人を幸せにする人になろう

天変地異が心配

◆阪神タイガースが負けない!。何か天変地異が起こらなければいいのですが・・・。ま、今年こそ優勝ですね。

ある原稿

◆日本史大辞典だけからのごくオーソドックスなもの。

◆「大阪市史編纂資料」のうち51点が重要物産同業者組合関係の簿冊である。明治時代に入り株仲間が解散すると粗製品の乱造・乱売が生じ、同業商工業者の組合設立の動きが始まる。政府は明治17年(1884)に「同業組合準則」を定め、株仲間にかわる組合設立を促した(「準則組合」)。賛成多数で設立されると加入が義務付けられたが非加入者への罰則がなく実効が上がらなかった。そこで明治33年(1900)に「重要物産同業組合法」が制定され、以後、急速に普及した。しかし粗製品の取り締まりは組合に任されたため、「弊害の矯正」という目的は十分ではなかった。昭和に入り、工業組合や商業組合が法制化され、役割は低下し昭和18年に廃止された。

まことに恥ずかしい事態

◆昨年の大歴大会報告およびヒストリアにまとめた論文のうち、キーとなっている佐紀陵山古墳のスケールが少し違っていたよう。なかり早い時期に陵墓図をトレースし、いろんなところで使ってきて、いろいろ複製があるなかで、たとえば1/1000としていたものでも、やや実際にはより縮んでしまっていたものを、ダイレキ大会報告の準備段階から使ってしまっていたようだ。数日前から、各陵墓ごとに統一されていなかったものを整序していて、複数のトレースデータを重ね、ズレを見つけてしまいました。まことに恥ずかしい限り。やはり150歩なんでしょうかね。
◆データの整序とは、0方位にあわせたトレース原図があり、次に1主軸を縦にしたもの、次に2発掘調査が行われているものはその調査区を記入したもの、次に3墳丘復元をしたもの、次に4設計寸法を記入したもの、あとはシルエットにしたものとか断面作成作業用など。ひとつにしてもいいのだが、重くなりがちなので。これを、これまで作業してきた陵墓についてファイルの階層をすべて統一する作業です。

やっぱり手測り

◆むろんお金があれば、伐採など地表条件をよくして、空中・地上レーザーをやってもらうに越したことはない。ただしそれでも、考古 屋としては納品データを調整する必要はある。
◆で、信太貝吹山をやっていて、2001年の業者委託の測量図のイメージより、実際に測ってみると、きれいに墳丘が残っている印象を受ける。2つをならべてみます。思いのほか、業者委託の図も、ある程度の細かさで取っているのかもしれませんね。等高線の様相も大局であまり変わらないようにも見えるので。とはいえ、測点がそれなりの密度であったとしても、レーザーでの測点数に比べればはるかに少なく、ソフト上で限られた測点から図化すると、やはりこうした図になる。そこは、昔ながらではあれ、25㎝ごとに実際の等高線をそれなりの間隔で追いかけ、現地でつないだ図の方が、絶対的に正確なわけだ。
◆それとやはり地形点を入れる意味は大きいね。墳丘面はどこまで残っているのか、一目瞭然だ。
◆前に測量業者さんと話をしていると、やはり測量行為は同じであっても、われわれの墳丘測量のような測量は、いまの業者はまったくしないということを理解する。レーザーで無数にやられると、表面把握度は負ける。が、昔の単点レーザー測距儀の時代でいえば、造山なみに30㎝とか50㎝間隔で膨大な点を拾っていくのは別にして、限られた測点で図化して「はいできあがり」では、考古学では使いものにならないということです。世の中には無数に、こうした業者委託図があり、金を落としたが、墳丘はとらえられていないものが多い。そこは、高槻市が今城塚の整備にあたり、まずは自分らで測量図を作成したのは、やはり偉かったというべきだろう。

2023年5月27・28日、信太貝吹山古墳の測量

◆これもいろいろあって、和泉市史のこともあり、近場での測量実習として手をつけることにしま した。もう1ヶ月早くやりたかったのだが、5月下旬となり、木々の新緑や下草に苦労しましたが、和泉市さんのご協力をいただき、ひとまず2日間、残丘となっている上段部の測量を実施しました。
◆ひとつ測量ミスがあり、すべて終わらず上段部での空白部が残るが、おおむね埋まる。残丘というのは失礼な話で、上段斜面がよく残っていることがわかった。削り込まれて崖面になっているところ以外は、よく残っている。
◆この古墳、残丘部の周囲の平坦面は、テラス面を拡張して家が建っていたところで、下段はさらに下に続く。なので、墳丘はかなりの大きさになると思います。そして周濠があって、その外の肩がある。帆立貝といわれていますが、米軍写真などで、本来の姿を見直しているところです。周囲の街区部の起伏が手がかりですが、簡単ではありません。右下、南東部方向に前方部ないし小方部があるのだと思います。

竹原、行ってみたいですね 記事№5900

◆そういえば中世史の院生が就職していたような・・・。

岩橋千塚

◆いつものコースだけでなく、はじめて天王塚に行く。立ち入り禁止でしたが。それから大日山35 のあと、大谷山行き、22号墳、20号墳、あと円墳?、で、尾根沿いに下りていく。天井の抜き取られた岩橋型石室を2つほど見た。
◆岩橋型の石室の美しさを堪能する。が、覚えられません。写真もライトをもつ役をやっていて、あまり撮影していない。撮影していても、何号墳というラベルを写さないと、ほぼ判別はできないだろう。
◆そのあと井辺八幡山を攻めたのですが、たどりつけず残念。最初に登った尾根をそのまま上がっていけばいいみたいです。

2023年5月21日(日)、岩橋千塚

◆考古の見学会。資料館だけで長逗留。企画展は花山地区。古くに宅地開発で壊されたものなども 少なくなく、そうした古い調査のことがひととおり取り上げられていました。展示はよかったんだけれど、老人は覚えられないし、ぜんぶメモも取れない。厚みのある図録はいらないので、16頁の冊子くらい作っていただけないもんでしょうか。県立となると、ちゃんとした印刷をということになるのかもしれませんが、オンデマンドなら、すごい安いですよね

和田先生

◆佐紀へ、百舌鳥・古市へ王墓が移動することについて、「墓域の移動に伴い、墳形、埴輪、棺など大王分の古墳様式に大きな変化が認められることや、〔佐紀については〕墓域の移動が前期後半の地域支配の進展(首長墳の急増)と〔対応し〕、あるいは〔古市・百舌鳥については〕中期前葉の首長層の再編と深く関連していることを考慮すれば、それは王権の革新に伴う新たな墓域の設定による移動と理解される。」

なみはや

◆重文になっている平野区高廻2号墳の舟形埴輪にもとづき再現された「なみは や」。時空館が閉館 され、そのなかにある菱垣廻船ともに塩漬け、である。平野区の町歩き団体が、もらい受けられないか希望するも、搬送する費用が膨大で難しい。海に再び浮かべ、平野川をさかのぼってほしいが、さかのぼれば水量もなく、その前に橋桁があって通らないのだろう。
◆そうなると陸路か。台車を作り、それに乗せ、道路を封鎖して平野まで。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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