人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2023年5月19日、ああ雑用
◆1030から紀要編集委員会。わたし委員長。それまで資料を作成し、会議自体は1時間以内。が、そこから議事録作り。会議で出た確認すべきことの調べものを含め。それが終わると、5月9日の学芸員課程運営委員会(委員長)の議事録作成。これでなんと1815。この間、もろもろメール処理等もしているとはいえ、事務能力がないのかね~。
◆全学の大学史運営委員会と大学ミュージアム検討委員会は(研究科からの選出委委員)、まず長ではないので準備はいらず、頻度も知れている。が、これも研究科教授会への報告資料の作成がある。それより、未経験の図書館委員会というのがあり、これがけっこうたいへんそうではある。
◆今日は、春成論集の原稿を書き始めようかと思っていたのに、この調子です。ああ、雑用。
◆帰ろう(1955)。
◆全学の大学史運営委員会と大学ミュージアム検討委員会は(研究科からの選出委委員)、まず長ではないので準備はいらず、頻度も知れている。が、これも研究科教授会への報告資料の作成がある。それより、未経験の図書館委員会というのがあり、これがけっこうたいへんそうではある。
◆今日は、春成論集の原稿を書き始めようかと思っていたのに、この調子です。ああ、雑用。
◆帰ろう(1955)。
2023年5月14日の日曜日、阪神タイガース単独首位
◆13日の土曜日は大阪公大日本史学会、かなり多くの方に集まっていただいた。あの懇親会、着座ではあるが、飛び込み参加もありでしたね。中止という声にさからって「やる」と。が、いつもの立食形式がまだダメということで予約制となったが・・・。2次会に行き、気が付けば23時を過ぎ、近鉄では帰れなくなり、ひさしぶりに大和路線となり、高井田から歩いて帰りました。
◆帰るとというか、土曜日の朝からぐったりとしていて、日曜日は休もうと思っていたが、カミサンが授業の準備に行くというので、本日14日の日曜日、また三田までカミサンを送っていったあと、研究室に。K古墳の報告書の続き、春成論集の着手を考えていたが、岩戸山関係のことと、『大阪公大日本史』のあと始末などで終わってしまった。帰ろ(2026)。
◆帰るとというか、土曜日の朝からぐったりとしていて、日曜日は休もうと思っていたが、カミサンが授業の準備に行くというので、本日14日の日曜日、また三田までカミサンを送っていったあと、研究室に。K古墳の報告書の続き、春成論集の着手を考えていたが、岩戸山関係のことと、『大阪公大日本史』のあと始末などで終わってしまった。帰ろ(2026)。
福士成豊
◆福士成豊の残したものに鳥の剥製があり、山階鳥類研究所が関係資料を引き取ったとのこと。福士成豊について、函館市のHPから。
福士 成豊(ふくしなりとよ)1838年~1922年
【函館の副基線を測量し、北海道三角測量が全国の測量と結びつく基礎をつくり、函館港湾の測量に従事した続豊治の子】
日本初の洋式帆船となった箱館丸を建造した船大工である続豊治の子として、天保9年、函館山之上町に生まれる。天保13年、5歳の時、回船業を営む福士長松の養子となる。9歳で私塾である愛池堂に入学し5年ほど学ぶ。その後、実父の豊治について造船技術を学び、箱館型スクーナー船(*簡単な説明がほしい)を建造した。しかし、より高度な造船技術を習得するためには英語を学ぶ必要があり、函館駐在のアメリカ代理領事であるダブルュ=アール=ペーテ(*調べる)に英語の指導を受け、さらにイギリス人ポーターの経営する商会に5年間勤務し、語学力をつけた。この間、新島襄と出会い、彼の米国へ脱出の力になったことはよく知られている。また、イギリス人ブラキストンから、測量・機械・測候・博物学を学んだ。
慶応2年、ポーターの商会を辞め、再び造船界に転じ、箱館奉行の御船大工棟梁見習となる。明治元年5月には苗字帯刀を許され、名を成豊と改める。11月には、箱館府の外国方運上所出役通弁兼器機製造掛趨事席となる。さらに2等訳官を経て、開拓使の官吏となり、明治5年に自宅に日本初の気象測量所を設けて本格的な気象観測を始める。
その後、函館地方の沿岸測量を行い、さらにアメリカ人技術者ワッソン=デーらの指導のもとで実施された三角測量に従事する。明治8年、ロシアのペトロパブロフスクに出張し、翌年に千島列島を調査し「クリル諸島海線見取図」を作成する。その後も北海道の測量や気象観測事業の上で指導的役割を果たし、北海道庁時代初期にはイギリス人メークとともに函館港湾調査に従事する。明治24年3月に退職し、札幌に居を定め悠々自適の余生を送った。
福士 成豊(ふくしなりとよ)1838年~1922年
【函館の副基線を測量し、北海道三角測量が全国の測量と結びつく基礎をつくり、函館港湾の測量に従事した続豊治の子】
日本初の洋式帆船となった箱館丸を建造した船大工である続豊治の子として、天保9年、函館山之上町に生まれる。天保13年、5歳の時、回船業を営む福士長松の養子となる。9歳で私塾である愛池堂に入学し5年ほど学ぶ。その後、実父の豊治について造船技術を学び、箱館型スクーナー船(*簡単な説明がほしい)を建造した。しかし、より高度な造船技術を習得するためには英語を学ぶ必要があり、函館駐在のアメリカ代理領事であるダブルュ=アール=ペーテ(*調べる)に英語の指導を受け、さらにイギリス人ポーターの経営する商会に5年間勤務し、語学力をつけた。この間、新島襄と出会い、彼の米国へ脱出の力になったことはよく知られている。また、イギリス人ブラキストンから、測量・機械・測候・博物学を学んだ。
慶応2年、ポーターの商会を辞め、再び造船界に転じ、箱館奉行の御船大工棟梁見習となる。明治元年5月には苗字帯刀を許され、名を成豊と改める。11月には、箱館府の外国方運上所出役通弁兼器機製造掛趨事席となる。さらに2等訳官を経て、開拓使の官吏となり、明治5年に自宅に日本初の気象測量所を設けて本格的な気象観測を始める。
その後、函館地方の沿岸測量を行い、さらにアメリカ人技術者ワッソン=デーらの指導のもとで実施された三角測量に従事する。明治8年、ロシアのペトロパブロフスクに出張し、翌年に千島列島を調査し「クリル諸島海線見取図」を作成する。その後も北海道の測量や気象観測事業の上で指導的役割を果たし、北海道庁時代初期にはイギリス人メークとともに函館港湾調査に従事する。明治24年3月に退職し、札幌に居を定め悠々自適の余生を送った。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。