人を幸せにする人になろう

兵庫県立歴史博物館

◆右のような雑誌を送っていただきました。文字は読んでいないが、薮田先生が館長になられ、兵 庫県の歴史に関する共同研究をやっていこうと組織を作り、そこでの成果を発表する雑誌を創刊し、これが第3号というのがほぼ理解できる。2008年頃、大歴の代表委員をやっていただき、その時からのおつきあい。関大のCOEを主導し、難波研究センターをしっかり作り上げたのも薮田先生(うちは完全に水をあけられているわけです)。尊敬しております。そしてまた歴博館長になり、そこでの地域研究を主導されているわけです。

大仙古墳は525m以上

◆という『書陵部紀要』の音波探査の結果が公表されたらしい。前は抜き刷りをもらっていたが、 最近はそれもないので、実は最新のものを見れてなかったりする。
◆525m、しめしめです。持論をどこでどう書いているかは記憶がないが、南朝尺360mの540mと前から言ってきた通り。これに大きく近づきました。下段が大きく崩れ、その流出封土が濠底に堆積しているので、さらに濠底は深くなり、その分、両側に墳端は長くなる。まあ、あたりでしょう。
◆もひとついうと、誉田御廟山の胴を引き延ばしたのが大仙なんぞという説もこれでなくなってほしいものです。

懇親会後の二次会

◆うちの院生、学生に加え、ミッチー、春のパン祭り、池口、中谷と、にぎやかにやりました。さ んざん呑んで、23:30。あまり記憶がありません。

で岡大へ

◆趣旨説明手前にすべりこむ。50周年記念館の方に行くが、やっておらず、法経棟でした。今回の大会各報告については、帰りの車の中で院生・学生らを話をした。いちいち書いている気力はまったくない。ごく概略的に。
◆関先生の講演でクンツゥルワシが出てきてびっくり、なるほどね、形成期の後半で、基壇が大きくなり、最古のキンピカをもった者を基壇に葬ることが始まった段階を示す遺跡だったんだ。大きな文脈のなかで位置付けてもらうとわかりやすい。ハワイの話はわからん。狩猟採集民の平和の話は面白かった.。狩猟採集民のなかにも、より豊かで階層分化している社会もあり、戦争も始まっているのかどうかなど、集団規模の問題など含め、興味がもたれる。次、銅鐸の話は・・・。相互的はそうなんでしょうが、そこをちゃんと時間をかけて持論をしっかり語ってほしかった。銅鐸文化圏(銅矛でも)の生産集団のいる側と、それを欲し獲得している側の優劣はない、ということが言いたいようです。それで、どう見直すべきか、という話がほしい。方筒大刀の話。まあ、さすがですね。双龍が7世紀前半までいくという、考古学雑誌の論文を読まないといけません。頭椎はどうなんでしょうね。物部系とするなら6末までということなんだろうが。そして瓦の話。
◆そのあと、尾上車山、古代吉備文化財センター、中山茶臼山を訪れ、16時には帰路につき、19時前に天王寺に到着した。

神宮寺山古墳

◆しばらく前に行ったような気持でいたが、現地に行くとまったく覚えていないので、行ってない かも。そうすると学生時代の大昔以来か。まあ、ガタガタである。神社はあるわ、墓もある。家が建ちこみ、なかなか墳端なども捉えがたい。後円部に立つと、後円部の裾位置の1軒を取り壊していた。新たに新築住居が建つのだとすると、影響はないかもしれないが、文化財側の費用で確認調査をしてはどうか。墳裾が出てきますよ、これ。

キンクラ

◆きんくら。車で上まで行ける。東側の造り出しが通路付きと判明したそ うな。宝塚と同じく五社 神型ぴったりですよ。ほとんど築造時期は同じでしょう。
◆岡山って、150mクラスがゴロゴロある。

◆これだけ古墳がある。前方後円墳が両宮山、廻る山、小山、朱千駄、帆立の和田茶臼と森山、これらをどう配列し、全体をどうとらえ、そして歴史を見出していけるのだろうか。資料館でシンポの記録集があったが、中身をぱらぱら見たらよかった。両宮山が未完というだけでなく、古墳群としてどうとらえられているのか、という問題です。たぶん両宮山→朱千駄→小山→廻り山なんでしょうね。帆立2はどこの来るのか。難問ながら、こういうのは突き詰め突き詰め、配列することで道を開くしかないし、それで筋が見えてくるもんです。

朱千駄古墳

◆まあ残骸なわけです。が、グーグルでみると、南側の溜池は周濠の名残だろうし、北側 の道路を越えて墳丘が広がっていたんでしょうね。道の北側に降りていくことはしなかったな・・・、残念。

両宮山古墳

◆もしかして中に入ったのは初めてかも・・・。恥ずかしながら・・・。2008年に未完の古墳と書き、新しく掘って刊行された報告書に引用していただいている。墳丘盛土工程→葺石と、1段ずつ作るのではなく、盛土工程で上まで盛ってしまうことがわかる。したがって、この古墳の現状は、盛土途中の段階ということで、いま残されている墳丘からどんなふうに盛っていたかを読み取ることができるのかもしれない。新たな測量図もなかなか伐採が十分できないなかでの測量と聞いているが、造り出し相当位置の中段も張り出しているとか、テラス面が整っていないことなど、しかし岡山県史の写真測量よりも墳丘を忠実にとらえられているはず。なぜにテラスが整っていないのでしょうか。だいたい盛って、あとから成形する?。へんですよね。なかなか解せない。
◆後円部と前方部の高さはほぼトントン。現状では前方部の方がわずかに高いのかな。でもまあ周濠形態からしても、土師ニサンザイでなく大仙でしょう。437から454のどこかで着手されたわけです。で中断したのはいつか。雄略7年463、上道田狭を半島に追いやる・・・、年代的には悪くないかもしれませんね。

和田茶臼山古墳

◆パンフレットによると、55mの帆立で、2重周濠とのこと

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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