人を幸せにする人になろう

金環日食

◆見ましたよ。6:30から見ている人は少なかったですけど。5階のベランダから見ていると、だんだん薄暗くなり、7:30前4fd03aab.JPGになると、さすがに人が多くなる。カミさんが可視光線、完全シャットアウ2455d947.JPGト(紫外線のみ)のレンズを持って帰ってきていたので、それで見る。でも、カメ05144ecc.jpgラはとくに用意してなかったので、携帯用のイクシー。カメラのレンズの前に、紫外線のみ通すレンズを重ねる。が、レンズがピントをあわせるために動いているものの、なかなかピントは合わないみたい。いくらか撮ったものののなかで、いちばんイイモノを。
◆それとテレカに穴を空けて、それをスケッチブックに写したものを挙げておく。と、やっていると、カミさんが写真をならべて組んでいたので、それをもらって掲げておく。こっちの方がよく撮れてますね。悔し~。が、カメラのせいにしておこう。
 

早くも眼鏡、三代目

◆結局、眼鏡は出てこず、日曜日、眼鏡市場に行く。老眼はさらに進行し、改めて視力検査をした方がいいかもと思っていたが、めんどくさいので、レンズは前と同じにする。3月はじめに落としてから、2ヶ月半ぶり。

関本さん、頑張っている

◆仕事が終わってから、市大日本史の懇親会にかけつけてくれる。近つの図録とチケットをもってきてくれた。また、夏の企画展を担当するそうで、その話もする。近つの先行きについてもちらりと。
◆図録をぱらぱら見る。なにかと勉強になりそうな本である。神社建築みたいな遺構を集めてくれているのが面白そう。ただ、伊勢神宮と出雲大社は取り上げられているものの、住吉大社が挙がっていないのが残念。それと、白石先生の沖ノ島の話。やっぱり4世紀後半で百済だ、というのは間違っていると思う。沖ノ島祭祀は4世紀前半にさかのぼり、それは伽耶関係に始まる。

2012年5月20日、松岳山

◆【岸本・道上・小西】まず、北くびれ部のP18に据え、急斜面部を加えるが、ほとんど入らず。次、新規でHHという杭を前d5febf6d.jpg方部西北隅角に近い地点に打つ。板石の葺石材で石垣が高く積まれている箇所の下。そこから、B2・A2の紙の残る範囲を測量する。石垣を入れて、等高線をズウット下げていく。ほぼ伐採した竹が堆く積まれている崖肩部まで入れ終わる。
◆次に境内に転じる。GPSの基準点3箇所のうち、1箇所しかわからず。砂利を5月3日に補充して敷きならべられて埋もれたのと、境内地の東部のものは、なぜかわからないが見つからなかった。仕方がないので、墳丘の杭から逆に振りだして、KD1を設け、さらに西部の参道沿いを測量するために、既存のキャップを被ったペグがあったので、それをKD2として座標を出しておく。
◆KD1に据えて、ほぼC4の紙の範囲について、参道および、南に落ちていく斜面肩部を入れる。ただし、松岳山に上がる階段のすぐ両側は実は測量できていない。ほんと1年前のし残しだが、今度行くときに最初に片付けよう。
 

5月19日、第15回市大日本史学会

◆講演はハーバード大のデヴィッド=ハウエル氏の幕末の農兵の話。研究報告は、下鶴さん、大村さん、羽田さん。どれも充実した報告で、時間が短いのが申し訳ない。下鶴さんの古事記の話は、なかなか面白かった・・・、ように思うのだが、反芻してみたい。
◆懇親会のあと、イワシで2次会。この日、大歴の西宮神社の現地見学検討会。金曜日までバタバタと追加史料を刷って、夜、天理まで拡声器とともに企画委員に預けたり、ばたばたした。そっちは任せるしかない。それもまたよかろう。市大日本史は、雑誌ができたので、自分にとっては月曜日には終わっている。

岩屋山式つづき

◆で、岩屋山。その年代観があるからこそ、岩屋山が第3四半期で元斉明陵、牽牛子はさらにずいぶんあとで改葬後の斉明陵、という結論になる。とはいえ、直接は関係なくて、横口式石槨はそっちで一定の結論を導き、一方、岩屋山式は、その類例と出土遺物から年代観を導いている。どっちかに寄っ かかっている議論ではない。
◆で、岩屋山式。こちらの方がやはり手強い。本格的な反論には、こっちも須恵器を実測したりする準備が必要。飛鳥Ⅱと いう根拠は、いくつかの須恵器。ただ、白石先生も挙げている、叡福寺と塚穴についてのコメントも必要ではないのか。それと、現・推古陵への改葬時期は不明 だが、東石室は切石ですよ。30年もたってから改葬するんかね。7世紀前半のうちには山田高塚は造っているんでしょうに。630年代では。+カナヅカ。
◆岩屋山式の年代を須恵器で求められるなら、それに越したことはない。が、葉室石塚の長頸壺1点、それに対し、被葬者の堅い事例が4つそろっている。もはや叡福寺古墳のみを例外と片づけることは不可能なのだが・・・。
◆考古学的に!と非難されている。が、須恵器1点、岩屋山亜式は西宮古墳の須恵器数点、それを考古学的にちゃんと検討しろというのもわかる。が、それだけしかないのである。西宮古墳の須恵器が飛鳥Ⅱ末というのも大丈夫なのか疑問。岩屋山式は基本は飛鳥Ⅰ、なかには埋葬年代が飛鳥Ⅱに下るものもあった、というのが事実ではないだろうか。
◆石舞台の年代は恣意的だと。そう受けとられても構わない。ミソは、生前造墓を考えるべしというところにあり、馬子の墓と合意されても、石舞台がいつ造られたかはそれだけでは決まらない。むろん、没後2年たっての馬子墓造営の記事は、没後造墓とする根拠として強いだろう。しかしこれ1点。没後造墓と考えることによる矛盾の大きさ、生前造墓と考えることによる整合性から、最終的にこの記事を評価すればよい。

『市大日本史』15号が、でけた

◆今年も間に合ってしまった・・・4e9df970.JPG

白石先生に叩かれて

◆最近書いたモノを3本、お送りいただいた。ありがたいことである。が、中身を見ると、1本は、全史協の講演会記録のようで、2王並立は認められない!、もう1本は、近つの館報で、生前造墓論はダメだ、被葬者論に拠って立っていて、岩屋山式石室について、考古学的に少ないながら須恵器をもとに考えて年代観を示し、そういう構築物としての白石論に対して、「またぞろ」アホなことを言う、といった調子で叩かれている。
◆べつにヘコミはしない。さすがである、という部分はある。全面的な反論はいまただちにはやれないが、まあ、やりますよ。で、要するに、牽牛子塚古墳は700年前後になるんだから、文武の時に修造されたものであって、当初の越智岡へ埋葬した墓が岩屋山古墳ということで、論文の主旨は牽牛子塚についての、発掘フィーバーに対する反論。
◆牽牛子塚の石槨が、先生のいう第3類型で、同じ段階じ位置づけられるのが中尾山=文武なので、700年前後、という点に対して、横口式石槨の編年と年代観について、まず反論しなければならない。石室風の長い羨道から、それが短くなり、羨道がなくなり、という省略過程にもとづく編年はおおむね妥当なんだろうか。だが、羨道がないといえども、羨道の先に石槨部の入り口があって、開口部が作り出してあるのと、開口部というものがなく、南小口は底石・両側石・天井石の端部が見えていて、それを封鎖するキトラなどとは違う。時間差でなく系統差も考えないといけないが、キトラと同じような時期におくのはいかがなものか。第2段階の年代の根拠が大分・古宮古墳の被葬者というだけなのもね~。
◆第1類には土器の資料が知られるモノがあって7世紀中頃というが(ほんまか?)、そのあとの配列と年代についての根拠は薄弱ですね。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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