人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
日前宮(紀伊いちのみや)
◆ここは前から行きたかった。ニチゼングウ、と言っているが、ヒノクマであり、飛鳥檜隈の渡来人の一派が移
住したんだ、みたいな話をどこかで聞いたが・・・
◆ここには、日前神宮と國懸(くにかかす)神宮が、完全に横並びでふたつある。以下、【ウイキ】。
日前神宮は、日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀。國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀している。神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命(おもいかねのみこと)の議に従い種種の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、天香山から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡を鋳造しました。その初度に鋳造された天照大御神の御鏡 前霊(さきみたま)を日前國懸両神宮の御神体として、後に鋳造された御鏡を伊勢の神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。爾来、天道根命の末裔である紀氏(きいし)によって歴代奉祀され、両神宮の祭神が三種の神器に次ぐ宝鏡とされたために、伊勢の神宮に次いで朝廷からの崇敬も篤く、延喜の制には両社とも明神大社に列し、祈年(としごい)、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいなめ)の祭祀には天皇から幣帛(御供)を賜るほどでありました。また古くから紀伊國一之宮として一般の人々からも崇敬をあつめ、両神宮の総称を「日前宮」(にちぜんぐう)とし、親しみをもって呼ばれています。
◆秀吉の天正の兵乱により境内荒廃、社領没収。紀州藩初代藩主、徳川頼宣が社殿を再興。明治4年、官幣大社。大正8年、国費による境内建物すべての改善工事、いまに至る、とのこと。
◆印象、完全な左右対称で、2社が並び建つのが面白いと思った。
◆ここには、日前神宮と國懸(くにかかす)神宮が、完全に横並びでふたつある。以下、【ウイキ】。
日前神宮は、日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀。國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀している。神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命(おもいかねのみこと)の議に従い種種の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、天香山から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡を鋳造しました。その初度に鋳造された天照大御神の御鏡 前霊(さきみたま)を日前國懸両神宮の御神体として、後に鋳造された御鏡を伊勢の神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。爾来、天道根命の末裔である紀氏(きいし)によって歴代奉祀され、両神宮の祭神が三種の神器に次ぐ宝鏡とされたために、伊勢の神宮に次いで朝廷からの崇敬も篤く、延喜の制には両社とも明神大社に列し、祈年(としごい)、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいなめ)の祭祀には天皇から幣帛(御供)を賜るほどでありました。また古くから紀伊國一之宮として一般の人々からも崇敬をあつめ、両神宮の総称を「日前宮」(にちぜんぐう)とし、親しみをもって呼ばれています。
◆秀吉の天正の兵乱により境内荒廃、社領没収。紀州藩初代藩主、徳川頼宣が社殿を再興。明治4年、官幣大社。大正8年、国費による境内建物すべての改善工事、いまに至る、とのこと。
◆印象、完全な左右対称で、2社が並び建つのが面白いと思った。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。