人を幸せにする人になろう

八戸研究会(22)徳丹城

◆最後の城柵。盛岡の志波城から南に移った。木製の冑というが展示してあ。遺跡は国道4   号線で分断されており、正庁は小学校のグラウ  ンドの脇。よく知らなかったが、平行四辺形の区画が東にあって、そこが古いのだとか。前に来たときがどんな段階で、その後の調査でどう進展したのか把握できないが、地道な調査で、解明が続いている
のだろう

八戸研究会(21)矢巾町歴史民俗資料館

◆朝起き、レンタカーを借り、岩手県博に向かうも9:30開館というので、時間がもったいないの で、南に転じて徳丹城に行く。ここには文化庁時代に一度行ったのです。 調査の委員会。岡田茂弘氏とご一緒した。
◆矢巾町の歴史民俗博物館。なかなか見応えはある。とはいえ、ちょっと言いたいこともあるが、そこは我慢しよう。盛岡市などと異なり、小さな町で、職員が、一生懸命、調査をし、史跡整備をし、資料館の展示もやっているのだ。よくやっている、とほんとうに思う。現場をやる人間とは別に、大学で歴史をやったとか、学芸員資格をもっているとか、という若い人を、なかなか正職とはいかないとしても雇用できれば、そして展示をまかせれば、だいぶ違うと思うが。

八戸研究会(21)盛岡そしてじゃじゃ麺

◆盛岡まで新幹線で30分。駅に降り立ったはいいが、困った。まるところがわない・・・。地図を見 る。東横インに違いないとフロントに行くも名前なしあれれ、スーパー ホテルかと電話したが違う。メモには、明日のレンタカーとか、もろもろの番号が控えてあるが、盛岡のホテルの名前がなし。今回の旅程であちこち手配するのに、けっこう時間を要した記憶がある。盛岡のホテルは、いつでも取れると思って、そのままだったのだろう。
◆しゃーない、カプセルだ。いまから考えると、駅の観光案内所にもどって探してもらえばよかったのだが、そこにあったので入る。飯を食いに出かけ、じゃじゃ麺の晩酌セットを頼む。

八戸研究会(20)八戸駅(新幹線)

◆市街地にあるのが本八戸駅、新幹線の駅が八戸駅となる。ぶん東北新幹線は一度盛岡まで乗った ことがあるくらいだと思う。そうか、そのころはまだ先はできていなかっ たわけだが。
◆で、その八戸駅。ユートリーという建物があり、地元企業の展示スペースになっている。マルちゃん?はここなのか。

八戸研究会(19)根城が続きます 記事№2000(よう書いてきたもんだべ)

◆この根城で、前に来たときに強烈に憶えていることがひとつ。それは本丸の遺構図である。なん と16期に時期区分している。すごい・・・。はっきりと憶えている。
◆廃城になるが、のち、盛岡藩の直轄から、八戸藩が分立し、もっと川縁の所に、支城として築かれていたものを近世城郭とした。根城は古城、近世の城はまた別なのだ。そこも行ってみたかったが、青森駅に向かう。

八戸研究会(18)南部師行

◆根城 byウィキ。

 1333年に北畠顕家は陸奥国司として陸奥国に下向した時、南部師行が国司代に任じられて同行 した。翌年、師行は、南朝方の根本となる城という願いから「根城」と名付けた城を築く。が、1338年、師行は北畠顕家とともに足利尊氏討伐に遠征し、和泉国石津川で高師直に破れ、顕家と共に戦死する。
 1393年、南部氏8代の八戸政光は本領の甲斐より根城に移って南部氏の再興を図った。この系統は八戸氏とも呼ばれている。不安定な時代が続き、同族である三戸南部氏が次第に有力になる。三戸城主南部信直は豊臣秀吉の元に帰参して所領の南部7郡を安堵され、根城八戸氏も宗家の支配下に組み込まれる。
 宗家の南部利直は盛岡城を築き盛岡藩を開く。同時に八戸も盛岡藩領に帰属。1627年、八戸氏22代・直秀は利直により遠野城に移封となり根城は廃城となる。
 1983年より11年間にわたり発掘調査及び整備事業が進められた。

◆根城のふもと、八戸市博物館前に師行の銅像があるが、天王寺で戦い、最後は石津川で敗死した人物であったのだ。

八戸研究会(17)根城

◆前に根城には案内してもらったことがある。が、ほぼ忘却。ひとだけ忘れてとがあるが、後述。是川遺跡のあと、鹿児島大H氏と根城へ。これは見とくべきでしょう。
◆南部師行が築城、そのあと300年だったか続いた城。ごっつい空堀で何区画の曲輪があり、奧に本丸がある。で、本丸地区をフルレキで整備したという。90年代前半のことだろう。なので、できたばっかりのころに来たことになる。
◆それにしても本丸の屋形をはじめ、主要な建物を復元し、内部に、工房や倉庫や、内容物の復元をしている。風きつく、16時くらいから1時間ほどしか時間がなく、駆け足ではあったが、ひととおりめぐる。味わい深い。
◆それにしても、これは維持がたいへんである。昔の技
法にしたがい造り上げた姿はすばらしいが、20年もたつとくたびれてくるだろう。そういう補修を続けていくことは大変である、という話をしていた。   

八戸研究会(16)是川遺跡

◆研究会終了後、新幹線で帰る人たちは去っていく。後泊し、れぞれ
北のかをまわる者た ちは、そう急がないので、是川遺跡現地を案内いただく。かつての展示館 は2度建て増しをしているが、現在は縄文館の分館として、体習に使っているのだという。
◆その横が谷地で、最近発掘して、やはり漆器がざっくざく出てきたという。晩期ばかりでなく、各時代の遺の地点があり、広大な国史跡となっているという。範囲や内容確認はまだまだこれからだし、史跡整備も長期にわたりこれから取り組むのだという。写真の二つめは、記念碑の説明看板。ミネルヴァ論争盛んなりし頃の、一方の喜田の文章だという。

八戸研究会(15)是川縄文館

◆埋文センター。実に立派な、贅沢な施設である。
◆なにより是川遺跡の漆器たち。漆塗り土器、ラ ン胎漆器もすごいが、木胎漆器に感激。弥生の刳り物とは違う。よくまあ 中を刳り抜き、表面に彫刻したもんだ。が、考えてみれば、縄文土器の装飾や、岩版やらといったものを見れば、石器でシコシコと、これくらいのことはするんでしょう。それと容器とやらの樹皮製漆塗りのものにも感激。これどういうものなんですかね。綴じ合わせの穴があり、糸を十字にわたした装飾もある。現物の写真を出すのは控えておきましょう。
◆そして土偶たちがならぶ。むろん亀が岡式の土器たち。そして国宝の風張の合掌した国宝の土偶だけを置く部屋が別にある。

八戸研究会(14)翌日は是川縄文館で研究会

◆9:00~15:00まで3本の発表と質疑をめいいっぱいやる。それぞれの中身について、レジメ、メモ書き、そして頭を整理しなければならない。記憶の新しいうちに大事な点を整理しておけば、あとあと為になるんですけど。
◆既に書いた、第一波、第二波、第三波は、八戸市のU氏の発表にあった竪穴住居数のグラフから来ている。実に実に、味わい深いグラフである。で、鹿児島大のH氏の意見が一致したのは、5世紀の拡張主義に対し、6世紀は縮小、内政固めに転じるというイメージ。河内政権がコケル、継体朝は雄略没後の反動をとにかく収めることが何より大事だったのかも。まあ、H氏と異なり、オレの場合はまったくの印象論なので、さらにじっくり考える必要がある。ともかくも、北でも南でも、5世紀に対し、6世紀の集落は希薄になると。もうちょっというと、北では7・8世紀に第二波があるが、鹿児島ではないんだそうです(確かそういう話だったような)。国分寺もできるし、なにもないというわけではないだろうが、北の方がより国家的な課題として強く取り組んだのであろうか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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