人を幸せにする人になろう

まあ

◆最初に就職したのは、ひとつの研究室に4人、次の東京の職場は5人、いまの職場も5人、実にちょうどいい。同僚のみなさんにも恵まれ、気持ちよく仕事をし、ここまで生きてくることができた。1人もつらいだろうし、2人ならソリが合わなければつらい、あまりの大所帯もまた問題。一人ひとりが適切に力を発揮するには3人から7人くらいの単位くらいがいいのだろう。
◆もっとも規模の問題だけでない。メンバーが価値観や目標をちゃんと共有し、よりよい実現や達成に努力する、お互いに啓発しあえる仲間でありたいもの。そこは人間的にあわないとなると不幸だ。しかしそれでも、まっとうな職場であれば、そういうことはあっても、職務というものがあって、だからといっていがみ合い、足を引っ張り、やる気をそぐ、そんなことにならないよう努めなければならない(むろんどうしようもない場合は、移動させるしかない。前にアカハラの講習かなにかを受けたとき、ある程度の規模の会社などで移動が可能ならばよいが、大学というところは、その教員と院生とか、なかなか代替できず移動もできず、しんどい面があるという話を聞いたことがある)。
◆もとに戻して・・・。能力というものも職をえることで獲得していく側面がある。むろん採用するときは、その時の実績や将来性を判断するのだろうが、それはそうせざるをえないが、そんなに差があるわけでもない。人間は職を得てそこで力をつけていくものなのだ。職場で上に立つ者、大学で指導する側にいる者は、後輩や学生・院生を育てていく必要があるわけだ。オレは失敗を続けてきたので、あまりえらそうなことは言えないが。仕事をしたい、こういうことがやりたい、こういう勉強がしたい、という意欲をもって入ってきた者を、いかに伸ばしていくかに労力を惜しむことなく努力するのが、いまいる者のつとめだろう。
◆どこそこの組織のような姿は知りたくない・・・

これも中国

◆日本大学のY氏にいろいろと御著書などをいただきながら、ちゃんとお礼できていない。すいません。Y氏 による陵山里古墳群の東側の百済官人墓の発表を聞いて、感動したわけである。まずこれぞ岩屋山式の原型と思ったのと、規格がちゃんとあるというところに、薄葬令につながるものを感じた。6世紀後半がピークで、7世紀にはいると劣勢になるのか崩れていくんだとか。
◆で、Y氏の発表資料を見返すと、薄葬令の規定は、やはり唐のものを直接的には参照したということなんでしょうね。

尺度の変化模式図

◆世の中には26センチとか27センチもあるとのことだが、まだよくわからない。現時点での理解を 示した図、大歴の考古部会例会発表の時に作ったものだが、色をつけ、改良してみた。

あと

◆律令国造の就任儀礼は、すべての国別国造について行われていたのか、そうでないのか、わたしにはわからないが、出雲国造と紀伊国造のみ儀式書が残る。で出雲が紀伊と比べて少し特別であるのだとか。きっと出雲の国譲り神話が、日本神話に組み込まれたことと関連するのでしょうね。服属儀礼としての国造就任儀礼の筆頭に出雲国造が位置づけられるが、それは国譲りとセットなんだろう、と。
◆どこにでも国譲り神話があったかどうか、そんなことは知らないが、倭王権に従うといった局面はどこにでもあったわけだ。なぜに出雲か、そこがわからんが、出雲を突き放して言えば、出雲がある理由で選ばれ、記紀に出雲を舞台にした国譲り神話を代表として組み込み、国別国造就任儀礼の第一として位置づけた、と。

あきたので

◆卒論で律令国造というのを学んだ。天武朝には「国別国造」があり、設置時期を示すものでなく、既にいるので、設置はさらにさかのぼる。この卒論を読んでオレが考えたのは、旧国造は評司になるとともに、その地域で最有力の国造が、より広域の「国別国造」に任命され、派遣される国宰とは別に「現地国司」として一定の役割をもたせられていたのではないか、ということ。律令期の在地支配は、旧国造層を取り込んで行われたことはよく言われていることだが、さらに「国司」の役割もそうだったのではないか。「国別国造」これは名誉職的ながら奈良時代にも平安時代にも続き、著名なのが出雲と紀伊なわけだが、「国別国造」が機能したのは7世紀後半なのである。やがて国司が実際に任地に赴くことによって、「国別国造」は役割を終えていく。「国別国造」というのが、改新と大宝令をつなぐ現実施策として設定されたこともまた、7世紀史を考えるきわめて重要なコトガラではないだろうか。
◆ほんまか~、そうかもしれないけど、それが機能したか~、いろんな反論はありうるが、論理的に考えれば、上記のような結論になると思う。機能したかどうかは証明不可能だが、少なくとも、実にスムーズに展開が説明できることは確かであり、「現地国司」としての役割をもたせられていた可能性を積極的に考えてみたい。
【追記】写真に意味はありません。ハルカスのグランドオープンまで、あと26日というカウントダウンの表示のようです。

今日の新聞の

◆是枝監督の記事は実によかった。武蔵丸の話がもっとも象徴的でした。うちの近世史の教員がふだんから言っていることと通じると感じた。一人ひとりの人生に、寄り添い、向きあうこと。
◆例えば、オレはありがたいことに、こういう職をえてメシを食わせてもらっているわけだが、そうした希望をもちながらも職を得られなかった人が多くいる。また、いま有期の職ばかりで、自分はどこまで続けるべきか悩みながら生きている仲間がいる。彼ら、彼女らに、どこまで寄り添えるか。そうすると、埋文とか文化財とか、博物館とか、この世界をもっともっと必要なものとして社会に位置づけられることに、さいわい職を得ている者は、できるだけ努力しなければならない。そんなことを考えました。勝者などではけっしてない。

鴻池新田会所

◆念願だった鴻池新田会所に行く。前に来たときは閉まっていたんです。平野屋新田会所の保存問 題の時に、大和川付け替えにともなう旧河川床、そして深野池・新開池の 新田開発について学んだ。各所にあった新田会所のなかで、平野屋がなくなり、そのまま残る唯一のもので、国史跡になっている(もうひとつ八尾の安中新田会所も建物は残っている)。
◆本屋は1707年にでき(2年かかったと書いてあったかな)、建物も重文になっている。米蔵が展示施設として利用されていて、概要のビデオ、パネル展示がされている。江戸時代だけでなく、戦後の農地解放まで機能し、1976年に史跡指定、1978年に東大阪市が土地を買い上げたとのこと。そのあと解体修理を経て公開されている。ここのHPに行けば、これまでの企画展等のパンフレットがPDFでダウンロードできる。
◆そのあと近つに行きました。

生駒ふるさとミュージアム

◆行ってきました。旧の町役場だそうです。入り口を入ると、すぐ館長とでくわし、学芸員2名を紹介され、長々とおしゃべ りする。写真の手前に、フロアに空中写真があり、壁沿いにロールカーテン式のパネルがある。近年は、このロールカーテン式のものが増えている(前に鳥取県博でも国絵図で紹介した)。かさばらないし、セットそのものは確立されているし、取り替えも簡単。ただまあ、ふつうのポスタープリンターではだめなんだろうが、そのうち可能になるかもしれない。
◆展示の部屋は2室でささやか。手前が通史展示であり奥は民具、その先に第2室があり、生駒曼荼羅と行基の展示となっている。
◆生駒市のことをいろいろ聞いていると、まあちょっとしんどい面がある。埋文職員は嘱託で、また今はいないとか。このミュージアムも指定管理。生駒市は12万人、けっして小さくない。が大阪府生駒市ともよばれるように、ベッドタウンであり、いっぱい人が移り住んできた。地の者と生駒駅周辺のニューカマーとの意識の違いはあろう。が、この谷間の歴史があり、文化がある。このミュージアムが、生駒17郷の歴史・文化をもっと大事にする故郷づくりの拠点となってほしいもの。博物館を作り上げるのに、また運営上、ノウハウをもつところに任せざるをえないのかもしれないが、将来を見据えてやっていってほしいものと願う。

往馬神社

◆生駒に行く。往馬神社は生駒谷17郷の氏神だそうです。立派です。鎌倉時代の生駒曼荼羅が残っ ており境内の姿が描かれているが、基本的にいまも変わりないようだ。な かなか立派な社である。火祭りが有名だそうだ。
◆平群谷でもあり生駒谷でもある南北谷の総称はあるのかな。平群谷も南は勢野の丘陵で綴じられ、平群と生駒の間にも地狭部があり、二つの地域社会ができている。なお、現在の生駒市は、この平群谷に、さらに東北部の高山製菓のある添下?郡の山間部がくっついた市である。

さてと

◆卒論修論の試問が終わり、ほっと一息。来週は大学院入試だが、例年と異なり間に土日が入っ て、これもありがたい。本日15日、改新シンポのパワポを作り、3月1日の条里制研の大会報告の準備までスタートしたいと思い、研究室にやってきました。
◆昨日の大雪は、写真を撮っておこうと思いつつ、試問で部屋に貼り付いている間に雨となり、雪も残ってはいるがぐずぐずとなった。写真は1週間前の雪(7日21:30)。まずは、いつものように、部屋の片付けから。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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