人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
田中琢さん(3)
◆そんなんで、仕事上、あまり接点はないままであった。佐原さんとは、廊下で顔をあわすと、「なんとかさんの論文、あれはどうなん」みたいな話を振ってこられ、しばらく話をしたりすることもあった。佐原さんも、途中で歴博に出られたが。
◆さて、田中さん、自分にとっては、けっこう憧れ?、でした。考古学とナショナリズムを論じたものや、文化財保護の話など、そういう田中さんしか書けない、今日的な問題意識のもとに書かれたものを読んでは、刺激を受けていた。勝手にシンパシーを抱いていたという面がある。むろん研究者なのだが、文化財行政官のスペシャリストでしたね。
◆かつての上司、考古第3室長のYさんの言葉を覚えている。「タクさんは、風呂に入っていても、奈文研のことを考えているような人だ」、と。
◆最後に。既に引退して考古学の本なども読まないんだろうという時期に、『倭人争乱』で書いていることを批判する文を書いている時、ちょこっと顔を思い浮かべたものです。
◆学問的な話をする機会があまりなかったのは残念です。もひとつ思い出した。確か三角縁の話で、「あんたら、研究組織の研究者でない市井の研究にあまりふれないが、そういう研究にも重要なものがあり、ちゃんと取り上げなあかんぞ」みたいなことを、ある時、言われたことがありました。
◆さて、田中さん、自分にとっては、けっこう憧れ?、でした。考古学とナショナリズムを論じたものや、文化財保護の話など、そういう田中さんしか書けない、今日的な問題意識のもとに書かれたものを読んでは、刺激を受けていた。勝手にシンパシーを抱いていたという面がある。むろん研究者なのだが、文化財行政官のスペシャリストでしたね。
◆かつての上司、考古第3室長のYさんの言葉を覚えている。「タクさんは、風呂に入っていても、奈文研のことを考えているような人だ」、と。
◆最後に。既に引退して考古学の本なども読まないんだろうという時期に、『倭人争乱』で書いていることを批判する文を書いている時、ちょこっと顔を思い浮かべたものです。
◆学問的な話をする機会があまりなかったのは残念です。もひとつ思い出した。確か三角縁の話で、「あんたら、研究組織の研究者でない市井の研究にあまりふれないが、そういう研究にも重要なものがあり、ちゃんと取り上げなあかんぞ」みたいなことを、ある時、言われたことがありました。
田中琢さん(2)
◆奈文研センター長、滋賀県担当者、八日市市担当者の取り扱い協議の場に、わたし、ちょこんと座っていたわけです。
◆田中さん。「八日市市もこのあとの調査予定もあって、継続できない。埋め戻すわけにもいかんから、ま、大学やな」。で、「お前のとこ、どうや」と振られ・・・。ここまで書いてくると、以前にこのブログで書いたような気がしてきた。老人なので勘弁を・・・。結局、都出先生に話をもっていくことになったわけだ。そこからの阪大の体制整備、準備、着手というのは、たいへんなことだったであろう。都出先生から加わらないかと声をかけていただき、再開初日から現地説明会あたりまで第1次調査に参加した。
◆で、翌年1990年、奈文研の試験を東博で受け、面接に進み(これは奈文研?)、田中さんから、「お前、古墳の調査はでけへんけど、ええんか」みたいな質問を受けたような気がする。
◆就職したが、3階のセンターと2階の平城調査部は、日常では接点ない。次は、1996年である。所長になっていた田中さんに呼び出され、「お前、4月から東京に行ってくれ。Iが戻ってくるんやけど、古墳時代のやつが欲しいというてんねん」。こんな通告を手短に告げられ、有無を言わさず決定。4月に新築なるマンションをローンを組んで入居する直前だった。
◆田中さん。「八日市市もこのあとの調査予定もあって、継続できない。埋め戻すわけにもいかんから、ま、大学やな」。で、「お前のとこ、どうや」と振られ・・・。ここまで書いてくると、以前にこのブログで書いたような気がしてきた。老人なので勘弁を・・・。結局、都出先生に話をもっていくことになったわけだ。そこからの阪大の体制整備、準備、着手というのは、たいへんなことだったであろう。都出先生から加わらないかと声をかけていただき、再開初日から現地説明会あたりまで第1次調査に参加した。
◆で、翌年1990年、奈文研の試験を東博で受け、面接に進み(これは奈文研?)、田中さんから、「お前、古墳の調査はでけへんけど、ええんか」みたいな質問を受けたような気がする。
◆就職したが、3階のセンターと2階の平城調査部は、日常では接点ない。次は、1996年である。所長になっていた田中さんに呼び出され、「お前、4月から東京に行ってくれ。Iが戻ってくるんやけど、古墳時代のやつが欲しいというてんねん」。こんな通告を手短に告げられ、有無を言わさず決定。4月に新築なるマンションをローンを組んで入居する直前だった。
田中琢さん
◆ちょっと前に奈文研の人から、亡くなったことを聞いた。その後、新聞にも出た。
◆田中琢さんと初めて、電話だったが話をする機会があったのは、大学4年の卒業した頃だったか。だから1987年。三角縁の論文が世に出たのは翌年?だったか。
◆で、1989年8月末か9月はじめか、電話がかかってきた。M2。「あのな、滋賀県で三角縁が出てるねん。見に行くか。いついつやけど。」と。「はい、いけます」。「〇時に滋賀県庁に来て」。こんなところか。このあたりは、雪野山の調査20周年?かなにかの後援会記録に書いたような・・・。文化財保護課に行き、滋賀県の公用車に乗る。どこに行くか知らされておらず、車の外をながめていると、龍王インターで降りた(のだろう)。少し前まで、雪野寺の発掘でそのへんにいたところではないか。山を登ったんでしょうね。石室が口を開け、床面の棺床の凹部の埋土のみになったところまで充満していた土が除去され、一部、横断したサブトレが入り、そこに鏡がのぞいていた。
◆わたしは下に降り、鏡片を取り上げると、藤崎と同笵の盤竜鏡だった。内行花文鏡は表を向いていたのだったか。で、もう1面の鏡片を取り上げると、わたしにはわからん世界。三角縁ではない、和製鏡の図像だった。田中さんは、それを見て、ダ龍鏡やな、と。
◆八日市市が展望台整備のための確認調査をやっていたわけだ。で、そのあと、八日市市役所で協議に入る。このあたりのことは、まだ活字にしたことはないと思う。
◆田中琢さんと初めて、電話だったが話をする機会があったのは、大学4年の卒業した頃だったか。だから1987年。三角縁の論文が世に出たのは翌年?だったか。
◆で、1989年8月末か9月はじめか、電話がかかってきた。M2。「あのな、滋賀県で三角縁が出てるねん。見に行くか。いついつやけど。」と。「はい、いけます」。「〇時に滋賀県庁に来て」。こんなところか。このあたりは、雪野山の調査20周年?かなにかの後援会記録に書いたような・・・。文化財保護課に行き、滋賀県の公用車に乗る。どこに行くか知らされておらず、車の外をながめていると、龍王インターで降りた(のだろう)。少し前まで、雪野寺の発掘でそのへんにいたところではないか。山を登ったんでしょうね。石室が口を開け、床面の棺床の凹部の埋土のみになったところまで充満していた土が除去され、一部、横断したサブトレが入り、そこに鏡がのぞいていた。
◆わたしは下に降り、鏡片を取り上げると、藤崎と同笵の盤竜鏡だった。内行花文鏡は表を向いていたのだったか。で、もう1面の鏡片を取り上げると、わたしにはわからん世界。三角縁ではない、和製鏡の図像だった。田中さんは、それを見て、ダ龍鏡やな、と。
◆八日市市が展望台整備のための確認調査をやっていたわけだ。で、そのあと、八日市市役所で協議に入る。このあたりのことは、まだ活字にしたことはないと思う。
文化財保存活用地域計画
◆最新の『月間文化財』を見ていると、文化審議会で新たに20市町の計画が認定されたそうです。近隣で言えば、栗東市・与謝野町・高槻市・八尾市・神戸市・福崎町がある。
2022年9月3日
◆この土日、できていない雑件、追いつかないといけない案件、なんとかそれらを処理しようと思っています。で、午前中はなんとかやってましたが、12時にディスプレイが映らなくなり中断。いろいろやってみてもダメ。ケーブルを買いに行って、HDMIにしてもダメ。ほとほといやになる。院生が来たので、院生室のディスプレイを借り、いろいろ実験をやって、なにがダメなのかを追究する。結局、ディスプレイへの通信の選択の問題、ちゃんちゃん。なぜ急に映らなくなったのかはわかりませんが。復旧したのは1730。まあ、ここから頑張りますか。
久津川車塚古墳2022
◆協力している久津川車塚古墳の今年度の調査は、はじめてJR線より東側における調査になります。8月22日から26日に機会掘削、学生らは29日から入りました。雨も多く、第1週では2日中止となりました。9月はもろもろ行事等が入っていて、ほぼいるというわけにはいかないようです。29日からの第1週では、大学院入試などがあり、行けたのは初日と金曜日の午後くらいでした。
◆9月24日(土曜日)に現説予定となっています。
◆9月24日(土曜日)に現説予定となっています。
2022年9月2日(金)
◆この週はとにかくバタバタ。金曜日の930からの会議で、講演会企画の資料を出さないといけないが、動けていなかったので、直前にあれこれと。そして10:30からPJ研究会。ここでも科研申請の骨子を出さなければならず、数日間苦しむ。なんとか会議に出してもいいか、という資料ができたのが当日の朝だった。それにスケジュール管理が甘く、だだかぶりで、もうひとつ出席しなければならない会議が重なっていた。この会議では、2件ほど担当しているものがある。重なることが判明後、ドタバタと対応し、委員長に欠席をお願いし、会議に出て報告すべきことを伝える。
◆この3件をなんとかこなして、ほっと。
◆12:30の研究会終了後、現場に向かう。現場はやはりいいもんだ。が、判断を誤り、大きなミスをしていることが判明し、己の未熟さを痛感する。
◆帰り、18時前後の大阪はどしゃぶり。今日、カミサンがストックホルムの学会に出発するのですが、飛行機が遅く、19時くらいに家を出ると聞いていました。1830に帰るも、外は大雨で、関空まで車で送っていくことにする。関空のカウンターで、荷物預けで並んでいる中部大学のI先生と顔を合わせ、われわれは晩飯に(ターミナル1が改修工事で店がない・・・)。1人、21時過ぎに関空を出る。
◆この3件をなんとかこなして、ほっと。
◆12:30の研究会終了後、現場に向かう。現場はやはりいいもんだ。が、判断を誤り、大きなミスをしていることが判明し、己の未熟さを痛感する。
◆帰り、18時前後の大阪はどしゃぶり。今日、カミサンがストックホルムの学会に出発するのですが、飛行機が遅く、19時くらいに家を出ると聞いていました。1830に帰るも、外は大雨で、関空まで車で送っていくことにする。関空のカウンターで、荷物預けで並んでいる中部大学のI先生と顔を合わせ、われわれは晩飯に(ターミナル1が改修工事で店がない・・・)。1人、21時過ぎに関空を出る。
2022年8月28日、三田・伊丹
◆あんたは切り替えがヘタ、とはカミサンの弁。メリハリがない。休むときは休む!・・・(セカセカするな、とも)。配偶者は人生の セーフティネットですね。
◆伊丹のミュージアムへ行こうかという話を土曜日にしていた。じゃ尼崎も。が、当日の日曜日になり三田も、ということになる。遠くからと行くこととし、まず三田。途中、石橋で二子塚(稲荷山古墳)に。それから久しぶりに鉢塚。そこから池田を抜け(ところどころに町屋が残ってますね)、猪名川町
、そして三田へ抜ける。どこへ行ったかは内緒です。
◆そこから中国道で宝塚、そして伊丹のミュージアム。前の市立博物館から、伊丹の町なかの文化ゾーンへと移転し、なかなか斬新でした(3月にオープンしたのだったか)。いまやっている企画展人気により、来館者がとても多かった。移築した石橋家住宅。それから旧岡田家住宅・酒蔵を見学。ここで解説の方にながながと説明いただく。楽しかった。少し町を散策(山中鹿之助の子孫が伊丹で清酒をはじめて作り、鴻池になるのだ。広瀬隆の本で、比較的最近知ったことだが、酒蔵での説明で再学習)。
◆ぎりぎり尼崎市歴史博物館に行けるかという時間帯だったが、断念。
◆伊丹のミュージアムへ行こうかという話を土曜日にしていた。じゃ尼崎も。が、当日の日曜日になり三田も、ということになる。遠くからと行くこととし、まず三田。途中、石橋で二子塚(稲荷山古墳)に。それから久しぶりに鉢塚。そこから池田を抜け(ところどころに町屋が残ってますね)、猪名川町
◆そこから中国道で宝塚、そして伊丹のミュージアム。前の市立博物館から、伊丹の町なかの文化ゾーンへと移転し、なかなか斬新でした(3月にオープンしたのだったか)。いまやっている企画展人気により、来館者がとても多かった。移築した石橋家住宅。それから旧岡田家住宅・酒蔵を見学。ここで解説の方にながながと説明いただく。楽しかった。少し町を散策(山中鹿之助の子孫が伊丹で清酒をはじめて作り、鴻池になるのだ。広瀬隆の本で、比較的最近知ったことだが、酒蔵での説明で再学習)。
◆ぎりぎり尼崎市歴史博物館に行けるかという時間帯だったが、断念。
低空飛行を続けておりました
◆しばらくでした。8月前半は、いろいろあって、空白・・・。いま、取り返し、追いつこうとしています。先延ばしになっていた懸案、ある程度片付いたとはいえ、かなり片付けたというにはまだ遠いが。が、一定程度は処理しております。
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プロフィール
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。