべて入稿済みとなり、なんとか今号も間に 合うのではないか、との見込み。ここまでの進捗(戦いの記録)を出しておこう。
◆朝から、芦部町の図を作る。どうしても正方位だと表現が難しいので、条里にあわせて振る。昨年の合同調査の時に気づいたが、結局のところ、芦部町は坂本郷の、ひとつの里の単位が旧今在家村の村域となっている。今在家の名が示すように、村落成立は比較的後発と考えられるが、東の坂本、西の一条院から、どっかの段階で村域が独立したわけだが、それは古代的な36町を単位とする1里を基準としており、それを考えると、村そのものの成立は遅いとしても、今在家村となる 坂本郷域内での耕作の単位としての里は、伝統的に存続していたと考えられると思う。これ古代的なものが変容し中世でも意味を持ち続けた土地の単位であり、日本史上、きわめて重要だと思うんですけどね(カン)。実にものの見事に条里を基準に村域が作られているわけだ。
◆なお、右上は坂本寺のある段丘上の正方位地割の認められる部分。それと、切り離された右側になる坂本村の、太田井の水掛かり範囲は狭く、太田井が灌漑する主たる田地は、この芦部町の水田。これこそ5世紀に根使主弾圧にともない茅渟県主の袋かつぎとされた坂本氏が入植し、6世紀に開発を進め、推古朝の4大夫の1人糠手を生み出した生産基盤なのである。蘇我氏とも近く、軽寺式の坂本寺を640年代には建立させる。坂本糠手がここで生まれ育ったと考えれば、楽しいではないか。
◆さて次は信太山の戦後の図にとりかかろう。
【追記】芦辺町の図、信太山の戦後の図、門林家の系図、この3つの図面に7時間を要した!

プラグイン

カレンダー

02 2026/03 04
S M T W T F S
1 2 4 6 7
8 11 12 14
15 17 18 19 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新記事

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索