人を幸せにする人になろう

2025年12月21日(日)摩湯山葺石

◆翌朝、起きると雨。残りの撮影について、この日はあきらめ月曜日にするかとも思ったが、気を取り直し岸和田へ向かう。9時から撮影開始、小雨のなか1時間ほど撮影する。
◆そこから職場に行く。そうか、停電だった・・・。仕方なく、ノートPCのバッテリーがもつ限りメタシェをまわしつつ、査読しないといけないもの、その他読まないといけないものを、暗がりのなかで読む。天気は悪く、日中でも暗く、電気のない部屋でしばらくはやる。が途中であきらめ国分のガストに移動。19時くらいまで同じ作業をしていた。この日のうちに、計5区のアラインと高密度クラウドまで進む。第1区のメッシュをまわしながら寝る。5区は明らかに短いので、半分はダメなのだろう。
◆久津川の現場などをやると、まず翌日、右の足が痛い。2015年のカカトの骨折以来、作業をすると少し痛む。これに加え、21日は右膝が痛い。しばらく前に長く痛かったが、近年はそうでもなかったが、いよいよ老化が進み、軟骨が細っているのだろう。
【追記】2区が上がってきたので画像を。

2025年12月20日(土)摩湯山葺石(続)

◆当日は快晴。あったかい。が、その分、影がきつい。
◆数日前から手順を考える(ついにメモまではいかなかった)。距離が長いので3区に分ける予定にしていたが、現地を見て5区画に分けることにする。午後には撮影を開始したが、4区で日没。残る第5区は、マーカーを打ち、その測量までやり、翌日撮影することにする。ほぼ17時終了。
◆1日やっていると、もう体力なくしんどい。職場に戻りメタシェをまわす気力なく、帰りに延羽の湯に行き、風呂に体をひたす。
【追記】1区がテクスチャーを貼るところまで行ったので、出しておきます。

2025年12月20日(土)摩湯山葺石

◆数年前から、周濠の水が引いた状態で現れる葺石の記録を取ろうと考えてきたもの。今年の1月に見に行くと、満水だった。12月でないとダメか、と12月20日に設定し、M1の2人に参加してもらう話は、しばらく前に整えていた。聞くところによると、もう養魚はやっていないので、水を落とさないのだそうです。
◆岸和田市さんと相談の上、町会へ水を落とす依頼文を出し、できることになった。あわせて岸和田市の職員さんにも参加いただけることになる。計画途中で、金はないが私費で業者によるレーザー測量も考えたが、最終的には当初の予定通り写真マッチングとした。これは正解でした。周濠に落ちている倒木や枝は払ったが、落ち葉がたいへん。金かけてレーザーでやるなら、人を投入して石をきれいに出す手間がかなりいる。1日でざっとやっつけるには、写真マッチングが適当でした。

2025年12月17日(水)呑み会

◆2025年12月22日、7:38に出勤した。
◆17日にカミサンの同級生との呑み会に参加。上方の歌舞伎に詳しい美術史家。いまは大阪天満宮の研究所におられる。いまやっている大阪の歴史文化研究に、とっても必要な方である。わが社の図書館にある、大塩の乱で焼けた天満宮再建時の砂持神事を描いた巻子があることを伝え、後日、画像を送ったが、むこうも大学ミュージアムをめざすニュースレターにたどりついていた。図書館の担当にも話をつけておいた。もうひとつ、うちの近世史の卒論で、天神祭りを扱ったいい論文があり、残念ながら大学院に進まなかったが、近世史T先生の本か科研報告書か何かに発表していたものがあったと記憶しており、それも送ろうと思う。大阪天満宮は大塩の乱の火災で史料なども多くなくなってしまったよう。しかし再建された本殿は、その後、1945年の空襲で市中の神社の大半が焼け、最古の建物になっているそうである。

史学概論スライドもう1枚

◆ちょっと我慢ならないのでもう1枚。
◆どんな社会を望むのか。予算配分を決めるのはわれわだ、と。

長浜城から安土城は見えますね

◆長浜城でそういう話が出たが、わからんとのことだったが、たぶん見えますね。

2025年12月15日(月)八幡市の現場→久津川

◆午前、京都・八幡市の現場を見に行く。これが12時まで。そのあと、久津川へ行くと伝えていたが、スマホを取りに柏原警察へ。
◆そこからまた京都に向かい、久津川に。現地着は15時くらいだったか。西区はどうなったのかと思ったが、追及されていないので、所見を聞きつつ、西区画を検討する。終了は17時前。もう外は暗い。第2京阪も混んでおり、帰宅は1830。
◆東区の下半分、既掘坑の輪郭を確認し、埋土のへりを少し落として表現する仕上げをしていたのだが・・・。
◆明日1限は、ちょっと早くいけば、なんとかなるか。

三尾城

◆たかしまミュージアムのビデオでは説明があった。が、それがどこか、大津京、比良山系、そして高島という地理的な理解も説明したいところ。が、ガイドさんのような担当はなく、道すがらの説明はない。基本はパンフレットにまとめられた見学先の説明のみ。このパンフ、今回はPDF配信で冊子で配布されなかった。学生の旅行委員が、バス車中でそれぞれ説明し、日本史教員が補足したりする。
◆菅浦で三尾城はどこだろうかと見ていた。いまグーグルアースでその角度から見たところ、あの山と思っていたところであっていた。
◆高島ミュージアムには1630過ぎまでいたのかな。外は暗くなり、大津駅で解散した。
◆17:57の普通で京都駅。京都駅18:10の近鉄特急。19:00の上本町行き八木発急行で、すべてぎりぎりの乗り継ぎで、まったく早く家に帰り着いた。

そのあと中江藤樹記念館・たかしまミュージアム

◆竹生島に行かなくなったので、急遽、鴨稲荷山古墳へ行くか、ミュージアムへ行くかと聞かれ、ミュージアムと回答。儒学者・中江藤樹記念館があることで、東洋史関係のみなさんにも楽しんでもらえた。これ中江藤樹記念館単体であったものをリニューアルし、合併して「大」高島市となり、散在していた4つの資料館を統合した「たかしまミュージアム」としたもの。この6月にできたところ。前に中江藤樹記念館単体だった時に、横まで行ったのだが入らなかった。
◆こっちとしては、古墳現地横にあった高島町歴史民俗資料館もなくなり(前に古墳に行った時は閉まってました)、古墳単体を見ても、あまり面白くないだろう。それより、このミュージアムで、稲荷山古墳の副葬品は基本レプリカながら、確認調査時の埴輪なども見れると思ったから。これ正解でした。最初の15分のビデオは長いが、要を得ており、全体の概要や、特質のポイントが押さえられていた。で、鴨稲荷山古墳のところで短く説明した。
◆考古資料としては、熊野本遺跡の弥生後期の土器や、古墳の資料がけっこうありました。郡衙とは明記されていないが、郡関係の遺跡、古代寺院その他。造り出し付円墳の陵墓となっている田中王塚古墳は、彦牛王の墓ということになっているんですね。
◆案内してくれた学芸員さんは、中江藤樹関係の担当の方で、いろいろと教えてもらいました。

菅浦

◆2回目。前回も教室旅行で来たが、なにもまったく覚えていない。Nさんの解説で、いろいろと勉強をした。中世文書の残存で著名な菅浦だが、近世はどうなんでしょう。廻船業は続いていたのだろうか。単なる漁村となったのだろうか。田んぼ畑はないわけです。歴史的には、中世の漁村かつ廻船業で栄え、寺院も数多くあったようだが、幕末までに縮小していることからすると、落差があるように思った。
◆それと竹生島との関係ですね。竹生島にもっとも近く、宗教的聖地である竹生島の維持は、菅浦が担っていたのではないか。そこは研究があるのだろう。江戸期の菅浦をまず確認ですね。
◆そして集落一帯が文化的景観に選定されている。そうなんや、知らなかった。その選定理由の説明書が読みたいですね。大浦からも離れ孤立した集落で、中世以来の道、集落、寺社のあり方がそのまま残っている。それはそうかもしれないが、まあ普通のように思われるのだ。つづらお崎西岸にへばりついた漁村景観、それがよく保たれている、それはそうなんだろうが、と。
◆重要文化的景観であること、それはよいことなのだろうが、その魅力はどこにあり、どう伝えることで、観光的な価値が理解され、村の誇りや活性化にもつながるのだろうか、と。たぶん4割は空き家なのではないか。古民家がよく残りデンケンになるようなら、それを利用することもできる。が、いまは村をいかに存続させていくか、コミュニティをどう持続させていけるのか、という現実問題をどうするかが課題と感じる。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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