人を幸せにする人になろう

2018年7月21日、大阪城サウンディング

◆同僚N氏を代表とする豊臣大阪城の調査、それの分担者も継続しているものの、昨年は、サウンディングおよび表面波とも別用とバッティングし参加できなかった。I君がいるので、もうお任せでよいのだが、大阪城調査ともやはりつながっていきたい。今回、2018年度の第1弾のサウンディングがこの21・22日。22日は別途、城陽での仕事を入れているので、行けるとすれば21日。いろいろ仕事を片づけたいのはやまやまで、どうしようか返事をしないでいたが、当日になって、行けるときに行くべしと。
◆土曜日の朝、8:30には研究室の椅子に座り、昨日の教室会議・教授会関係の仕事をせっせと片づける。ほんとは、そのあと梅田での大歴編集委員会の仕事を続けてしたいが切り上げ、13:30からの調査に大阪城に向かう。
◆まあしかし、現場はやはり面白い。豊臣大阪城は、現材の本丸内に東西から谷が入り、それを利用しての堀があって、間に土橋がある。奥の天守側に対して、手前に御殿があり(奥にもあったような)、その手前が桜門と内堀なのだ。つまりは、いまの徳川本丸が2地区に区分されていて、前室と奥室に分かれているとでもいおうか。で、その間の土橋、あるいは陸橋、まずはその陸橋狙い。
◆とはいえ、豊臣大阪城は3段築盛で、下の段・中の段があり、天守のある詰の丸がある。陸橋 は中の段上面で、現地表下7m(久津川はマイナス4m)。結果、陸橋上面を捉え、西ヘリで1段高くなったあと、堀の落ちに至る下りを、なんとかとらえることができた。すごい!、ぱちぱちぱち。画像は、陸橋上面の先端ドリルに付着した焼土層。
◆次に、総合調査時にボーリングで石垣が当たり発掘に切り替え、謎の石垣を検出した部位。「謎の石垣」とは、なぜだか大阪城のマイナス7m内部に石垣がある?、という当時の認識。中井 家の豊臣大阪城の絵図が確認されるのは翌年。これで、現大阪城が徳川大阪城で、大造成をして豊臣大阪城が埋め込まれていることが判明することになった。その石垣は中の段の屈曲部、いまマンホールにして実は発掘した石垣を見えるようにしています(蓋されていて誰もなんのマンホールかわかりませんが)。その横に測線を設定し、答えのわかっているその横から始め、それを延長して、1984年に発掘された詰の丸の立ち上がりを検出しようというもの。これは3本目でマシンが不具合を生じ、本日は終了となった。

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雲楽
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60
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男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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