人を幸せにする人になろう

国立博物館の自己収入

◆昨日の新聞に大きく掲載されていました。展示にかかる経費と、その開催による収入のことが問題にされているようです。
◆自己収入については、館蔵品に即していろいろやれることはあるだろうとの立場なので、それをもっと考えてやるべしという意味では、断固反対ではない。
◆一方で国立博物館っちう、国を代表するものの価値を高めるための、たとえば購入や修理といった経費その他、そういう面を拡充していくための予算増といった措置とセットにしてほしいものだ。

水野勝成と大坂夏の陣

◆以下、ウィキ。

 夏の陣では大和口方面(大和方面軍)の一番手総大将に指名されるが、勝成の性格を知る家康はこれに先立って「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と厳しく命じている。京都を発った勝成は山城国長池から奈良に進み大野治房の奈良焼討ちを阻止した(郡山城の戦い)。
 奈良に着いた勝成は法隆寺から河内国府に軍を進め、本多忠政・松平忠明・伊達政宗・松平忠輝らと合流する。東軍の大和口の諸将は、4月28日以後はいずれも奈良およびその付近にあった。5月4日、勝成は秀忠に呼ばれ伏見に行き、敵に奈良を焼かせなかった功として、黄金50枚の賞を受けたが、そのまま夜を徹して南に帰り、5日には、堀直寄・松倉重政・別所孫次郎・奥田忠次・丹羽氏信、および中山照守・村瀬重治らと出発して、午後4時には国分に付いて宿営した。兵数約3,800である。
 6日、河内国志紀郡道明寺村付近においてかつての同僚、後藤基次と交戦する(道明寺の戦い)。前夜のうちに単騎で小松山を登り、地形を確認。ここに敵を誘いこんで撃破する作戦を行い、図に当たる。ここで勝成は家康の命を無視し軍の大将にもかかわらず一番槍をあげ、基次の部隊を壊滅させた。さらに誉田村に兵を進め、渡辺糺と戦端を開き、糺に深手を負わせた。そのまま追撃戦になり、薄田兼相は勝成の家臣・河村重長に討ち取られた。そこに大坂方の後衛の真田信繁、毛利勝永、明石全登、大野治長らの軍が進軍してきたためこれと対峙。ここで勝成は、敵を討ち取りたいため戦端を開きたい旨を、隣に陣を構える伊達政宗に両三度申し入れたが、弾薬不足や死傷者の多さを理由に2度拒絶され、3度目には政宗が直接勝成の許を訪れ同じ理由で拒絶した。そのため大坂方と徳川方は睨み合いの状態となり、のち豊臣方が撤退したため、戦いは終結した。
 翌日、大和方面軍は家康の命により住吉に向かった。天王寺口において、真田信繁隊が家康の旗本へ攻め込んで、家康をあわやの目に合わせたとき、水野隊は天王寺へ駆けつけ、越前松平隊とともに戦って茶臼山を落とし、後方を遮断。勢いを失った真田信繁は、松平忠直と本多忠政、松平忠明に足止めされていた。そこに勝成は勝愛院の西の方から600人許りで真田隊に攻め寄せた。三方から敵を受けた真田隊はついに壊滅した。信繁麾下の大谷吉治は、勝成の隊に討たれたとの情報もある。その後、越前松平隊は明石全登に崩されて、勝成の軍に逃げ込んでくるが、勝成はこれを叱責。槍を手に自ら先陣に立ってこれを押しとどめ、全登の部隊を撃退した。このとき勝成は自ら2つの首級をあげ、明石全登は勝成家臣・汀三右衛門が討ち取った。大坂城桜門に一番旗を立てる。 

神辺城

◆以下、ウィキ。

 現在の位置(黄葉山)にあるものは、室町時代の1443年(嘉吉3年)に山名氏によって築かれたのが始まりと思われる。
 黄葉山の神辺城は度重なる改修を受け、江戸時代になると福島氏により近世城郭として整備されるが、福島氏に替わり入封した水野勝成は新たな城(福山城)を築いて神辺城を廃城とした。このとき、建物や石垣の殆どが福山城に転用されるなどしたため、神辺城跡には山頂や尾根を削った曲輪や掘割などが現存するのみとなっている。
 なお、神辺城(黄葉山)の城名は廃城後(16世紀末以降)に付けたれたものであり、歴史上は「村尾城」が正確な呼称である。 

最後は古代山陽道

◆神辺駅に立ち寄る。JRの駅と井原(いばら)鉄道の駅である。そこから東を見ると山があり、これが神辺城。歴史資料館があるが、いまそこへ至る道が倒木のため通れなくなり、休館している。
◆そして最後、古代山陽道と近世山陽道の交点というところに行く。右がほぼ東西の古代山陽道。近世は石州街道とよばれる。左手が近世山陽道。そして画角の左に備後国分寺がある。
◆本日はここまで。

神辺本陣

◆本陣はさすが本陣。西国大名が参勤交代の都度宿所とし、建物がほんとによく残っている。
◆おじさんにいただいた冊子から1頁を転載させてもらいます。「土日祝日の10時00分-12時00分、平日及び団体は1週間前までに要予約」とある。そうか、土日は午前ならふらりと訪れることも可能なんだ。

薔薇と槐

◆案内資料には2種あり、もうひとつは薔薇と槐の資料。ここでは中国伝来の薔薇が植えられていたという。薔薇はそもそも中国のものだそうで、それがヨーロッパで現在われわれが目にするような品種改良されたものが近代に入ってきたのであるが、近世日本に薔薇はあったという。
◆もうひとつが槐。これは仁政を意味するものとされ、菅茶山は次代を担う教育を行う塾としてこの木を植えていたのだとか。国会議事堂には、すべてこの槐を植え付けるべきですね。

廉塾・菅茶山旧宅

◆車を止めて町あるきをしようとしていると、おじさんが来て 案内しましょうかと。案内用のA4資料で丁寧に案内いただく。そのあと、ここと本陣の冊子もいただく。
◆こては特別史跡なんです。大正の史跡名勝天然記念物法で史跡、戦後の文化財保護法で特別史跡となる。近世の私塾、講義をする塾の建物が、塾生の寮とともに残り、また私塾を開いた人物の旧宅も残るのは、全国でここしかないのだとか、だったかな。旧宅というのは、元の家が焼け塾の隣に住居を移したもののこと。この建物は現在も子孫が暮らしておられる(これも特別史跡ということか)。
◆一見すると、建物が建造物として重要文化財になっているようなものの方が規模も大きく、こじんまりとしたものなのだが、そこは史跡という価値付けはまた異なることがよくわかる。修理事業でわかったことも説明いただいた。塗り直した壁をはがすと、当初は赤壁であったことがわかったという。案内いただいた方は、韓国の書院の赤壁を参考にしたのではと考えているとのこと。
◆訪れて案内していただく方と出会い、やりとりする、そういう醍醐味を感じることができた。

神辺

◆そのあと、車のことでオートバックスに。終了後、竹原はもう無理なので、福山築城前の中心である神辺に行くことにする。神辺城には登らなかった。
◆近世には山陽道の宿駅として栄えた神辺のまちあるき。デンケンではないが、けっこう町屋が残り、本陣も残る。本陣が残るのは全国的にも片手か両手くらいしか残っていないはず(豊橋市二川宿本陣で学んだ知識)。
◆山陽道はいくつか屈曲し、それに沿って町場があるが、東側の方が残っているように思う。観光駐車場がよく整備されておらず、うろうろするも、廉塾・菅茶山旧宅のところに駐車場ありとなっていて、ここかな~という空き地に止める。いま修理事業がなされていて、その工事現場というところである。

プラグイン

カレンダー

02 2026/03 04
S M T W T F S
1 2 4 6 7
8 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索