人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
豊臣期の石垣
◆1959年の総合調査の際に見つかった石垣は、埋め戻さずにのぞき込めるようになっているのだ。そんなん、
ダアレも知りませんよ。実は、今日も人混みで混雑する大阪城
天守閣前の「広場」(天守閣の入場料600円*1000人として=60万円、すごいわ)、円筒形の井戸状のものに蓋をしてある。それがそうなのだ。通常は鍵がかかっている。それを開けてもらったわけだ。
◆もう一箇所は、水道管埋設のために、貯水場と御金蔵の間で見つかった、櫓の角の石垣。これは埋めてある。だが、なんの看板もない。むろん遺構表示もない。徳川期において、南の御殿と異なり、東側(いまも現役の貯水場がある)は空閑地であるようなので、発掘調査で、豊臣期の石垣の頭を1m分くらい露出させたような遺構表示は可能だと思う(むろん、上層で徳川期の遺構がないのが前提)。もったいない。
◆さらに、この貯水場のある、いまの本丸の東北が、豊臣期の天守台に相当する。明治28年にできた貯水場は、近代化遺産相当らしいし、なによりも今も現役なんだが、豊臣期の天守閣の価値と比べると、どうなんでしょうね。あの場所がすっかり使えるなら、面的に豊臣期の天守閣を発掘し、見せることができるはずである。で、その貯水場の北と東で、ボーリングで地下の石垣があたっているらしく、そのうちの1箇
所は、やはりコンクリートの筒を入れて、のぞけるように保存してある。これ、1959年の石垣のようにきれいに積み上がったものではなく、天守台の北の石垣そのものかどうかはわからんようだが、これなんぞも、ダアレも知っちゃいない。
◆まず、1959年の石垣は、いまある鉄格子でもいいし、モノを落とさないようガラス張りにするかなんかして、常時、見せればいいのだ。それだけ。安全対策をしてただちに公開すべし。
◆もう一箇所は、水道管埋設のために、貯水場と御金蔵の間で見つかった、櫓の角の石垣。これは埋めてある。だが、なんの看板もない。むろん遺構表示もない。徳川期において、南の御殿と異なり、東側(いまも現役の貯水場がある)は空閑地であるようなので、発掘調査で、豊臣期の石垣の頭を1m分くらい露出させたような遺構表示は可能だと思う(むろん、上層で徳川期の遺構がないのが前提)。もったいない。
◆さらに、この貯水場のある、いまの本丸の東北が、豊臣期の天守台に相当する。明治28年にできた貯水場は、近代化遺産相当らしいし、なによりも今も現役なんだが、豊臣期の天守閣の価値と比べると、どうなんでしょうね。あの場所がすっかり使えるなら、面的に豊臣期の天守閣を発掘し、見せることができるはずである。で、その貯水場の北と東で、ボーリングで地下の石垣があたっているらしく、そのうちの1箇
◆まず、1959年の石垣は、いまある鉄格子でもいいし、モノを落とさないようガラス張りにするかなんかして、常時、見せればいいのだ。それだけ。安全対策をしてただちに公開すべし。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。