人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2009年研究室旅行(神奈川)
◆11月7日から10日、研究室旅行で神奈川県に行った。今回は現地集合。集合は11時、横浜市営地下鉄「センター北駅」集合、数分遅れたが、なんとか間に合った。
◆初日は、大塚遺跡、横浜市立博物館、そこから横浜へ移動、外人墓地、開港記念館、中華街。横浜は東京23区に次ぐ第2の大都市。あまたの住宅開発にともなう発掘調査が行われている。横浜市立博物館はそれなりの展示面積はあるが、もっともっと考古資料に語らせることはできるだろう。まん中にオープンスペースがあり、各時代が放射状に配列されている展示方法は面白いが、旧石器・縄文、弥生、古墳・古代、考古はこの三つだ。
◆横浜、開港博は失敗に終わり、中田市長が辞任した。博覧会の入場料は2000円だったという。開港記念館は勉強になった。だがこれも、ペリー来航、和親条約締結、横浜開港、通商条約の締結、居留地の設置、生麦事件、維新後の鉄道開設など、幕末維新期の舞台のひとつであるにもかかわらず、あんまり主張がない。敷地・建物の割りには、常設展示のスペースは狭い。もっと力を入れていいのではないか。開港記念館の建つ位置は、和親条約締結の地である。日本の開国という点をもっと正面から取り上げて欲しい。
◆中華街は山のようなひとだかり。中華料理屋でお腹が裂けるのではないかと思うほど食べ、苦しみながら馬車道のホテルに戻る。
◆2日目、鉄道で鎌倉へ移動、鶴岡八幡宮、若宮大路、辻子幕府、大倉幕府、頼朝墓所をめぐり、以下、自由行動。天気は最高によい。大観光地だ。鎌倉は限られた土地、遺跡を残して整備するのは困難なのも理解はできる。しかし、幕府の置かれた敷地は例えば小学校だったりする。わりときれいに建て直されていて、その際には当然発掘もしたのであろうが、そのまま建て替えられたようだ。鎌倉のことはよく知らんが、研究所も持っているという。行政の話もむかし聞いたことがある。一所懸命、調査を重ね、都市の発展過程も見直されてきているという。だが、そうした調査成果を示す展示施設がないのは残念だ。
◆昼をはさんでの自由行動ののち、現地でチャーターした貸し切りバスで、切り通しに行く。鎌倉7口のうち、三浦半島側の東南の切り通しだ。ここは逗子市になる。切り通しになっているところが3箇所、途中、いわゆる「やぐら」がある。今年、不幸な落書き事件があったらしく、入り口が封鎖されていたが、すいません、われわれ入り込みました。でも、このヤグラは圧巻。古い石塔がならぶ刳り抜きのヤグラが密集し、見応えがあった。まともにヤグラを見たのはこれがはじめてだろう。鎌倉側に抜け、それから大仏、もう1箇所、長谷寺に行き、湘南海岸を箱根に向かう。箱根泊。
◆3日目。宿は登録文化財になっている建物だった。本体部分を維持しながら、現代風に増築している。とくに温泉は新しくなり、きれいだった。前日の夜、学生と2時半まで酒を飲み、朝、ねむいが、ひと風呂あびて、出発。箱根の関所、石畳の近世の東海道を歩く、この間は、2グループに分かれ、一方は中世の石像物を見に行く。合流し、小田原へ移動。一夜城、中世(後北條)の小田原城、近世の小田原城、3つを見た。一夜城のある早川は、石切場であり、江戸城の石垣石が切り出されている。矢穴のついた石材がならべてある。一夜城は、秀吉の天下統一の最後、北條攻めの際に作ったもの。関東では最初の高石垣の城らしい。けっこう見応えありました。次の北條側のごっつい堀切に行く。これもスッゴクよく残っている。国史跡になっているのも理解できる。最後は、近世小田原城。石垣は関東大震災でほとんど積み直されているのだという。近代初期の写真の残る門や壁を復元し、また現在も整備のための発掘調査が進められている。最終日は曇ってきて、天守閣からの見晴らしはいまいちだったが、これで3日間の行程を終え、小田原駅から帰途についた。
◆初日は、大塚遺跡、横浜市立博物館、そこから横浜へ移動、外人墓地、開港記念館、中華街。横浜は東京23区に次ぐ第2の大都市。あまたの住宅開発にともなう発掘調査が行われている。横浜市立博物館はそれなりの展示面積はあるが、もっともっと考古資料に語らせることはできるだろう。まん中にオープンスペースがあり、各時代が放射状に配列されている展示方法は面白いが、旧石器・縄文、弥生、古墳・古代、考古はこの三つだ。
◆横浜、開港博は失敗に終わり、中田市長が辞任した。博覧会の入場料は2000円だったという。開港記念館は勉強になった。だがこれも、ペリー来航、和親条約締結、横浜開港、通商条約の締結、居留地の設置、生麦事件、維新後の鉄道開設など、幕末維新期の舞台のひとつであるにもかかわらず、あんまり主張がない。敷地・建物の割りには、常設展示のスペースは狭い。もっと力を入れていいのではないか。開港記念館の建つ位置は、和親条約締結の地である。日本の開国という点をもっと正面から取り上げて欲しい。
◆中華街は山のようなひとだかり。中華料理屋でお腹が裂けるのではないかと思うほど食べ、苦しみながら馬車道のホテルに戻る。
◆2日目、鉄道で鎌倉へ移動、鶴岡八幡宮、若宮大路、辻子幕府、大倉幕府、頼朝墓所をめぐり、以下、自由行動。天気は最高によい。大観光地だ。鎌倉は限られた土地、遺跡を残して整備するのは困難なのも理解はできる。しかし、幕府の置かれた敷地は例えば小学校だったりする。わりときれいに建て直されていて、その際には当然発掘もしたのであろうが、そのまま建て替えられたようだ。鎌倉のことはよく知らんが、研究所も持っているという。行政の話もむかし聞いたことがある。一所懸命、調査を重ね、都市の発展過程も見直されてきているという。だが、そうした調査成果を示す展示施設がないのは残念だ。
◆昼をはさんでの自由行動ののち、現地でチャーターした貸し切りバスで、切り通しに行く。鎌倉7口のうち、三浦半島側の東南の切り通しだ。ここは逗子市になる。切り通しになっているところが3箇所、途中、いわゆる「やぐら」がある。今年、不幸な落書き事件があったらしく、入り口が封鎖されていたが、すいません、われわれ入り込みました。でも、このヤグラは圧巻。古い石塔がならぶ刳り抜きのヤグラが密集し、見応えがあった。まともにヤグラを見たのはこれがはじめてだろう。鎌倉側に抜け、それから大仏、もう1箇所、長谷寺に行き、湘南海岸を箱根に向かう。箱根泊。
◆3日目。宿は登録文化財になっている建物だった。本体部分を維持しながら、現代風に増築している。とくに温泉は新しくなり、きれいだった。前日の夜、学生と2時半まで酒を飲み、朝、ねむいが、ひと風呂あびて、出発。箱根の関所、石畳の近世の東海道を歩く、この間は、2グループに分かれ、一方は中世の石像物を見に行く。合流し、小田原へ移動。一夜城、中世(後北條)の小田原城、近世の小田原城、3つを見た。一夜城のある早川は、石切場であり、江戸城の石垣石が切り出されている。矢穴のついた石材がならべてある。一夜城は、秀吉の天下統一の最後、北條攻めの際に作ったもの。関東では最初の高石垣の城らしい。けっこう見応えありました。次の北條側のごっつい堀切に行く。これもスッゴクよく残っている。国史跡になっているのも理解できる。最後は、近世小田原城。石垣は関東大震災でほとんど積み直されているのだという。近代初期の写真の残る門や壁を復元し、また現在も整備のための発掘調査が進められている。最終日は曇ってきて、天守閣からの見晴らしはいまいちだったが、これで3日間の行程を終え、小田原駅から帰途についた。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。