人を幸せにする人になろう

2016年8月26日(金曜日)久津川車塚

現地説明会は9月17日(土曜日)です。
◆参加。城陽市担当者。自分。長友。道上・阿部(市大)。三浦・大澤・コンマ1・安堂・木下(立命)。泉・田口(奈良大)。相馬(近代)。来客:京丹後市文化財保護審議会。文化庁文化財調査官+京都府保護課+フランス人3人。
◆寸止め班。朝からどうやってこの先進めるか、ず~と考えていた。深掘り底面の精査、両断面 の線引き、底部での陥没坑確認、段下げ、etc。昨日は、ねずみのややネチョネチョした土がまんなかにあるというところどまりだったが、底面のデコボコをなくしフラットにして丁寧に削り検出。底面で直線上の落ち込みラインが2本通り、その西側では、外側の墓坑埋土に近いがやや相違するかと思われた土があり、底面に3本の線を引く。陥没抗の真下ではなく東にずれた位置であることにも悩む。よくわからんので、畦沿いにサブトレを入れる。やはり明瞭な東2本は下に下っていくが、西側の境界線の差は認識できず。東2本の内部を10㎝程度深掘り。両側の高い墓坑埋土面のうち、西側だけ畦沿いにサブトレが入った不格好にしてしまった。最終的には底面の畦沿いを全部サブトレで抜いた方がいいかもしれない。棺幅部の深掘部の壁であるが、東側は垂直に落ち箱形木棺の壁かな、と。が対する西側は角度をもった斜面で、なんでちゃうんやろ。
◆カコイラ班は、図化した埴輪はすべて取り上げ、下層にかかり、最終面に残すものは残し、それいがいの遊離したものは、大きいものは位置を落としながら取り上げてくれている。これももう少し。取り上げとその下の探り、転石のはずしも並行しており、そのまま最終的な掘り上げ作業でもあり、注意を払う必要がある。
◆テラス面の班。調査区上端で転石やと自分が言っていた石たちは生きている、ということになり、乱暴な発言を反省。確かに攪乱で抜けがありつつも、いま残る石は差し込むように積み上げられ、相互にかみあっている様子が、石の間の土を除いていってわかるようになってきた。その角度からすると、裾部かと思われる位置にも攪乱が入っているのか、基底石がちゃんと座っておらず、むしろ基底石と思われる大型石材がそこから西に遊離して2個座っている。いずれかの時点で手が入って裾部の石をはずし動かされた、と考えるしかないかもしれません。葺石面および裾部などの石の抜け部分の攪乱は、攪乱なんだから幸い下が見えるわけだから、ガッツリと盛土面まで掘り下げ、抗の壁で盛土面をしっかりだし、そこに残存する石たちがちゃんと載っている、ということを見せないといけない。裾部も同じで、攪乱でやられている状況を見せなければならない。
◆そこから墳丘外側では、円礫をできるだけ残すように流土を下げてもらっており、礫敷風になりつつあるが、まだまだ土が黄色い。埴輪が4本?くらい出てきた?のかな。そこからさらに西側はほぼ盛土面の露呈ということになろう。肩があり下がる。そのへんを自分は最終段階で削っていた。ヒストリアの印刷屋から電話がかかってきて、「ありゃまあ」状態になり、郵便局に電話をしたりして、現地ミーティングの時間に説明を聞いていないが(なので写真も撮れていません)、そんな状態で、ほぼ全体に遺構面に接近しています。
◆ちなみに埴輪の配列および葺石のツラからすると、調査区は後円部らしい。あちゃ~、くびれてない・・・、とほほです。拡張してちゃんと屈曲する部分を出さないといけません。そんなんで、まあ無理せんと、今年の調査区はきっちり掘り上げておき、拡張するのは次年度に置いておきましょか、という話も。確かに、メイン調査区の石の量を考えると、このトレンチは掘り上げまでで(図化はせず)寝かしておけばいいというのは、気持ちの上でかなり楽になれる。もう若くない・・・。
◆そんなんで4週間、頑張って掘ってきたので、この日は銭湯から戻り各人の荷物をまとめ、久津川駅近くの飲み屋で慰労会を行いました。

プラグイン

カレンダー

01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索