人を幸せにする人になろう

2023年9月29日(金)

◆カミサンが、後期の月・金に1限があるので、河内国分6:23発の急行で出勤しています。7:30までには職場に着く。今日は、まずヒストリア300号の決着からかな(10月6日校了予定)。

岩橋・大谷山22号墳

◆墳丘調査の報告書をコピーし、自分なりに復元しました。報告書の復元案とは一部異なり、確か に石室開口部の高さを考慮しないといけないな~と思いつつ。また赤色立体図を見ると、前方部のテラス面がよくわかる。こういうのを見ていると、おそらく業者測量なんだろうが、墳丘の細部を捉えきれていないのだろうと思います。トレンチの成果から西側の造り出しが想定されていますが、ちょっとわかりません。基壇なるものは確かにあるのかな。大日山と違って、前方後円形のもので、3段築成として考えてもいいのかもしれません。丘陵部にあって流出もあり、明らかな人工的な地山加工から判断していくのは難しいですね。

新聞記事、この3日

◆106万円の壁、130万円の壁、というのが3日連続で解説されているのだが、なかなか理解できな かったが、今日の記事でおよそわかったように思う。第3号被保険者というのが1986年にでき、配偶者の年金は配偶者の年金として別建てになるも、負担がないことが維持される。実態はともかく、「第3号被保険者」という区分が誕生したのは、意外に新しいものだったのですね。
◆そこから30年以上が経過し、専業主婦が少なくなっている現在、これを根本的に改め、年金とか保険は、給付を受ける以上、個々人がみな負担するという方向が望ましいに違いないが、なかなか困難ということのようだが。

2023年9月25日、後期の学期始まる

◆10月からだったものが、9月最終週からに早くなったのは、昨年度からだろうか。公立大となって半期15回となる(とはいえなぜか学年暦の書き方があいまい)。100分14回の方がいいと思うが。なので、夏休みはない。現場が終わり、翌週から授業というわけだ。
◆26日(火曜日)、1限の講義と2限の考古学実習。が、2限で異変。考古学実習は日本史コースの学生には必修ではなく選択必修科目ではあるのだが、これまでは日本史2回生はだいたい履修していたのだが・・・。履修指導が徹底されていない。4月のガイダンスでちゃんと伝わっていなかったのだろう。

モナリザスプレー事件

◆9月6日の新聞で、1974年のモナリザの日本公開の場で、赤色のスプレーを噴射した事件があった ことを知る。米津知子さん(74)。非難を浴びるが、噴射は、障害者を排除しようとする社会への抗議の行動だった。

2023年9月18日 宇陀松山

◆旧三杉村からの帰り、そのまま榛原に出ず、宇多松山を再訪する。吉野葛を買い、きみごろもを 食べ、茶房「あゆみ」により、おばさんと話をする。前来たときは冬に近いときだったか、近鉄線に乗っていると、どこかでサッと冷気で曇る、という話を聞いたことを記憶する。
◆今回は一筋を歩いたくらいだが、マチとしてけっこうな規模があることを改めて感じる。富山の八尾となんとなく似ている。また、旧松山町役場というのが宇陀松山会館としてガイダンス施設ができており(たぶん前にはなかった)、また古民家には「古民家を大切にする会」というのができあがっていて、古い町屋建物に 札が付されていて、デンケンとしての景観を大事にしていこうという動きが進んでいるように思われた。

暑い夏の局所的豪雨

◆最近は、写真のような風景をよく見るように思います。

2023年9月22日(金)、現場終わり

◆今年度の調査が終了した。8月17日の重機掘削の立ち合いから、1月強、なかなか歳には勝てず、 最終週は、帰ってきてほんとに何もしなかった。なので、せっせと雑用をこなす23日(土)です。
◆最終日の22日は、最後の図面を院生・学生らが仕上げてくれ、一方で手の空いている学生らは機材等の片づけを進め、夕刻に解散した(ほぼ1830)。最終日に参加してくれたみなさん、ありがとう。

2023年9月18日 旧美杉村7 織田信雄

◆北畠を織田が乗っ取るのですね(以下、ウィキ参照)。 永禄12年、信長は伊勢大河内城を攻め、北畠具教は和議を請い、その条件として信長の次男・信雄(茶筅)が北畠の養嗣子となることが決まる。具教の娘の千代御前(雪姫)との婚儀は、元亀2年(1571年)のことという。北畠具豊と名乗る。天正2年(1574年)7月、北畠ら南伊勢衆を率いて長島攻めに参戦、これが初陣であったと思われる。天正3年6月、具豊は北畠家の家督(伊勢国司)を相続。6月23日、具教・具房父子は三瀬御所に隠居。家督相続を機に信意に改名したとみられる。
◆天正4年(1576年)11月、信長は北畠一族を粛清。三瀬の変で、北畠具教やその子らが謀殺される。北畠政成ら残党が霧山城(多気御所)に立て籠もると、信長は羽柴秀吉、神戸信孝、関盛信ら諸将と15,000の兵を差し向けて、12月4日に攻め立てて政成らを自害させた。
◆信意の正室である千代御前は、11月28日、父と兄弟が夫によって謀殺されたと知ると、自害して果てた。千代御前は戦国随一との評判の美貌で、享年19。三瀬の変によって北畠勢力は一掃され、北畠家の南伊勢5郡の勢力は、そのまま信意の権力基盤へと継承されていった。
◆織田信雄という人物、その後もなかなか波乱万丈ですね。
◆宇多松山藩について(ウィキ)

 関ヶ原の戦いの功績により福島高晴が3万石余で伊勢国長島から加増転封されて立藩した。高晴は1615年の大坂夏の陣で豊臣氏に内通した嫌疑をかけられて改易され、織田信雄が大和国と上野国両国内に合わせて5万石を与えられて入封した。その際、天下人であった織田信長の子であるという所以から国主格も与えられた。信雄は上野の所領を四男の信良に与え、自身は隠居領として大和2万8000石を領した。1630年に信雄が死去すると、大和の所領は五男の高長が継いだ。その後、長頼・信武と続くが、藩内に混乱が起こり信武は自殺した(宇陀崩れ)。信長の血統であるということを重んじられて、信武の子・信休への家督相続こそ認められたが、所領を2万石に減らされた上で丹波柏原藩へ減移封された。国主格として扱われていた待遇も、このときに剥奪された。宇陀松山藩はこれをもって廃藩となった。

◆まあしかし、信雄は松山の統治は家臣に任せ、京都にいたようだ。

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プロフィール

HN:
雲楽
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61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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