人を幸せにする人になろう

日本酒「雑賀」

◆うまいらしいです。

円応教

◆途中、へんな建物がある。以下ウィキ

 兵庫県氷上郡井原(現・丹波市)に生まれた深田千代子(1887年(明治20年)10月3日 - 1925年1月6日)を教祖とする。千代子は1919年7月16日、大阪市で数え年33歳のときに天啓を受け奇蹟霊験を現し、「神の使いしめに生まれ、世の中の道具になる」という教義の元に宗教活動を開始、修法という霊導の道を遺し39歳で夭逝(円応教では「ご昇天」と呼称)、教えは弟子により継がれ、1925年2月9日、円応法修会が設立され、佐々木俊蔵が会長に就任。1931年2月6日には、円応修法会と改称。深田家の菩提寺であった妙心寺派霊雲寺の住職・林誠道が会長に就任。1933年には円応報恩会が設立、伴仲実襄が会長に就任する。
 1948年(昭和23年)6月10日、教祖深田千代子の長男である、初代教主となる深田長治(1908年3月25日 - 1976年4月3日)により両会は合併され、教祖の法名「慈照院圓應智覺大姉(じしょういんえんのうちかくだいし)」より「円応」の二字をとり円応教として設立。長治は管長として就任後、千代子の遺文をもとにした教典及び教義書籍を発刊、仮本殿建設等、本部の整備などに尽力した。長治の死の1年後の1952年7月7日に宗教法人として認可される。現在の二代教主は、長治の長男の深田充啓(1937年2月27日 - )で、本部の整備充実を一層進めるとともに、教祖生誕百年祭の挙行と全県布教に尽力。
 天地同根、物心一如、万教一元、生活即宗教をうたい、「世の中の道具になる」の本義に基づき、個人の霊力の自覚と発現につとめ、教祖の霊導を信じて、個人の霊力の無限・崇高・偉大性を自覚反省懴悔する「修法」を行い、個人と社会との幸福なる生活を実現することを目的としている。教義の5項目として、まと・誠・愛・善・陰の行がある。
 円応教でいう修法とは、教祖によって考案された衆生の救済方法の一つである。この修法の中では、手の先をはじめとして身体全体に霊の感応が現れる身体的表現とともに布教師の口頭から発せられる言葉を「教文」といい、有意的懴悔、片言片句、半意識、無意識など多くがあり、また、現在意識・潜在意識を中心に歴史的潜在意識や霊的感応、阿頼耶識の発現により過去・現在・未来までが示現されるという。
 教勢    教会数 152教会 布教所数 173拠点 布教師数 3,078名 信者数 452,727名 (平成27年度版宗教年鑑より)

2017年8月19日、丹波・柏原

◆金曜日18:10頃に現場を離れ、山陽道で加古川へ。紀州・黒江で買った黒牛をもっていく。竹の伐 採で、両方の手の指がむくんだ感じ。
◆翌日は、丹波・栢原へでかける(昔は柏でなく栢と書いたという)。木の根橋というのが シンボルのようで、その一画に観光案内所がある。そこから町をぶ~らぶ~ら。織田信長の弟が3万6千石で入り、断絶。そのあと信長次男の宇陀の大和松山藩の織田家が、お家騒動を経て、栢原に2万石で移ったらしい。長屋門と幕末の御殿が残る。この陣屋跡は国史跡。目の前に資料館があり見学する。日中、猛暑で、陣屋跡の見学は見送り、食事に行く。
◆そのあと、石生の水分かれに。これ兵庫県人としては、加古川と由良川の分水嶺が平野にあるという、有名な話なのだが、実際に行ったことがなかった。考古学的にも、瀬戸内と日本海側を山越えなしに行き来でき、文化的にも重要ルートとされる。
◆漠然とした知識では、平坦な平野で、この水路が加古川へ、この水路が日本海へ、と思っていたが、そうではなかった。東側の山塊の扇状地が平野に張りだし、春日七日市に近い西の南北丘陵の先端に取り付く地形になっていて、扇状地中央ラインが南北の分水嶺になっている、というものだった。
◆谷を入ったところが公園整備され資料館もある。水場があり、小さい子供らが、セッティングされた水場で気持ちよくはしゃいでいる。人工物を作らずとも、夏、谷川で遊べばいいのに。孫が遊びに来たら、こんなところに連れてこないようにしよう。
◆資料館はちゃんとしていて、人もいて、解説してくれる。結局のところ、この扇状地を貫く河川があり(流路は人為的かな)、その分流の水口がこの谷部にあるので公園としたのだろう。水利的には意味はあるわけだが、分水嶺としては、石生の平地部の方が本筋だろう。公園は遊び場とし、平地の空き家などを利用して資料館とする方が意味があるように感じる。

中高6年間

◆朝MBSラジオで、日本の小学生の学力は高いのだが、中高6年のあとは世界的にぐっと落ちてしま うのだとか。詰め込みも必要、小学生の間はそれでいいのかもしれない。しかし、そこからさらに自分で物事を考えていく中高、そこのところの学習がひとまずダメってことですよね。文科省は対策を講じるべきでは。何でダメになるのか。そして右の新聞記事のような児童虐待の記事を読んでいると、小学校もそのうち崩れてくるのでは。
◆例えば理学部生物学科の学生がいると。みんながそうでないわけだが、生き物の名前など知らないらしい。生き物そのものに興味がない人がいるということです。外国の(と一般化できるかどうかは別にして)学生らは、いろんな生き物のことをよく知っているのだとか(これ先生の話だったかな)。
◆別件ですが、飛び級は制度的にもできあがっているのですよね。それは修得主義。15回の授業を厳守しろ、というのとは相反するのでは。
◆カケの大学設置に関しては保留になったのだとか。稲田も逃げ切り、萩生田等も逃げ切り、カケが採択されたと聞かされるまで、お友達のカケのオッサンが獣医学部新設にむけて動いていることを知らなかったとノタマウ首相も、内閣改造で逃げ切りと、沈静化させるわけにはいかない。が、この情勢の中で、結局は獣医学部を認めるんでしょうね。文科省も、首相の圧力とかがないんだったら認めなかったと、ちゃぶ台をひっくり返す、なんてことはよいしないんでしょう。強姦罪で逮捕状が出た人物を放免にして、これも逃げ切る菅。
◆教科書採択に圧力をかける政治家。この行為が犯罪にならないのだろうか。ヘイトスピーチを制限する法律は、どの範囲まで対象としているのだろうか。

過去2年の現説資料

◆を改めて出しておきます。







 





















 

久津川車塚2017年8月18日(金)最高気温34度

◆参加者 城陽市担当者、工藤さん、自分、長友、大澤(市大M1)、吉村(立命M1)、川北(京大M1)、泉(奈良大4)、相馬(近大4)、佐藤・中野・山口・山崎・宮下(立命3)、置本(立命3new)、池口(同志社3)、中谷(京都橘3)、上野(奈良大2)。
◆朝、雷雨。少し小雨になった7時前に、学生らはシートを掛けに行ってくれたようである。城陽に向かう時間帯の奈良盆地もけっこう雨だったが、9:00頃にはほぼ上がる。今日は、立木の伐採が入っており、朝から業者が稼働、ほぼ午前いっぱい作業。なので、17-1トレは水抜きだけ。
◆17-2トレ。すべて昨日の続き。(1)やはり上段裾部は攪乱溝が通る。その上に残る葺石面についても、最終的な検討により石の除去、残存葺石面の確定作業が必要。(2)攪乱溝を下げる。埴輪多量、蓋形もころころと。葺石側だけでなく、礫敷面側も攪乱の落ちがほぼ決まってきたが、攪乱壁面の検討含め、最終確定が必要。(3)礫面。ひたすら・・・。ただし南側はまばらで、埴輪の残り具合からしても礫面がかなり失われている可能性がある。(4)埴輪は新たに3個が検出でき、くびれ部の屈曲が明瞭となった(110度くらいかと、と)。昨日は屈曲ポイントに大型埴輪としたが、その南隣のものとをあわせた2個で屈曲部を形成している。検出面はほかよりやや低い。(5)埴輪から西のテラス面は下り斜面をなし礫面は失われている。本日、ほぼ埴輪付近から西側のテラス面、中段斜面上部まで、墳丘残存面まで掘り上げてくれた。
◆10時以降、人が増え、上部への拡張設定をする。現調査区で推定できるくびれ部ライン(中段肩部・埴輪・上段葺石面)、それと斜面上方で(途中の大穴より上の、後円部および前方部斜面の本来の姿が残っている部位)予想ポイントを決め、両側70㎝ずつ、径1.4m幅の仮調査区を設定し、表土掘削にかかる。その排土置き場のため、いまの排土で土嚢を作りL字に積み上げた(まだ低いが)。
◆伐採作業終了後、昼直前に17-1トレンチのシートを開ける。南壁の一部が崩落している。石は全般的に大丈夫ながら、下部のものには泥がかぶる(昼休み中にジョロで水をかけ、やれる範囲できれいにしておいた)。
◆昼休み、これまでに出た遺物の台帳づくり。
◆13:00、文化庁視察。
◆拡張部では竹の根との合戦。打ち取った首級がごろごろと下の調査区に落ちていき、危ないところだったが、人が密集するテラス面でも見事に人のいないところを落ちていった。大穴際で、表土直下で黄褐色砂質の盛土風のものがすぐに出てきている。葺石はほぼ落ちて残ってないのかもしれない。谷間の良好な葺石をできるだけ斜面上方まで出すという風景をめざしたが、残念ながら葺石はほぼ落っこちてないという予想。
◆第4Qの大半は不在。 新たな状況の写真を撮れていません(また来週)
〔石材調査〕橋本さん(写真)
〔来客〕伊藤さん

2017年8月20日 記事№3900

◆杉本町で銀行処理をして9:10出勤。河合塾模試。近肖古王37話見れず、終了1024。現説資料アップ1052。フォトスキャン開始1103。新聞読み始める。ブログ1350。サンダーバード処理開始1303。
フォトスキャンを2台に入れ、作業。サンダーバード処理終わり1739。

今日の1日

◆朝、6:30起床。7:00ぱんのいえで朝食。7:30出発。田尻峠越え、中和幹線、香芝インターから西名阪、郡山インターで降りる(目標8:00)。24号線を北上し、木津インターから京奈和(目標8:30)。城陽インターで降り、現場到着9:00前。西名阪や24号線の込み具合はいろいろ。今回、1回、西名阪がダダ込みで45分遅れたことがあった。
◆学生らは現場近くの空き家を宿舎として合宿。通いの子もいる。朝、お茶をサーバー2~3個に人数に応じて現場へ。午前9時から12時まで3時間だが、気温や作業内容で、1時間弱ごとに2回の休憩をはさんだり、30分1回だったり。昼は近くの弁当屋の弁当。毎日、個数だけ電話で伝える。これ1個いくらなんだろう。月締めでどっと請求がある。ちなみに合宿生活費は、1週間ごとくらいにウン万円か足してやる。道具とかの買い物がある場合は、昼休みにコーナンに買いに行く。
◆午後は、13時から17時だが、基本、作業は16:30までとしている。これも1回か2回の休憩をはさむ。15時休憩には、近くのマツヤスーパーで、サクレのオレンジとレモンを同量買いに行く(10月近くになると引き揚げ。2015年はある時点でサクレがなくなり大ショック)。作業の進捗状況によっては、16:45分くらいまで作業をすることもある。
◆16:30から現場ミーティング。学生隊長の進行のもと、各持ち場の状況を報告し、理解を共有したり、議論をしたり。作法のわかるヤツは、野帳にメモしている。別にそんなことはセヨとは言わない。やる人はやるし、やらない人はやらない。シート掛けして現場作業終了。遺物をテントまで引き揚げ、道具を直し、机をかたずけてテントを封じる。これで17時終了が目安(工藤さんは17:30にはビール)。
◆宿舎に引き揚げ、風呂行きの準備。月曜は梅の湯、それ以外は大久保湯。距離があるので、車で銭湯へ。多ければ2往復する。ず~と学生らと一緒に入浴してきたが、2往復になってきて、自分は入らず、車の中で日誌を書く(これもTM308から変わりなし)。風呂代がけっこうかかるが、これは必要経費です。近くにスーパー銭湯「源氏の湯」があり、通常の銭湯代に加え自分で500円足すなら、行きたいヤツは行け、ということにしている。
◆学生らは19:30頃に食事(食事当番などは泊まり学生ら次第)。2015年は最初は泊まっていたが、クーラーで凍えそうになり撤退(冗談です)。まあ、互いにその方がよいと思っています。ちゃんと自律的にやってくれています。ゴミが溜まることもなく。そして宿舎でも、本日の作業の再確認や、所見、明日の作業など、ミーティングをしてくれています。現地説明会の資料作りも任せています(点検はするにせよ)。このへんのスタイルは玉手山以来、変わることはありません。
◆そんなんで、本日、宿舎に銭湯第2便を送って行って「またあした」と城陽を出たのが18:10くらい。家に到着したのが19:30過ぎ。洗濯機を回し、風呂に入って、上がってきたのが20:00時。そこから食事。終了後、PCに向かい、日誌をアップし、会計簿をつける(学生らの生活費でなく自分のサイフの)。缶チューハイを呑みながら、この記事を書いています(20:45)。洗濯物を干す(21:00)。
◆フォトスキャンにむかってもいいのだが、ひとまず学生らが銭湯に入っている間に書いた日誌をアップしたが、これから写真の整理が待っている。韓流ドラマを見たりして、早ければ23時ごろに寝るし、遅ければ1時とか・・・。
◆こんな暮らしが、毎年1か月半。基本的に、こんな古墳が掘れることは幸せなことで、楽しくやっております。学生らには、きめ細かにというわけではないですが、道具の使い方や、掘り方や、土の見方や、一定のことはやってます。こっちが疲れ切るとよくないし、そこは自分を維持しながら、できるだけ理解を共有し、目的意識をはっきりさせ、作業に向かってもらうよう心掛けたいものです。上の学年、院生らから、現場で宿舎でいろいろ教えられたり、注意されたりしながら、多くのことを学んでいく。そして現場の作法を身に着けていく。主体的に学びたいと思っている人は、わからないことを聞くだろうし、吸収しようと思うだろう。ぜんぶ教えてもらうなんてことはないと理解すべし。そもそもが、義務で参加してほしくない。掘りたい人間の集団で掘りたいもの。そこは、どうしてもお客さん的に参加している者は、それなりのことしか伝達できない。基本は最初から完了まで一通りやってなんぼである。

久津川車塚2017年8月17日(木)最高気温31度

◆参加者 城陽市担当者、工藤さん、自分、長友、大澤(市大M1)、吉村(立命M1)、川北(京大M1)、山口・山崎(立命3)、佐藤・中野・宮下(立命3new)、池口(同志社3)、中谷(京都橘3)、上野(奈良大2)。
◆17-2(西くびれ部上段)トレンチ。(1)上段裾部の葺石の続きが検出され、前方部側面に移 行した。ほぼ前年度調査区南壁から30㎝程度か。上段裾部大溝のあたりでは、出てきている石が段差状になっており、やはりヤラレかもしれない。(2)テラス面の礫は新規調査区で、前年度調査区から南へ30㎝程度まで礫面が出始めている。まずはアラ出しを南壁までやってしまう必要がある。(3)前年度の埴輪養生をはずし、前年度、南壁で半分出ているものの残り半分を検出。それにほぼ接して南隣の埴輪も検出したが、今日はそこどまり。高さ的には下がっているが、残りが悪いのか今のところ頭が出てこない。そして前方部への折れを確認した。まだ数は少ないわけだが、前年度に半分出していたものが、径32㎝で大きく、これが屈曲点になるらしい。北隣の埴輪に朝顔口縁があるが、それが大型埴輪かな、と。この埴 輪と新規に出た1個を結ぶと、後円部埴輪列から前方部側面へと角度を変えている。昨年の南壁がくびれ部ラインだった!、ということになる。(4)埴輪より外側のテラス面は、明らかにやや下り斜面となって流れており、盛土のテラス面が露呈し、礫はほとんどない。(5)中段斜面肩部はほぼ掘り上がり。肩ラインで見ても、後円部の肩と前方部の肩が折れを示す。
◆明日で、およそ掘り上がり近くまでいくだろう。上段裾部の石たちを決着させることである。葺石面を確定させ仕上げるのと、攪乱を確認して、攪乱なら掘り上げる。礫面の清掃は手間だが、どこかの段階で、大勢でよってたかってやるべし。
【今日のひとこと】発掘とは、掘り上げなければならない土を掘り上げること。
◆17-1(後円部西墳端)トレンチ。昨日の夜以来、後円部基底と陸橋
の折れはもう少し上がるの ではないか、礫面もそれにあわせてもう少し縮めないといけないのでは、と思い始める。ともかく、あそこは壁面沿いに石をはずし、地山の整形と礫の堆積状況を確認する必要があると思い始める。裏を取っておくダメ押しの断ち割りは、すべての記録を取ってからでいいだろうが、遺構の理解や掘り上がりに直結する課題は、早めに探る手段をとり、確実な理解のもとに仕上がる必要があるな~と。なので、協議の上で、本日、午後から石をはずす。
◆結論。やはり地山の整形に対応して、礫の下が地山の内側に対し、外側は濠内堆積土に乗っており、1m弱は内側になりそうである。勢いでの掘り上げは、一息入れるべし。これも真理。が、その時点時点で判断してやってきており、掘り間違って失ったわけではないし、土壇場でなく早めに確認できたわけで、改めて掘り上げ、また写真も撮ればよい。来週ですかね。
〔来客〕小澤さん、加納さん(京都市埋文研)、漫画家睦月さん(お茶などをいただきました)。

いつものことながら悩みます

◆陸橋以外の後円部葺石をみておきます。横列石、あるのかもしれませんね。石の大きさが違う。それとくびれはどこなのか。もしかすると図のように、いま少し内側なのかもしれません。そうなると、陸橋裾部も今残しているものより、だいぶ内側になります。礫を斜面のみならず濠底にのばしている、ということもあるのかもしれません。津堂の島もそんな大きくない礫だったような気もする。基底石というか縁石はあったんかいな。それがないと、なかなか礫で生き死にの判断は難しい。
◆西壁を割るしかないですね。地山面がどこで立ち上がり、陸橋として掘り残して形づくられているのか、そこに礫がどのように堆積しているのか。その状況をまずは確認すること。割っても判断がつかなければそれは仕方なし。しかし割って、基底石があるとか、間層があるとか、埴輪が内部に入っているとか、ということになってくると、やはり内側ということにもなる。箸墓前方部を思い出す。累々たる石、転落石か本来の葺石か、調査する側としては上からはずしていき、こうちゃうか、というところで止めるしかない。で断ち割り。箸墓では内部から巨大な基底石が検出されている。が、それを全体にわたって再検出はしていない。確か埋め殺しと判断していたと思う。いや内部で見つかったのが基底石だ、と思うが。
【追記】久津川調査団は伊藤さんを待っている。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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