人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
やっぱり手測り
◆で、信太貝吹山をやっていて、2001年の業者委託の測量図のイメージより、実際に測ってみると、きれいに墳丘が残っている印象を受ける。2つをならべてみます。思いのほか、業者委託の図も、ある程度の細かさで取っているのかもしれませんね。等高線の様相も大局であまり変わらないようにも見えるので。とはいえ、測点がそれなりの密度であったとしても、レーザーでの測点数に比べればはるかに少なく、ソフト上で限られた測点から図化すると、やはりこうした図になる。そこは、昔ながらではあれ、25㎝ごとに実際の等高線をそれなりの間隔で追いかけ、現地でつないだ図の方が、絶対的に正確なわけだ。
◆それとやはり地形点を入れる意味は大きいね。墳丘面はどこまで残っているのか、一目瞭然だ。
◆前に測量業者さんと話をしていると、やはり測量行為は同じであっても、われわれの墳丘測量のような測量は、いまの業者はまったくしないということを理解する。レーザーで無数にやられると、表面把握度は負ける。が、昔の単点レーザー測距儀の時代でいえば、造山なみに30㎝とか50㎝間隔で膨大な点を拾っていくのは別にして、限られた測点で図化して「はいできあがり」では、考古学では使いものにならないということです。世の中には無数に、こうした業者委託図があり、金を落としたが、墳丘はとらえられていないものが多い。そこは、高槻市が今城塚の整備にあたり、まずは自分らで測量図を作成したのは、やはり偉かったというべきだろう。
2023年5月27・28日、信太貝吹山古墳の測量
◆ひとつ測量ミスがあり、すべて終わらず上段部での空白部が残るが、おおむね埋まる。残丘というのは失礼な話で、上段斜面がよく残っていることがわかった。削り込まれて崖面になっているところ以外は、よく残っている。
◆この古墳、残丘部の周囲の平坦面は、テラス面を拡張して家が建っていたところで、下段はさらに下に続く。なので、墳丘はかなりの大きさになると思います。そして周濠があって、その外の肩がある。帆立貝といわれていますが、米軍写真などで、本来の姿を見直しているところです。周囲の街区部の起伏が手がかりですが、簡単ではありません。右下、南東部方向に前方部ないし小方部があるのだと思います。
和田先生
◆佐紀へ、百舌鳥・古市へ王墓が移動することについて、「墓域の移動に伴い、墳形、埴輪、棺など大王分の古墳様式に大きな変化が認められることや、〔佐紀については〕墓域の移動が前期後半の地域支配の進展(首長墳の急増)と〔対応し〕、あるいは〔古市・百舌鳥については〕中期前葉の首長層の再編と深く関連していることを考慮すれば、それは王権の革新に伴う新たな墓域の設定による移動と理解される。」
たらよう
和名「タラヨウ」の由来は、先の尖ったもので葉の裏側に文字を書くと黒く跡が残る性質が、インドで仏教の経文を書くのに使われた貝葉の原料であるヤシ科のタラジュ(多羅樹)と同様なので名付けられている。日本の本州静岡県以西、四国、九州と、朝鮮半島、中国に分布する。常緑広葉樹の高木。葉は肉厚で20センチメートルほどもある長楕円形をしていてツヤがあり、葉縁は細かい鋸歯がある。 日本では葉の裏面に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用したりしたため、その多くは寺社に植樹されている。 また、葉の裏面を傷つけると字が書けることから、郵便局の木として定められており、東京中央郵便局の前などにも植樹されている。
2023年5月17日、南港
◆K組の町あるき。案内はFさん。コスモスクエア集合。
WTC47階から、万博予定地を眺める。まだ造成工事中。その手前に時空館がある。で、灯台が見えるでしょうか。そこに続くRが、デレーケが計画を立て、ようやく昭和初めにできあがった大阪港を守る防潮堤の痕跡なのだそうです。大阪市が、岡山の犬島を買い取り、その花崗岩を海に沈め、港の北と南の堤を築いている。ネットで画像を拾う。
◆大阪ベイエリアの歴史を学び、そこから野鳥園を訪れる。埋立地の埋め立て完了までの間生まれた干潟は野鳥の楽園。この南港の干潟を残すというのが、中馬馨の市長選の公約のひとつだったとか。
◆以下、大阪市長の中馬馨について、ウィキから。
1956年、大阪市助役を退任する。1963年、社会党・共産党・民社党、各労働組合や部落解放同盟の推薦を受け大阪市長選挙にクーデター的立候補し、自民党推薦候補を破り当選を果たす。2期目以降は共産党を除いた各党相乗りの選挙となり、3選を果たす。この間第13代全国市長会会長、日本万国博覧協会理事などを務めたが、3期目就任から間もない1971年11月8日に市長現職のまま死去。市長就任後は25年先を目標とするマスタープランを策定し、地下鉄網・高速道路網の整備拡張、大阪駅前再開発や船場センタービル・大阪マーチャンダイズ・マートビル (OMM) 等の建設を推進した。市営地下鉄の路線拡張に力を入れたことで、「地下鉄市長」と呼ばれた。一方で、在職中に労働組合や部落解放同盟との馴合いを深め、その結果、いわゆる「公務員天国」となったことが、昭和期から平成中期までの数十年に渡る大阪市行政の腐敗を生み出した原因の一つとなった。
◆以下、大阪市長の中馬馨について、ウィキから。
1956年、大阪市助役を退任する。1963年、社会党・共産党・民社党、各労働組合や部落解放同盟の推薦を受け大阪市長選挙にクーデター的立候補し、自民党推薦候補を破り当選を果たす。2期目以降は共産党を除いた各党相乗りの選挙となり、3選を果たす。この間第13代全国市長会会長、日本万国博覧協会理事などを務めたが、3期目就任から間もない1971年11月8日に市長現職のまま死去。市長就任後は25年先を目標とするマスタープランを策定し、地下鉄網・高速道路網の整備拡張、大阪駅前再開発や船場センタービル・大阪マーチャンダイズ・マートビル (OMM) 等の建設を推進した。市営地下鉄の路線拡張に力を入れたことで、「地下鉄市長」と呼ばれた。一方で、在職中に労働組合や部落解放同盟との馴合いを深め、その結果、いわゆる「公務員天国」となったことが、昭和期から平成中期までの数十年に渡る大阪市行政の腐敗を生み出した原因の一つとなった。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。