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国分神社の鏡は松岳山出土

◆整理しておこう。元は下垣さんに教えてもらった話。
◆喜田貞吉「河内国分山船氏の墳墓 王辰爾墳墓の推定」(『歴史地理』第19巻第6号、1912年)。松岳山古墳後円部を55c1f96e.jpg「茶臼山」とよんでいる(松岳山より西側には視野はおよんでいない)。同行した毎日新聞社の岩井武俊の、「南河内地方旅中の見聞(3回)」でも松岳山=茶臼山との認識である。
◆そして1916の梅原の報告文。松岳山古墳の記述のところで、国分神社の鏡が寛永6年に松岳山が発掘された時に出たものとの説は、確かでない。「鏡の裏書にはただ「ちやうす山にて見いだし・・・」とあるのみにて、殊に其の茶臼山と云へるは塚にあらずしてこれより西方字市場茶臼塚のそれを指すなれば・・・」と書いている。茶臼山という場所があるとの認識を示すが、どこのことと理解しているのか示されないので(松岳山後円部でなくてどこなのか)、塚ではないという判断もこちらではできない。で、ここで出てくるのは市場の茶臼塚とある。で、字向山茶臼塚の項目のところで、2墳あって大きい方には盗掘孔があり、国分神社蔵の鏡は「此の塚にて見いだしたるものなるを知る」。とあり、字市場の茶臼塚は古墳かどうかわからんが流出して低くなっているのではとの認識を示す。小林行雄は追認。
◆結局のところ、向井山茶臼塚とする見解は梅原報告に出発し、小林行雄が追認し、これらが考古学的には基本文献であるが故にこうした見方が有力になったといえる。が、梅原報告の見解そのものの根拠は、茶臼山という場所は古墳じゃない→茶臼塚だろう、茶臼塚はたくさんある、そのうちふさわしいのは向井山にある大きい方ちゃうか、という程度の判断である。で、松岳山古墳後円部、梅原も小林も字美山であって茶臼山じゃないとするわけだが、喜田らの茶臼山とよばれているんだ、という見解とは齟齬をきたしているわけである。
◆向井山茶臼塚説に確たる根拠はなく、それよりも大正はじめに喜田らが河内をめぐった時に、当時の国分神社の宮司さんから、松岳山後円部を「茶臼山」との説明を聞いているわけである(地籍的にはどうかはともかく)。鏡が出土した「ちゃうす山」=松岳山、というのが実にシンプルな結論になる。「茶臼山」古墳はほかにもたくさんあるように、こんもりとした古墳のひとつの代名詞だが、西側のヤツが茶臼「塚」であるのに対して、大きな松岳山古墳後円部は茶臼「山」とよばれていることも納得できる話である。
 

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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