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武烈そして継体

◆武烈が実在したことをT先生は繰り返し論じる(展示解説書『葛城の大王墓と太古の祈り』香芝市二上山博物館、2020)。そして武烈の傍丘磐杯丘陵が、狐井城山古墳であると。狐井城山古墳の考古学的追究はやっておらず、墳丘測量図ができたので、その面からの検討を含め、今後の課題である。武烈の実在と、その陵墓が狐井城山である可能性は高い。
◆で、隅田八幡人物画像鏡。503年とする。その時期で「曰十大王」とある倭国王について、山尾幸久は「ヲ(小)シ大王」と読み、「大脚」・「大為」・「大石」という名前が伝えられている仁賢の実名「オホ(大)シ」と対になるものとの見方を示す。播磨国から王位に就くのは「ヲシ王」であるが、兄弟という設定になり「オホシ王」が生み出された、との理解である。山尾の結論は、オケ(仁賢)・ヲケ(顕宗)の兄弟は実際には1人で、503年の「ヲシ大王」は「顕宗=仁賢」の治政とする(レキハク2018論文の山尾説の引用は不正確でした)。今はこれにしたがっておく。
◆日本書紀紀年では498年に仁賢が没し、499年に武烈が即位し、503年はその武烈在位中ということになっているが、実際には仁賢がまだ在位しているわけだ、
◆で、503年の仁賢在位中に桜井市押坂にいて鏡をプレゼントされた人物ヲフト王は、継体であるという山尾説にしたがう。継体在位は日本書紀紀年では25年で、古事記崩年干支から継体の実際の没年が527年とすると元年は503年になるので、隅田八幡人物画像鏡が贈られたのは、継体が即位したからであろうと考えた。現仁賢墓であるボケ山古墳が仁賢墓でおかしくなく、それは神聖王墓の系列。一方、継体は、おそらく執政王としての実力を期待されたのだろう。つまり、2王並立論からすれば、503年の神聖王仁賢在位時に、継体が執政王にかつがれたと説明できる(レキハク2018論文)。これはたぶんオリジナル。
◆で、なぜ503年かということを考えていなかったが、それは先代の執政王が没したからであり、それが武烈というのが、今回、到達した結論である。武烈は、489の執政王雄略の没後に執政王位を継承し、503年頃まで王であったということになる。

御勝山古墳

◆なかなか難しい。ちょこちょこ発掘され、略法というのがあるらしいが、図書館にはなかった。 また公園整備の関係の調査は、どうやら未報告らしい。その前に、いまの図と梅原図を重ねると、道路があわない?。梅原図の北は磁北なんだろうが・・・。また梅原図の昭和初年より、さらに墳丘は削られているようだ。後円部をそういう目で重ねると、前方部は真南でなく、振れをもつ。これまでは、なんとなく前方部はほぼ南という思い込みがある。そもそもが大坂夏の陣で後円部は改変されてしまい、また前方部は早くに削られ、学校になっていた。
◆造り出しがある。鰭付円筒が出ている。あんまり前方部を拡大できない。となると、まあ石塚山古墳になる。3段築成の下段は埋まっているので、地上に顕在化していたのは中段以上。石塚山は左右非対称なので、その推定下段径を中心においたものが破線。で、周濠の輪郭が黒。これも左右非対称にあわせた輪郭なので、左右対称位置に置いてやった。
◆いかがでしょうか。【追記】前方部側面の実線が秀忠時代の遺構ようなので、造り出しと直に結んだラインが側面とはいえないので、傾きを調整した。

2022年11月13日(日)、四校交流会

◆奈良女・三重大・京都府大との、合同卒論発表会。今回はうち、大阪公立大学が会場でした。ずっと天気が良かったのに、天気予報通り10時から雨が来て、これが本降り。が、夕方までには止んだ。35名くらい集まったのかな。体調不良で報告者1名が来れなくなったが、3人が報告し、学生・院生らからの質問も活発で、いつものことながら、他大学の学生さんの研究の話が聞けて有意義でした。
◆ついでながら140周年記念展示室を見てもらいました。担当部署に、人数分、図録をくれといってもよかったかな、と思いつつ。熱心に見ていただきました。
◆スマホをもっているのだから、写真の1枚も撮っておくべきでしたね。懇親会は予定していたが、このところの明らかなコロナ増加傾向のため、直前で断念することに。お店には申し訳なかった・・・。
◆次回まわってくる時は、森ノ宮ですね!。

2022年11月12日(土曜日)

◆12月の中四国前方後円墳研究会(島根)の資料の締め切りを大幅に超過し、どんずまりまできた。切られてもやむをえない ところ、引っ張ってしまい、多大な迷惑をかけてしまった。なんとか出したものの・・・。

2022年11月6日、八木など

◆娘が帰ってきた。翌日曜日、職場に行き、次の研究発表の資料を作りたいのはヤマヤマだが、天 気もよく、出かける。車でなく歩こうと。
◆高井田から王寺に行き、西田原本まで。この線、河合大塚山の測量の時、泊りでない学生はここから歩いてやってきていた。こちらは西田原本線に乗ったことがなかった。そこから田原本の陣屋を下り、下ッ道を南下。寺川沿いで車も多く、歩くには適当でないが・・・。八木の辻。
◆そこから今井町。妹のところでコーヒーを飲もうとしたが、ライブコンサートをやっていた。
◆帰りはJRに乗ることにして、畝傍駅に戻るのをやめ、金橋駅まで横大路を歩く。無人駅。南に巨大イオンモールがあり、買い物をした若者が駅に多数いる。高田まで行き、近鉄大阪線に乗り換え、戻ってきました。仕事はまた明日から。

塚森古墳ほか

◆終了後、夕食をご一緒する懇親会の前に、宿禰塚古墳・塚森古墳・那波 野古墳を案内いただいた。
◆宿禰塚古墳はゴルフ場の所有地内にあるもので、造り出し付き円墳(左上)。須恵器が出土していて著名。1990年に業者が測量した50㎝コンタの図面が公開されている。このたび市指定にするのだそうです。測量の話も出て、考えてもいいかな、と。
◆次いで塚森古墳(右上)。帆立貝。5世紀後半として大型。しかし小方部は削られてない。都市計画図しかなく、ちゃんとした測量がこれまで行われていない。現状は写真の通りで、立木がいっさいない。また、ちょうど草刈りがなされ、墳丘が丸ごとよく見える。測るにはもってこいですね。いまならドローンなんでしょうが。
  ◆最後に那波野古墳(下)。墳丘は傷んでいるが残存部からすると円墳だそうです。確かに岩屋山段階に入っているのかなと。石材が、表面はともかく、上下面や側面など、四角く加工しているようであり、ブロック状の石材として積んでいるのがよくわかる。まだ墳丘も大きく、薄葬令の前なのだろうと・・・。そこは意見が一致しませんでしたが。さらに若狭野古墳という、さらにあとで、1枚石で組んだものがある。これもまた見に行きたいものです。

2022年11月5日、相生

◆甲崎古墳という前期前方後円墳が発見され、意見を求められたことがあり、講演を引き受けたも の。なんとか資料を木曜日に出し、金曜日、パワポを整え、当日も直前までキャプションとかを補訂し、なんとか90分しゃべりました。この図は、資料を送ったあとで作ったもので、完全ではないが、当日出したもの。尺度の切り替えはTK216だろうと思います。

行燈山型前方後円墳

◆相生で甲崎古墳というのが見つかりまして、5日に話をしないといけません。その甲崎古墳というのは行燈山型と考えられ、播磨のほかの事例などを配列した図を作ってみました。

播磨の前方後円墳

◆ちょっと規模について並べてみた。

記事№5700 野田院後円部

◆善通寺市野田院古墳の報告書を見ていると、板石を実に見事に後円部の円弧に沿ってならべてい る。これで尺度をやるべしと。で、やってみると、出入りはあるが、ほぼ15歩(ちょい+)。15歩でもいいのかなと円弧を置いてみた。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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