人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
鳥取、ゼミ旅行
◆26日16時、天王寺のレンタカー
屋集合。米
子に向かう。ホテルに入り、 20時前、駅前の飲み屋に 入る。
◆27日、安来に向かい、造山古墳群→大成古墳→塩津山。和鋼博物館に向かうも休館。福市の考古資料博物館→米子市埋文センター(史跡福市遺跡脇の小学校)。雪をかぶった大山の遠景が美しい。
◆淀江に向かう。上淀の展示館、館長さんに案内
いただく(写真)。そこから学芸員の方に、石馬の収蔵庫を見せてもらい、上淀廃寺、それから向山古墳群。北端の前方後円墳岩屋古墳の石室に感動する(写真)。
◆妻木晩田に向かう。
◆倉吉に向かう。夕刻、上神大将塚、法華寺畑、国分寺、そして伯耆国庁を概観し、倉吉のホテルに入る。
◆飲みに出かけ、いい店かなと入ると3軒ともいっぱいで、ようやく4軒目のところに入る。
◆27日、安来に向かい、造山古墳群→大成古墳→塩津山。和鋼博物館に向かうも休館。福市の考古資料博物館→米子市埋文センター(史跡福市遺跡脇の小学校)。雪をかぶった大山の遠景が美しい。
◆淀江に向かう。上淀の展示館、館長さんに案内
◆妻木晩田に向かう。
◆倉吉に向かう。夕刻、上神大将塚、法華寺畑、国分寺、そして伯耆国庁を概観し、倉吉のホテルに入る。
◆飲みに出かけ、いい店かなと入ると3軒ともいっぱいで、ようやく4軒目のところに入る。
あっという間に新年度
◆3月25日、卒業式が行われた。前もってあれとこれを、と思いつつ、何も準備できず。午前の全学
全体の式は府立体育館でやり、15時から田中記念館で文学部・文学研究科の授与式があり、教室代表は演台に上がるようで、はじめて式に参列した。見ていて、にこにこしながら学位記を受け取ってくれる卒業生を見ると、とても喜ばしい気分になる。いえ、みんなぶすっとしているわけでは無論なく、みなまじめに前に出てきて受け取っているので、なんの問題もないのですが、ニコニコしていると気持ちいがいい、ということです。
◆今年の考古は、院生1名と学部生2名、みないい論文を書いてくれたし、盛り上げてくれた3人なので、いなくなると寂しくなる。新規メンバーを加えて、2019年度はまた新たなスタートです。
◆終了後に、ホールを出たところでパーティーがあるのだが、衣装の返却やら、歴史学なら夜の部の準備やら、そうでないところも卒業生同士の飲み会などの予定があって、写真のように準備されながら、最近は参加者が減っているようです。日本史の学生も数名しか残っておらず・・・。
◆夜19時からの歴史学合同の卒パ。なんとこれも、世界史の卒業生が半分?くらいしか出席していないのだとか。2次会も少な目でした。むろん、日本史の幹事はいつものように頑張ってくれていました。日本史のなかの一体感というのか、同級生が互いに刺激しあって授業に卒論に取り組む、ということそのものが課題になりつつあるご時世なので、世界史の同級生と、コースは違っても仲間というかつての雰囲気が失われつつあるようです。
◆今年の考古は、院生1名と学部生2名、みないい論文を書いてくれたし、盛り上げてくれた3人なので、いなくなると寂しくなる。新規メンバーを加えて、2019年度はまた新たなスタートです。
◆終了後に、ホールを出たところでパーティーがあるのだが、衣装の返却やら、歴史学なら夜の部の準備やら、そうでないところも卒業生同士の飲み会などの予定があって、写真のように準備されながら、最近は参加者が減っているようです。日本史の学生も数名しか残っておらず・・・。
◆夜19時からの歴史学合同の卒パ。なんとこれも、世界史の卒業生が半分?くらいしか出席していないのだとか。2次会も少な目でした。むろん、日本史の幹事はいつものように頑張ってくれていました。日本史のなかの一体感というのか、同級生が互いに刺激しあって授業に卒論に取り組む、ということそのものが課題になりつつあるご時世なので、世界史の同級生と、コースは違っても仲間というかつての雰囲気が失われつつあるようです。
ラスト
◆そこから小矢部に行き、桜町の遺物をMさんに見てもらい、砺波の散
居村の資料館に向かう。昼飯 は適当にと思って砺波市街でさがし、結局は道の駅に入ったのだが、昼の繁忙が過ぎた時間帯だったが、なかなか席が空かず、やや時間をロス。散居村の資料館はやめて、八尾に向かう。
◆八尾をゆっくりめぐりたかったが、新幹線の時間が16:18だったので、車でまわり、富山に戻る。車を返し、地鉄のところのアルビスで帰りの電車
のアテを買い込む。駅に行くと、白エビの天ぷらがあり買い込み、新幹線に乗る。金沢まではすぐ。
◆金沢に着こうとするところ、車両の中の掲示板で、乗るはずのサンダーバード42号が、大阪?の人身事故の関係で運行取りやめ、と出る!。
◆で、44号の指定を取り直してもらい、間2時間あるので、金沢駅で飲み屋に。
◆八尾をゆっくりめぐりたかったが、新幹線の時間が16:18だったので、車でまわり、富山に戻る。車を返し、地鉄のところのアルビスで帰りの電車
◆金沢に着こうとするところ、車両の中の掲示板で、乗るはずのサンダーバード42号が、大阪?の人身事故の関係で運行取りやめ、と出る!。
◆で、44号の指定を取り直してもらい、間2時間あるので、金沢駅で飲み屋に。
2019年3月24日、続
◆翌日もアバウトぷらんで、また高岡へ。今
度は山町筋の方。重文になっている建物に初めて入 り、前にも来たことのある土蔵資料館と、公開されているのはこの2つだった(いずれでも丁寧に説明してもらった)。そこに2017年に、山町ヴァレーなるものが新たに登場してきた。八の蔵までのそれぞれが個性的な活用が図られている。また外観は土蔵作りの御車会館が新たにでき、5月1日の祭りに関する公開施設もできている(入口のところの物販のエリアだけしかのぞいていないが)。そしてまた今度、近代
建築の銀行が移転するので、レンガ作りのその建物を公開用に転用するとのこと。
◆土蔵資料館のところで話を聞いていると、昭和60年代に街並みのボランティア活動を始めた時にはまだ200軒ほどの黒壁の町家が残っていたのだとか。ちなみに明治期に防火のために定められた土壁の建築基準ができ、その直後の明治33年に高岡の大火があり、一斉にそうなったのだとか。ところが、200軒がいまは48軒という(枚方宿を思い出していた)。なお、前田の殿さんが車2つの御車を下賜され、それを高岡の町に与え(なので高岡のは御車というのだそうな)、そこから4輪のヤマが加わり、7つの山車となっているそうだ。
◆土蔵資料館のところで話を聞いていると、昭和60年代に街並みのボランティア活動を始めた時にはまだ200軒ほどの黒壁の町家が残っていたのだとか。ちなみに明治期に防火のために定められた土壁の建築基準ができ、その直後の明治33年に高岡の大火があり、一斉にそうなったのだとか。ところが、200軒がいまは48軒という(枚方宿を思い出していた)。なお、前田の殿さんが車2つの御車を下賜され、それを高岡の町に与え(なので高岡のは御車というのだそうな)、そこから4輪のヤマが加わり、7つの山車となっているそうだ。
2019年3月23日、富山
◆昨年に引き続き、富山に遊びに行く。昨年行けなくなったMさんも、今回は参加。大阪7:40発、京 都でMさんも乗り込み(眠そう・・・)、金沢までサンダーバード、富山着は11時。
◆JR+ホテル+レンタカーで1人2.2万円。レンタカーに乗り、まずは岩瀬。
◆昨年は森家住宅を見て回る余裕がなかったので、そこから。
北前船の寄港地で船主集落とある。まちのしかるべき場所に空き家があれば、ガイダンス的なものを作ってほしい。重文になっている森家住宅では、館長さんが別団体に解説しているのに合流したが、まあいかに贅をこらした立派な建築であることや、ナンバー1が馬場家で、ナンバー2が米田家で、ナンバー3が森家なんだ、といったことを語ってくれるが、岩瀬全体の説明は、 合流前の冒頭にあったのかもしれないが、あまり聞かれなかった。それと飲食店がちょっとはほしい。和菓子屋さんや、地元、満寿泉のみならず手広く日本酒その他を
扱っている酒屋さんがあり、いくつかのぞいてみて回るところはあるが、こじんまりとした感じ。あまり観光地化されていないのはよいことなのだろうが、少しずつ環境整備を進めてはどうだろうか。
◆結局、満寿泉の酒造所の横に、昨年、建築中だった新しい飲食店に入り昼食。古い町屋ではない新築のものだが、これはこれで、日本酒やビールの飲み比べメニューなどがあり、お客さんがよく入っていました。
◆JR+ホテル+レンタカーで1人2.2万円。レンタカーに乗り、まずは岩瀬。
◆昨年は森家住宅を見て回る余裕がなかったので、そこから。
◆結局、満寿泉の酒造所の横に、昨年、建築中だった新しい飲食店に入り昼食。古い町屋ではない新築のものだが、これはこれで、日本酒やビールの飲み比べメニューなどがあり、お客さんがよく入っていました。
2019年3月21日、和泉市府中遺跡シンポ
◆昨年に引き続き呼ばれ、発表はしないが、討論のところのパ
ネラーとして参加しました。
◆弥生Ⅳは250年間もあるという!。Ⅱ・Ⅲは短いと。Ⅳを区分しないと展開が追えないですね。ところが和泉では櫛描の直線文・波状文も、簾状文も、凹線文も、同時にあるのだとうか。で、一括性が疑われていたが、実はそれが実際なのだと。
◆Ⅳに府中でも集落ができるが、やはり後期には衰退するという。庄
内からまた居住が認められるようになるが散発的、4世紀に入って居館的なものができて充実する。それは前半なのか後半なのか、顕在化するのはやはり4世紀後半かもしれませんね(和泉の前期古墳の出現とパラレル)。で、 5世紀にはいると、渡来人も定着して集落はさらに発展する。が、中心地点は移動しているのではないかという話を聞く。このへんのところ、去年も聞いていたとしても、すっかりわすれている。和泉市史にも書いてないし・・・、こちらにはほぼ情報がありません。
◆そのあとも、6世紀前半まではいくのかとか、興味はつきないが、今回の議論は弥生から古墳のところでした。
◆終了後、戻って仕事をしようと、いろんなものを研究室に置いていましたが、懇親会があり、飲みに行きました。若手2人と話ができ、もちろん森岡さんがおられ、実に楽しく話ができました。店もよかったです。
◆弥生Ⅳは250年間もあるという!。Ⅱ・Ⅲは短いと。Ⅳを区分しないと展開が追えないですね。ところが和泉では櫛描の直線文・波状文も、簾状文も、凹線文も、同時にあるのだとうか。で、一括性が疑われていたが、実はそれが実際なのだと。
◆Ⅳに府中でも集落ができるが、やはり後期には衰退するという。庄
◆そのあとも、6世紀前半まではいくのかとか、興味はつきないが、今回の議論は弥生から古墳のところでした。
◆終了後、戻って仕事をしようと、いろんなものを研究室に置いていましたが、懇親会があり、飲みに行きました。若手2人と話ができ、もちろん森岡さんがおられ、実に楽しく話ができました。店もよかったです。
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プロフィール
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雲楽
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1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。