人を幸せにする人になろう

2026年2月19日(木)宮崎へ

◆明日は西都原の委員会。今日は朝便にしてもらった。いま8:42伊丹空港です。午後、都城か日南か、そのあたりを。
◆日南ですね。デンケンがある。以下、ウィキ。戦国期は、天然の良港油津港を扼す飫肥城を巡って、戦国大名の伊東氏と大隅国・日向国の守護職の島津氏の100年以上にわたる国盗りの舞台となった。江戸時代は一貫して伊東氏飫肥藩5万7千石の城下町として繁栄した。
◆飫肥藩(おびはん)は、日向国宮崎郡と那珂郡を統治した藩。藩庁は飫肥城。藩主は伊東家。家格は外様大名である。なお藩主家の日向伊東氏は備中国岡田藩主家の備中伊東氏と同族である。
 工藤祐経の子孫・日向伊東氏は鎌倉時代に日向国の地頭に任じられ、建武2年(1335年)に伊東祐持が足利尊氏によって都於郡300町を宛てがわれて下向したことに始まる。一時は島津氏からの侵略により、日向国を退去するが、伊東祐兵が豊臣秀吉の九州平定に参加し、九州平定軍の先導役を務め上げた功績により飫肥の地を取り戻し、近世大名として復帰を成し遂げた。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、祐兵が大坂で病を得ていたため、成り行きで西軍につくものの、密かに黒田如水を通じて東軍に味方をし、嫡男祐慶を下向させて宮崎城を攻撃、事無きを得た。元和3年(1617年)、2代将軍・徳川秀忠より飫肥藩5万7千石の所領安堵の朱印状を受けた。以後廃藩置県まで一貫して14代にわたり伊東氏が飫肥藩主を務める。 
 

赤色顔料分析のサンプリング

◆M先生は岸和田市摩湯に住んでおられ、町の役員もされているのかな、このあいだ摩湯山古墳の葺石の撮影をやった際、見に来られ、そこで朱をやっていると。わたしのこともちょっと調べておられた。2026年の夏か秋に実施する東北大金研の学際ハブ事業の大阪講演会で、是非、1本報告をとお願いし、快諾いただいている。
◆1月の久津川車塚報告書月1打ち合わせの時に、石材に赤がついている板石が何枚かあり、また同様の白色円礫もあることを知り、さっそく分析を依頼したら、ただちに日程まで決まったというもの。これも縁ですね~。
◆ハンドヘルドの蛍光X線分析装置をもってきて確認し、そのあとテープを貼り付け、わずかなサンプルを採取されていた。Hgが検出された。計4点を分析することになる。硫黄同位体で国産はマイナス、中国産はプラスなのだそうだ。国産のうち、マイナスの数値で、徳島~奈良なのか、三重なのかが分離できるとのことです。

2026年2月17日(火曜日)城陽

◆車で出勤し、朝1時間だけ研究室で仕事をして(なんの?)、1015に出たのかな。11時に資料室との約束。
◆今日は12月に久津川石棺所在部の調査で出土した石材付着の赤色顔料の分析をお願いし、M先生がサンプル採取に来られる。そのついでに計測する形象埴輪の新しい箱を城陽から預かる作業も入れたわけである。いま大学にあるものは、だいぶ計測が進んだが、写真撮影をしていないので、持ち出すことはやめた。写真は木津川土手から見た比叡山。
◆今回、整理事務所から公大に搬入したものは、箱37・38・39・40・41・42・44・45・46・47・48、計11箱である。箱43は実測済みのもの。

2026年2月16日のその後

◆この日は、1630から森之宮の研究室でT市の担当者との相談があったのだが、この日は大歴の委員会が梅田で18時からあったので、大阪駅の喫茶店に変更してもらう。16時頃から1時間弱の、説明を聞いてのやりとりをした。そこから歩いて関学のサテライトに向かう。
◆委員会終了後、懇親会に行き、うちの院生委員も参加してくれ、けっこう長い時間やってました。そんなんで朝からバタバタし、修士修了生の関係書類などを書いているとすぐに森之宮を出る時間となり、まあドタバタの1日でした。

2026年2月16日(月)大阪歴文研

◆朝9時から事務局員のY君と会場設営。今回はハイブリッドなので。機械はY君に任せる。1本目の学内の古典籍の報告はズーム。2本目の淀川治水の話は、報告者のYさんが森之宮の会場に来られ、そこで報告いただく。音声のハウリングやパワポの送りなど、問題も生じたが、なんとか2時間あまり、研究会を実施できた。
◆いつもやっている、わたしが資料を作っての研究打ち合わせは、準備がないのでパス。まあ、月1回の研究会があるから、その機会に打ち合せ資料を作るので、たくさん動いているプロジェクトの進行管理もできている。この日はサボったわけだが、ちゃんと2月時点の整理をしておく必要がある。予算消化のこともある。

東寺に行く

◆終了後、東寺さんに足をのばす。五重塔の内部の特別公開。1人1200円。いま夜間にイルミネーションをやっている。昨日か?、新聞に画像が掲載されていました。洛南も男女共学になり、新しい校舎が背後にデンと建っていました。
◆帰って来て、明日の研究会の準備もあるのだが、頭が痛く、早く寝ることにする。報告者から送られてきたPDFなどの資料をメンバーに配信したくらい。

東寺駅

◆就職して、半年は西大寺、また京都に引っ越し、そのあと4年半ほど京都市南区の賃貸マンションから研究所に通っていた。京都駅にも近く、まあ便利なとこですね。そのあと同じ南区の新築マンションを買って、4月に入るというところで東京に移動になり、わたしは住んだことがないわけです。
◆2月15日、13時に現地ということで1時間前には到着し、東寺駅や昔の生活圏のところを懐かしみながらめぐる。亡くなった先生から後のことを任されている方と、いまの部屋の様子を確認した後、ひかり保育園に移動し、園長先生も入って打ち合わせ。人の縁とは面白いものです。奈良の方で掘ってましたよね、と、よくまあ覚えておられるものだ。実際に打ち合わせることはわずかで、亡くなった先生の思い出話をしていました。最後まで食欲が落ちなかったそうです。
◆上の長男は2か月から、ひかり保育園にお世話になった。2人目の長女も1年3か月ほど預かっていただいた。まだ小さかったので、京都のことはあまり覚えていないだろう。東寺駅前の九条通りに面していたスーパーはなくなり、ホテルになっていました。が、大きな通りから内側に入ると、昔とほとんど変わっていません。園長先生いわく、昔の短大出、4大出の保母さん1人に比べ、いまは3人雇ってようやく1人分、と。保育料の話も出た。いまはかなり無料なのだそうですね。かつては月になんぼ払ってたのかな~。

2026年2月15日(日)今日は京都

◆京都駅南のわたしのマンションに住んでもらっていた元保母さんの先生が亡くなったと、11日に連絡が入った。先生に最後にお会いしたのは2024年1月28日だった。まだまだお元気そうだったが、その1年後、25年2月にガンが見つかったのだそうです。
◆今日15日(日)は午後そのことで久しぶりにマンションに行き、このあとのことについて打ち合わせがある。明日16日午前の大阪歴文研のことで、その仕事をと思っていたが、午前中だけ職場に行き、準備に必要なものを持ち出し、京都から戻ってからやることにする。

2026年2月14日(土)近つ講演

◆12日は博論審査。近つの資料を作り始める。13日は朝1030から1日会議。資料はなんとかズーム会議の合間に作って、16時に送信。そこからパワポづくり。とはいえ夕方は1830から2100まで学会の編集会議。過去のパワポから抜き出して来る。この日は泊るつもりにしていたが、21時から22:30までやって家に帰ることにした。
◆翌日、家でパワポづくりを再開。これまでの講演会データで使った前方後円墳画像はそれを流用したが、今回新たに作ったものは、研究室のデスクトップの古墳データのリンクがはずれたため、画像が粗いものとなってしまう。近つにモノクロ出力で提出したものしかなく、カラーpdfで出力したものを作っておくべきでした。そこから取ってくればまだマシだったのだが。11時くらいにひととおり終わる。
◆13時に博物館に行き、90分しゃべる。5分オーバー。まああんなものかな。タイトルに網野銚子山を謳っていたので、網野の調査画像などを投影し、網野の復元を解説すべきところですが、上のような状態で、まったくそんな余裕はなかった。まあ、佐紀陵山型と五社神型をほぼフルラインナップ示しました。

江戸幕府の大名統制

◆各大名の預かる領地を石高であてがう。当然、査定があり、場所が選択される。不祥事を起こせば改易、そうでなくとも転封がある。親藩・譜代・外様の区別がある。所領の多い外様大名は監視される。武家諸法度がある。大名としての「あるべき姿」を示し、新城建設の禁止と修理の届け出、徒党を組むことの禁止、結婚の許可制、参勤交代が明文化されている。お手伝い普請もある。
◆正月の登城(年頭御礼)では、将軍への新年の挨拶が必須。家格(親藩・譜代・外様など)や石高によって、控室や将軍に会える順番、献上物の内容まで細かく決められている。正月以外にも五節句や八朔もある。こうした儀式への遅刻や無断欠席は、将軍への不敬とみなされ、厳しい処罰の対象となる。また豪華な装束や多額の献上物が必要。冬の未明から城門の前で待機し、吹きさらしの場所で長時間過ごすこともあり、高齢の大名にとっては命がけの公務でもあったとのこと。
◆江戸幕府の直轄領の国高は、時代とともに増加し、江戸時代中期から幕末にかけては約400万石だそうです(全国で3000万石だとか)。加賀前田家の4倍か。
◆こうした秩序がどのようにできあがっていったのか、戦国期から織豊期にかけて形成されてきたものを制度化し、徹底していったのかな。儀礼などは公家・武家でそれ以前から整えられてきたものがある。一方で藩は、監視を受けながらも、同じように家中を統制し、領内の支配は任されている。年収を上げるため、稲作とは別に諸産業の育成が進み、地域の特産品が生まれる。自立した大名、しかし全体として統制されている。
◆こうした江戸幕藩体制は古墳時代の参考になるところもあるだろう。そして、この幕藩体制ができ260年続いたのは、むろん徳川家康あってのことだ。この実力はどのようにできあがったのか。家康その人や、徳川家中の成長、関ヶ原までに獲得した領地という基盤があり、実力ナンバーワンに上り詰めたプロセスがあるわけだ。倭王権はどのようにできあがったのか。それは弥生時代の展開のなかにあり、畿内ヤマト国の成長があってのことである。倭国乱もある。が、そこに至る実力をつけるプロセスがあり、それだけの位置を占めるに至る理由があったはずだ。場所がよかったという話ではない。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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