人を幸せにする人になろう

四国88か所第1番

◆四国八十八箇所の世界遺産の話に出た。なっておかしくないですね。すたれたものでなく現役で、いまなお生きた巡礼道である。で、第1番の札所である鳴門市霊山寺に行くことにする。
◆お参りした後、駐車場横の巡礼に必要なものを売っている売店をのぞく。「同行二人」の白装束が欲しいという声もあったが、買ってはいない。そこにあったマネキンです。

矢野七三郎

◆藤堂高虎の銅像よりも前に、城内には矢野さんという方の銅像が建てられていた。今治の綿業、タオル隆盛の礎を築いた人らしい。35歳にして襲われて命を落としたのだ そうである。写真左は道後温泉本館界隈のお土産物屋だが、今治タオルに特化した大きな店舗があり、めちゃくちゃ豊富な品ぞろえで、見ていて楽しい。写真は店舗の壁を利用したディスプレイ。
◆泉州のタオルもすごいぞ。全国的知名度は今治の方が勝っているのだろうが。

2025年3月2日 今治城ほか

◆翌日、台湾からのUさんは、午後の飛行機なので、朝、松山駅に向かう。◆残る3名は、まず石手寺。ちょっと雨模様。巨大な藁草履があり、1円玉が無数に差し込まれている。「ぼけ封じ」のお守りを購入。焼き餅を食べる。そこから高輪半島の山中を抜けて今治城へ。
◆今治城は昨年秋に教室旅行で行くはずだったが、欠席することになったもの。初めてです。藤堂高虎もいいのだが、松平の話を。とはいえ、天守各層の展示をひと通りざっと見たが、もう忘れてもいる。江戸時代の殿様である松平にかかわるパネルがどれだけあったかな・・・。自然史の展示も天守のなかにある。そこを出て、3つの櫓をまわる、虎口部の多門櫓が真新しい。もともとの姿に復元したものそのものを見せる、のもよい。がガランとしていて空間がもったいない。十分展示できていない今治市内の文化財や史資料について、天守と役割分担させながら、展示空間とすることも考えられてよい。とはいえ、まあ、金がかかりますわな。以下、今治城の復元について、ウィキ。

昭和55年(1980年)に5層6階の天守が鉄筋コンクリートで建てられた。昭和60年(1985年)に東隅櫓が御金櫓として外観復元された。平成2年(1990年)に二の丸西隅に山里櫓が外観復元された。平成19年(2007年)9月、可能な限り江戸時代の史実に基づき、鉄御門が石垣や多聞櫓5棟ともに外観復元された。

2025年3月1日 愛媛大M

◆松山城には行けませんでした。内子から愛媛大学ミュージアムに行き、展示を見せてもらう。写真は昆虫標本の集密倉庫。わが社には府立大に昆虫標本が数多くあるのだが・・・。
◆そのあと、ホテルに戻り、路面電車で繁華街へ繰り出しました。「真と響未(しんとこひつじ」という飲み屋でした。キリコグラスでビールがやってきました。

本芳我家

◆内子の町並みの特色を忘れておりました。土蔵作りなのだが、壁の色が白ではなくクリーム色なのが特色です。それと本芳我家の画像を挙げますが、大店は、棟の両端に立派なヒレを掲げる。しゃちほこ?なんでしょうか。で、大部の尾側そして尾を長くのばし反り返らせている。
◆そして本芳我家の蔵が奥に見えますが、これが3階建て。土蔵はまあ2階までがほとんどのなか、豊かな家は3階建てになっている。同じ3階建てのものを、富田林で見たことがある。

鋳物師のことを考えていた

◆むろん、鍋・お釜・湯(茶)釜というセットが普及することで、鉄を扱う鋳物師も隆盛する。内子を歩いていて、ひとつはこの薬研も鋳造品だな、と。商品としては限定的な需要ではあろうが、全国区。さらにはゴエモン風呂を見て、こうした風呂の普及とともに、鋳物師による大型の風呂釜製作も隆盛しただろうと考えていた。これは、近世以来としても需要増は明治期以降なのだろうか。
◆ゴエモン風呂をいまでも作っているメーカーが広島にあるのだそうです。

内子で燭台と和蠟燭を購入

◆蝋燭を売っている店があり、奥では実際に和蝋燭製作を見えるところでやっている。ちょうど塗りこめる作業が終わったところで、鉄鍋に残った木蝋をそぎ剥がす作業中でした。作業場の明かりは和蝋燭でした。

2025年3月6日 まだまだ仕事が

◆いや、ほっと息をついている場合ではない。なにかと仕事が多いね~。授業もなく、入試関係も限られた期日。3月は空いてるでしょ、というものではない。いろんな会議やらも入り、丸1日空いているという日はない。

白蝋

◆木蝋、生蝋というべきか、これを加熱して溶かし、それを水に流し込むと、なんというのか、チーズのように分離して小さな塊になるのだそうである。表面積が増え、それによって白くなるのだそうだ。
◆それを麴室のように四角い木製の盆に広げ、天日で漂白する。
◆この白蝋は、蝋燭ではなく、化粧品やら工業用やら(もう忘れた)、さまざまな用途に使われたそうである。しかし大正のはじめくらいまでだったそうだ。蝋の近代的な製法が普及し、ハゼから作る木蝋の需要がなくなる、とのこと。いまの白いローソクは何でできているんだろう。そうそう、原料となる生蝋からここで作っていたのでなく、ほかで作られたものを購入し白蠟へ加工していたということだ。
◆今残る上芳我家の一番古い建物は文久らしい。天日干しのための広い敷地がある。内子町の古い町屋で公開施設になっているのは多くはない、2つくらいか。物販とか飲食店とか、空き家になったとことの転用がかなり進み、観光地として充実している感じ、である。
【続きはまた】

内子の町並み

◆大洲は肱川をさかのぼった地点にあり、大津という意味らしい。
◆そこから東へ、次はデンケンの内子町である。くの字に折れた街道沿いの長い町並みである。ICからそっちに進むが、町並みの南側の駐車場を見逃し、先に進み、北側の、お寺の前の観光駐車場に止める。そこから歩き始める。くの字に折れた、この駐車場寄りの北半分の方が町屋がよく残り、進んでいく南側の方は明治以降の町の中心として発展し、新しい家屋に建て直されてしまっているものが多い。
◆ホテルで内子町のパンフレットを見て、木蝋資料館というのがあることを知り、面白そうだな、 と。芳我家というのがあり、本芳我家・上芳我家・下芳我家というのがあり、いずれも白蝋で財をなした家のようである。上が公開施設+資料館、本はまだ住まれているよう、下は蕎麦屋さんになっていたのだったか。
◆で、進行順で行くと、上(北側)→本→下(南側)となり、まずは上我我家。ガイドさんが、この家は、木蝋そして蝋燭作りをやっていたのではないと。そこを間違えないでほしいと。ハゼの実を絞ってできた木蝋は茶色をしている。これを日光にさらし漂白した、白蝋作りをやっていたんです、と【写真下】。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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