人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
丸保山と墓山
◆ともに宮内庁の陵墓であるとともに史跡になっている事例。やっぱり、いずれ
も墳丘裾までが宮内庁の土地であるケースで、周
囲の開発が進み、なんとか保存したいと、史跡にすることで乗り越えたのだろう。丸保山は1972、墓山が1975、このあと、応神陵外堤外濠が1978(未記入)。ともに史跡の範囲(緑)はテキトーです。
◆1981年の陵墓懇談会を報告した『考古学研究』28-4では、こうした史跡指定に対し、「それらは陵墓参考地や陪塚であるからだ。ケース・バイ・ケースである。」との回答が紹介されている。
◆逆に言うと、あるかないか知らないが、陵墓参考地で堀まで宮内庁だったとしたら、そのままその範囲を史跡にしたいといっても、別にせんでも保存されているのだから、ということになるのだろうか。周囲から迫る開発に対し、なんとか保存したいという地元の要望があるからこそ、宮内庁も認めたのだと理解できる。
◆墳丘本体を含まないドーナツ指定はできないとした文化庁の判断はひとつの見識ではある。1970年の土師ニサンザイの場合(そういうこともちゃんとは知っていなかった)、初のケースだったのだろうか。丸保山や墓山はニサンザイの失敗の上に、本体を含めての史跡指定が実現した、ということでもあるのだろう。
◆こうした図示はやはり必要ですね(前々からこうした資料を作成したいと思っていたがやれてなかった)。単純にW指定されている実例があるという事実だけを知識として知っていたものの、なぜそんなことが?と思ってきたが、やはり具体の問題への対処がモノゴトを進めたということが理解できる。
◆1981年の陵墓懇談会を報告した『考古学研究』28-4では、こうした史跡指定に対し、「それらは陵墓参考地や陪塚であるからだ。ケース・バイ・ケースである。」との回答が紹介されている。
◆逆に言うと、あるかないか知らないが、陵墓参考地で堀まで宮内庁だったとしたら、そのままその範囲を史跡にしたいといっても、別にせんでも保存されているのだから、ということになるのだろうか。周囲から迫る開発に対し、なんとか保存したいという地元の要望があるからこそ、宮内庁も認めたのだと理解できる。
◆墳丘本体を含まないドーナツ指定はできないとした文化庁の判断はひとつの見識ではある。1970年の土師ニサンザイの場合(そういうこともちゃんとは知っていなかった)、初のケースだったのだろうか。丸保山や墓山はニサンザイの失敗の上に、本体を含めての史跡指定が実現した、ということでもあるのだろう。
◆こうした図示はやはり必要ですね(前々からこうした資料を作成したいと思っていたがやれてなかった)。単純にW指定されている実例があるという事実だけを知識として知っていたものの、なぜそんなことが?と思ってきたが、やはり具体の問題への対処がモノゴトを進めたということが理解できる。
今井尭さん
◆7月22日の日曜日。暑い・・・。昨日の陵墓の片付けとか、そんなんで大歴の仕事には未着手。『文化財を守るために』第19号を紹介しま
す。2004年から大阪歴史学会の委員になり、陵墓関係を担当するようになりましたが、書陵部との懇談会は、たぶん2005年から参加するようになりました。2008年の懇談会に今井堯さんが出席され、久しぶりにお会いしました。懇談会終了後、例のニュートキョーのところで、近々ガンの手術なんだ、と漏らされたのをよく覚えています。翌2009年4月にお亡くなりになり、この時が最後になってしまいました。その時に、いただいたのがコレ。
◆陵墓が治定された年などを記入した一覧表は基本資料となるもので、「校正用」との書き込みがあり、訂正していく記入用のものであったようです。他への原稿にするためと思いますが、陵墓の一覧表のところはカッタ-ナイフで切り取られたところが多く、使うには不備があるのですが、今井さんが大事にされていたものとして、大切に保管していきたいと思います。
◆1970年代、陵墓公開運動を推進されたのは昭和ヒトケタ世代です。昭和5年として1930年生まれだと、1975年で45歳ということになります。石部さん・宮川さん・今井さんなど、当時40代の方々が取り組まれ、懇談会や「限定公開」などが実現していったことに敬意を払いたいと思います。いま、同じ40代の自分も、そういう世代としてやってんだな~、と思っております。
◆そして、1970年代に始まることを、紆余曲折があれ、継続してきたことの意義も大きいと思います。どこかで16学会みたいな枠の役割も終わる時が来るかもしれませんが、明らかな不都合や不具合があれば修正は必要だとしても、当面はまだまだやっていくことはあるでしょう。わたしとしては、一般公開への道筋作りと、陵墓参考地・陪冢の史跡指定を、当面の目標としたいと思います。この2点は、こないだの陵墓懇談会で、実はぶつけてみようと思っていたのですが、調査方法のところでまた発言をしてしまったのと、時間がもう最後なくなったこともあり、質問せずに終わりました。
◆陵墓が治定された年などを記入した一覧表は基本資料となるもので、「校正用」との書き込みがあり、訂正していく記入用のものであったようです。他への原稿にするためと思いますが、陵墓の一覧表のところはカッタ-ナイフで切り取られたところが多く、使うには不備があるのですが、今井さんが大事にされていたものとして、大切に保管していきたいと思います。
◆1970年代、陵墓公開運動を推進されたのは昭和ヒトケタ世代です。昭和5年として1930年生まれだと、1975年で45歳ということになります。石部さん・宮川さん・今井さんなど、当時40代の方々が取り組まれ、懇談会や「限定公開」などが実現していったことに敬意を払いたいと思います。いま、同じ40代の自分も、そういう世代としてやってんだな~、と思っております。
◆そして、1970年代に始まることを、紆余曲折があれ、継続してきたことの意義も大きいと思います。どこかで16学会みたいな枠の役割も終わる時が来るかもしれませんが、明らかな不都合や不具合があれば修正は必要だとしても、当面はまだまだやっていくことはあるでしょう。わたしとしては、一般公開への道筋作りと、陵墓参考地・陪冢の史跡指定を、当面の目標としたいと思います。この2点は、こないだの陵墓懇談会で、実はぶつけてみようと思っていたのですが、調査方法のところでまた発言をしてしまったのと、時間がもう最後なくなったこともあり、質問せずに終わりました。
歴史地理との出会い
◆昔話が多くなると年やな~、と。頭のてっぺんの髪の毛、薄くなってるやんとカミさんにも言われ、とほほ。
◆が、もひとつ昔話を。大学1年生の時、足利先生の授業に出ていたわけです。今でも鶴翼山の話は覚えているが、なんだっけか。ようするに、山のピークとか、そういうもので直線道が設定されているとか、そういう話だったろう。『松原市史』とか見ていると、足利先生が丹比地域の条里復元をやっている。大阪城下町や伏見城下町の、通とか筋とか話も聞いた記憶はある。でも後期はあんまり授業に出なくなり、で、単位はもらったのかな?。
◆それで歴史地理は面白いと思ったわけです。2回生の時には、教養の地理の演習みたいなやつに出た。少人数で、地図からブロックダイヤグラムを作成するとか、あんまり覚えてませんが。教養の地理には、浮田さん、青木さん、足利さん、さらに助手さんもいた。いっぱい人員がいたんだと改めて思う。考古学は弱くて、枠はひとつも獲得できなかったんでしょうね。足利先生からは地理に行って歴史地理をやらないかと言われた。
◆そんなんで、3回生からの研究室分属希望を出すとき、2番目は地理で、国史は3番目でした。考古学に上がってからも、貝塚爽平先生の集中講義に出たことがあるが、これは面白かった。いや、そんなんで、条里に興味をもつ根っこには、こういうのもあるんだろうな~、とそういう話です。
◆昔、国土地理院の地図を買うのが楽しみでした。加古川には新興書房というのがあり、高校時代、そこで地理院の地図が買えました。250円くらいだったか。地域によってはモノクロのものもありました。まだ全域フルカラーになっていなかったようです。それと、地理歴史考古学部の部室には、1960年代くらいの加古川の都市計画図2500がありました。この地図は好きでした。いや~2500図との出会いです。平荘湖のダム湖ができる前の姿があり、それをしげしげと眺めていたのです。
◆大学に行くと、キャンパスの横が関西地図センターで、全国のものがそろいます。ふつうの家の1階が店で、頼むと出してきてくれました。20万1地勢図のきれいなカラー印刷の地図は、趣味で集めていました。ランドサットの近畿のカラー大判のやつ、たぶん地図センターで見て、欲しくてたまらず2000円だか3000円だか、学生にとっては高価でしたが買い、下宿の壁に貼ってながめてました。どっか行くときは、行き先の地図を買ったりと。
◆それから保育社かなんかの都道府県別の遺跡のシリーズ本が出て、それをもとに奈良盆地の地図に、古墳や遺跡を記入しました。古墳なぞは、ロットリングで輪郭をなぞり緑のペンで塗ってありました。そんな地図は捨てられないので取ってありましたが、去年の卒論生の時に、それを大きなパネルに貼って奈良盆地全域を貼り合わせ、弥生の遺跡をひとつひとつ確認する作業をしていました。あれももう捨てよう。高さんも実にたくさんもっていて、彼が下宿を引き払い福岡に戻るとき、ぜんぶもらったんだと思いますが、折ってなくて(自分のは全部織ってある)巻いた状態のものがごっそりある。こういう地図も、もはや不要ですね。
◆デジタルは便利で悪くないのですが、画像をスクロールするより、紙ベースのものを眺める方が人間的ですよね。
◆が、もひとつ昔話を。大学1年生の時、足利先生の授業に出ていたわけです。今でも鶴翼山の話は覚えているが、なんだっけか。ようするに、山のピークとか、そういうもので直線道が設定されているとか、そういう話だったろう。『松原市史』とか見ていると、足利先生が丹比地域の条里復元をやっている。大阪城下町や伏見城下町の、通とか筋とか話も聞いた記憶はある。でも後期はあんまり授業に出なくなり、で、単位はもらったのかな?。
◆それで歴史地理は面白いと思ったわけです。2回生の時には、教養の地理の演習みたいなやつに出た。少人数で、地図からブロックダイヤグラムを作成するとか、あんまり覚えてませんが。教養の地理には、浮田さん、青木さん、足利さん、さらに助手さんもいた。いっぱい人員がいたんだと改めて思う。考古学は弱くて、枠はひとつも獲得できなかったんでしょうね。足利先生からは地理に行って歴史地理をやらないかと言われた。
◆そんなんで、3回生からの研究室分属希望を出すとき、2番目は地理で、国史は3番目でした。考古学に上がってからも、貝塚爽平先生の集中講義に出たことがあるが、これは面白かった。いや、そんなんで、条里に興味をもつ根っこには、こういうのもあるんだろうな~、とそういう話です。
◆昔、国土地理院の地図を買うのが楽しみでした。加古川には新興書房というのがあり、高校時代、そこで地理院の地図が買えました。250円くらいだったか。地域によってはモノクロのものもありました。まだ全域フルカラーになっていなかったようです。それと、地理歴史考古学部の部室には、1960年代くらいの加古川の都市計画図2500がありました。この地図は好きでした。いや~2500図との出会いです。平荘湖のダム湖ができる前の姿があり、それをしげしげと眺めていたのです。
◆大学に行くと、キャンパスの横が関西地図センターで、全国のものがそろいます。ふつうの家の1階が店で、頼むと出してきてくれました。20万1地勢図のきれいなカラー印刷の地図は、趣味で集めていました。ランドサットの近畿のカラー大判のやつ、たぶん地図センターで見て、欲しくてたまらず2000円だか3000円だか、学生にとっては高価でしたが買い、下宿の壁に貼ってながめてました。どっか行くときは、行き先の地図を買ったりと。
◆それから保育社かなんかの都道府県別の遺跡のシリーズ本が出て、それをもとに奈良盆地の地図に、古墳や遺跡を記入しました。古墳なぞは、ロットリングで輪郭をなぞり緑のペンで塗ってありました。そんな地図は捨てられないので取ってありましたが、去年の卒論生の時に、それを大きなパネルに貼って奈良盆地全域を貼り合わせ、弥生の遺跡をひとつひとつ確認する作業をしていました。あれももう捨てよう。高さんも実にたくさんもっていて、彼が下宿を引き払い福岡に戻るとき、ぜんぶもらったんだと思いますが、折ってなくて(自分のは全部織ってある)巻いた状態のものがごっそりある。こういう地図も、もはや不要ですね。
◆デジタルは便利で悪くないのですが、画像をスクロールするより、紙ベースのものを眺める方が人間的ですよね。
昔話―京都市埋蔵文化財研究所で田中琢の話を聞く
◆瓦とのかかわり。大学時代に考古学研究会に入ると岩倉の窯の分布調査が待ってたわけです。オレと高さんは初めから古墳でしたが、窯跡もやり須恵器の実測もやり続けました。面白さなんてわかりませんでしたが。1回生の時だったと思うので、1983年。京都市マイブンケンの講演会があり聞きに行きましたが、これが田中琢の、隼上がり、幡枝、あのへんの話で、これが実に面白かったわけです(なんかの原稿でした。あとから本になってたのを知る。なんだっけか、窯業とかいうやつだったかな)。ま、瓦を分析し計測し瓦工人を復元する路線についても、方法論は学びましたが、やっぱり同笵瓦の方がそれは面白いわけです。
◆で?。いや~、それだけなんですよ。そのときびっくりしたのは、組合。田辺昭三の講演の時に、組合員が入ってきてアジるわけです。ええっ、市民向け公開講演会で、この応酬には、ちとびっくりでした。ウブな1回生には何もわかりません。いまから考えれば、マイブンケンができてまだ5年以内くらいの時か、六勝寺研究会などの任意団体三つが合体してできたんでしたか、まあ、いろいろあったんでしょうな、としか言いようもありませんが。田辺昭三氏とは、県史の時に、明石の吉田南の原稿のことで電話して、何度か話をした記憶はあるが、それくらいでした。
◆西谷真治先生がなくなられましたね(しばらくたちますが)。兵庫県史の委員をやっておられて、1年勤務していた時に数度お会いし、話をする機会がありました。南塚の川端真治の名前も有名、あとは合子とか長持形石棺とか。それと高砂の酒屋のところに婿養子で入られたんでしょう。そこのお酒が「惣盛」というので、実にうまかった記憶はある。西谷先生とのつきあいはそれっきりかと思うので、別に聞いたのだろうが、そのお酒の瓶のラベルの「惣盛」の文字は先生がすべて書くのだとか、そんな話を聞いたことがある。
◆で?。いや~、それだけなんですよ。そのときびっくりしたのは、組合。田辺昭三の講演の時に、組合員が入ってきてアジるわけです。ええっ、市民向け公開講演会で、この応酬には、ちとびっくりでした。ウブな1回生には何もわかりません。いまから考えれば、マイブンケンができてまだ5年以内くらいの時か、六勝寺研究会などの任意団体三つが合体してできたんでしたか、まあ、いろいろあったんでしょうな、としか言いようもありませんが。田辺昭三氏とは、県史の時に、明石の吉田南の原稿のことで電話して、何度か話をした記憶はあるが、それくらいでした。
◆西谷真治先生がなくなられましたね(しばらくたちますが)。兵庫県史の委員をやっておられて、1年勤務していた時に数度お会いし、話をする機会がありました。南塚の川端真治の名前も有名、あとは合子とか長持形石棺とか。それと高砂の酒屋のところに婿養子で入られたんでしょう。そこのお酒が「惣盛」というので、実にうまかった記憶はある。西谷先生とのつきあいはそれっきりかと思うので、別に聞いたのだろうが、そのお酒の瓶のラベルの「惣盛」の文字は先生がすべて書くのだとか、そんな話を聞いたことがある。
H2Aが打ち上がり+喜界島
◆金曜日からカミさんは4日ほど出張。種子島の打ち上げに呼ばれている。その前に熊本大学でしゃべらなアカンらしく、さくらで熊本へ行き、終了後ただちに鹿児島へ移動するのだとか。今回積んでいる実験装置のプロジェクトが、古巣でやっていたやつで、関係者は打ち上げに立ち会い、また8月といったかな、実験が実施される際には、つくばの管制センターみたいなところに詰めるらしい。ほ~。無事、打ち上がったみたいです。
◆むかし文化庁にいるとき、種子島へも出張したことがある。中種子の旧石器遺跡の調査指導(オレが?)、広田遺跡にも行った記憶がある。その時に、事業団の打ち上げセンターにも連れて行ってもらった。ジグソーパズルを買った覚えがある。
◆なので娘と2人暮らしです。とはいえ、それぞれ独自路線ですが。夏やし、帰ってきたら、娘が薄着で寝ていると、ちょっとね~、とは思いますが。嫌われながらも、口はけっこうきいてくれますよ。
◆4回生照屋さんの卒論報告を聞いていて、奄美というか喜界島に行ってみたいと思うようになった。城久(ぐすく)遺跡というのはきわめて重要そう。10世紀くらいのこの地域のキーになる遺跡だ。なぜに太宰府を襲撃し、また太宰府から叩かれるのか、どうこの遺跡群を評価するのか、むちゃくちゃ面白そうである。それにしても、グスクという名前はどうよ、と思いませんか。
◆むかし文化庁にいるとき、種子島へも出張したことがある。中種子の旧石器遺跡の調査指導(オレが?)、広田遺跡にも行った記憶がある。その時に、事業団の打ち上げセンターにも連れて行ってもらった。ジグソーパズルを買った覚えがある。
◆なので娘と2人暮らしです。とはいえ、それぞれ独自路線ですが。夏やし、帰ってきたら、娘が薄着で寝ていると、ちょっとね~、とは思いますが。嫌われながらも、口はけっこうきいてくれますよ。
◆4回生照屋さんの卒論報告を聞いていて、奄美というか喜界島に行ってみたいと思うようになった。城久(ぐすく)遺跡というのはきわめて重要そう。10世紀くらいのこの地域のキーになる遺跡だ。なぜに太宰府を襲撃し、また太宰府から叩かれるのか、どうこの遺跡群を評価するのか、むちゃくちゃ面白そうである。それにしても、グスクという名前はどうよ、と思いませんか。
21日、大阪歴科協での発表クリア
◆まあ、あんまり書くこともないのですが、11時までに資料を作成し印刷にかかる目標を立てる。このところ、年の功で、ようやくと、ゴールを見定めて逆算し、手を打っていくみたいなコツも、遅まきながらも身に付いてきたようにも思う。が、現実は厳しく、昨晩、家で準備していたメモをインデザインに流し込んで調整し、ひととおり末尾までいったのが11:30、表紙を作る余裕なく、ただちに印刷、ホッチキスで留め、それから資料を見返しながら、しゃべりのイメージを作りながら、しゃべりメモを資料に書き込んでいく。
◆環状線野田から行くことにし、天王寺で乗り換えるも、西九条と福島の間の野田駅は普通しか止まらず、紀州路快速では止まらないんですね。気づいたら福島で引き返し、それでも会場には15分前には付く。
◆中身は・・・、反応は・・・、やっぱりまんべんなくひと通りはつまらんか。オリジナル部分を重点化すべき、なんでしょう。ま、過ぎたこと。帰りの電車で、アマゾンで入手した弥永貞三を読むが、あんまり郷の話は出てこない。歴史地理の論文では、ほかでも領域論を述べたものがあるらしい。まあ、切りがないので、もう新たな材料は加えず、いま書いている範囲でブラッシュアップして、とにかくも早く完成し、この仕事から足を洗いたいと思います。
◆実は水曜日に、東京から戻り、カミさんとサウナに行きました。1時間くらいでしたけど、体重を量ると1㎏は減らず、750gでした。水ぶくれの体を絞ったのですが1リットル汗を出すことはできませんでした。まあ、それでも水風呂と交互に入るのは気持ちいいですよね。血行もよくなるだろうし。とはいえ、もうちょっと年を取ったら、あんまり急激なことをやるのは危険になってこよう。
◆環状線野田から行くことにし、天王寺で乗り換えるも、西九条と福島の間の野田駅は普通しか止まらず、紀州路快速では止まらないんですね。気づいたら福島で引き返し、それでも会場には15分前には付く。
◆中身は・・・、反応は・・・、やっぱりまんべんなくひと通りはつまらんか。オリジナル部分を重点化すべき、なんでしょう。ま、過ぎたこと。帰りの電車で、アマゾンで入手した弥永貞三を読むが、あんまり郷の話は出てこない。歴史地理の論文では、ほかでも領域論を述べたものがあるらしい。まあ、切りがないので、もう新たな材料は加えず、いま書いている範囲でブラッシュアップして、とにかくも早く完成し、この仕事から足を洗いたいと思います。
◆実は水曜日に、東京から戻り、カミさんとサウナに行きました。1時間くらいでしたけど、体重を量ると1㎏は減らず、750gでした。水ぶくれの体を絞ったのですが1リットル汗を出すことはできませんでした。まあ、それでも水風呂と交互に入るのは気持ちいいですよね。血行もよくなるだろうし。とはいえ、もうちょっと年を取ったら、あんまり急激なことをやるのは危険になってこよう。
20日金曜日の教授会
◆13:30から教授会だったのだが、院生がやってきて博物館資料保存論の先生が来ないんですけど、今日は休講ですかと問われ、急遽、そちこちに連絡を取って確認したり、既に書きましたが、栄原先生が原稿のことで研究室をのぞかれ、電話していたもので、そのあと先生の研究室でコメントを聞いたり、結局、30分近く遅刻した。例によって、大学再編のことの、報告と質疑が行われていた。
◆府市統合本部の顧問らによる、市大各研究科のヒアリングが実施されている途中で、文学研究科は既に済んだので、そのときとやりとりが紹介されたり。歴史文化を強化しろ、考古学の教員とかおるんか、といったヒアリング時の発言のメモも資料にあった。「いますよ!いちおうここに」。ま、府市統合本部の方で正式な議事録は作成されるらしい。
◆人事制度のこととか、要するに大学自治をめぐっても議論。それと、もひとつ重要な議題もあった。おかげで、内職をする余裕もなく、金曜日の午後も暮れて行く。
◆会議後、日本史で集まって相談することがあったため、佐賀研究室に集まる。実に美しい研究室である。きっちりと資料がファイリングされ棚に整然とならび、ホワイトボードがあり、そのボードに付箋が備えつけられて
いる姿に妙に感動した。ちょと真似はできません。私は佐原流で行きたいと思います。創造は混沌から産まれる、とうそぶいていたいと思います。
◆この日、卒業アルバム用の写真撮影。いつものカメラマンでなかった、業者風。そうか長いつきあいのある写真館との随契がだめになり入札になったんやろな~、と。
◆府市統合本部の顧問らによる、市大各研究科のヒアリングが実施されている途中で、文学研究科は既に済んだので、そのときとやりとりが紹介されたり。歴史文化を強化しろ、考古学の教員とかおるんか、といったヒアリング時の発言のメモも資料にあった。「いますよ!いちおうここに」。ま、府市統合本部の方で正式な議事録は作成されるらしい。
◆人事制度のこととか、要するに大学自治をめぐっても議論。それと、もひとつ重要な議題もあった。おかげで、内職をする余裕もなく、金曜日の午後も暮れて行く。
◆会議後、日本史で集まって相談することがあったため、佐賀研究室に集まる。実に美しい研究室である。きっちりと資料がファイリングされ棚に整然とならび、ホワイトボードがあり、そのボードに付箋が備えつけられて
◆この日、卒業アルバム用の写真撮影。いつものカメラマンでなかった、業者風。そうか長いつきあいのある写真館との随契がだめになり入札になったんやろな~、と。
市大大学史資料室
◆今週を振り返ると、陵墓懇談会の話はまたやってもいいのですが、それよりもヒストリアの報告記事の原稿を書くのが優先。ということで、また気分が乗れば書きます。それが水曜日。木曜日は、そうか神戸大学に行き、戻ってきて、5限の博物館実習Ⅰの最後の授業で大学史資料室に行き、授業にご一緒させてもらう。
◆うち、大学博物館がないんですよね。でも、大学史が図書館の一階の展示コーナーで企画展を重ねてきているんです。話を聞きながら思ったのは、大学史での展示準備そのものが博物館実習になる、というのもあるんですけど、それは横に置き、いっぱい大学史資料は収集されており、例えば戦後、堺キャンプとして米軍に接収され、10年間、大学は大阪市内に分散していた、なんて誰も知ってはいないのだ。そういう古写真をパネルにして、キャンパスのいろんな壁面に配列していく、別に展示コーナーでなくてよく、廊下の壁面にあれば、見る人がいる、そういうことを進めてはどうなんか、ということを考えていたのでR。
◆もすこしシャベルと、うちの1号館は登録文化財なんですと。知らんかった。例の銅板の登録票みたいなんがあるらしいんだが、どこだ?。ま、ふつう1号館には、文学部は横にあるもんだから、側面から入るので見ていないわけだ。もひとつ、教養の8号館のところには、実は古写真を配列したコーナーがある。そういうのができあがっているのは知っていて見てはいたが、古い建物であるので、そこに作ったというのを、今回、聞くことができた。大阪中央郵便局と同じく、戦前昭和のモダニズム建築物が、大学には実はあるらしい。そういのももったいないんですよね。展示で設計図とかを示して、こんなんだ、と解説してあるんだけど、やっぱり現存するその建物の入り口部分に、ちゃんと解説パネルを配置した方がいいだろう。
◆ま、そんな、自分のところの大学を見直す機会になった。大学史に関わりたいな、とも思ったが、運営委員になるとかそんなんとは別に、博物館実習がらみで提携を深めることは可能だし効果があるな、と思った。
◆うち、大学博物館がないんですよね。でも、大学史が図書館の一階の展示コーナーで企画展を重ねてきているんです。話を聞きながら思ったのは、大学史での展示準備そのものが博物館実習になる、というのもあるんですけど、それは横に置き、いっぱい大学史資料は収集されており、例えば戦後、堺キャンプとして米軍に接収され、10年間、大学は大阪市内に分散していた、なんて誰も知ってはいないのだ。そういう古写真をパネルにして、キャンパスのいろんな壁面に配列していく、別に展示コーナーでなくてよく、廊下の壁面にあれば、見る人がいる、そういうことを進めてはどうなんか、ということを考えていたのでR。
◆もすこしシャベルと、うちの1号館は登録文化財なんですと。知らんかった。例の銅板の登録票みたいなんがあるらしいんだが、どこだ?。ま、ふつう1号館には、文学部は横にあるもんだから、側面から入るので見ていないわけだ。もひとつ、教養の8号館のところには、実は古写真を配列したコーナーがある。そういうのができあがっているのは知っていて見てはいたが、古い建物であるので、そこに作ったというのを、今回、聞くことができた。大阪中央郵便局と同じく、戦前昭和のモダニズム建築物が、大学には実はあるらしい。そういのももったいないんですよね。展示で設計図とかを示して、こんなんだ、と解説してあるんだけど、やっぱり現存するその建物の入り口部分に、ちゃんと解説パネルを配置した方がいいだろう。
◆ま、そんな、自分のところの大学を見直す機会になった。大学史に関わりたいな、とも思ったが、運営委員になるとかそんなんとは別に、博物館実習がらみで提携を深めることは可能だし効果があるな、と思った。
岩崎宏美の記事
◆けっこう好きです。CDもってます。朝日新聞で3回の記事があり、読みました。結婚と離婚と、子供のこととかを告白していました。で?。別に、それだけです。いちど生で歌を聴きたいものですね。オレ、誰かのコンサートなんぞに行ったことは一度もありません。行ったのは、大阪城ホールにチェジウのドラマコンサートというのに、5年ほど前に行ったのが初めて、でした。おっさん1人で恥ずかしかったのですが、ペア券が当たったから行ったのですが、だからといって誘う相手もおらず。
◆マドンナたちのララバイは、オッサンには心地よいわけです。岩崎宏美に生でこれを歌ってもらったら、幸せな気分に浸れるだろうに。檀れいの、金麦のコマーシャルのなかの偶像と同じである。ちょっと軟らかい話を思い、岩崎宏美の話を出してみました。続かんな~。
◆マドンナたちのララバイは、オッサンには心地よいわけです。岩崎宏美に生でこれを歌ってもらったら、幸せな気分に浸れるだろうに。檀れいの、金麦のコマーシャルのなかの偶像と同じである。ちょっと軟らかい話を思い、岩崎宏美の話を出してみました。続かんな~。
だらだらと近況です―いや結局、郷の話
◆改めて近況報告する必要もないとは思いますが。本日7月21日、大阪歴科協の報告が終わったので、缶チューハイを飲んでブログでも書くか、と。報告後、食事に誘われて行き、むこうは委員会に突入するので、再び大学にもどり原稿に戻ろうとするが、床に寝っ転がって寝ていました。眠くて・・・。時々ドアを閉めて寝てます(告白)。
◆郷域のこと、栄原先生にお願いし目を通していただいていたのだが、20日金曜日(先生の授業の曜日)、コメントをいただいた。で、やっぱり簡単には納得していただけなく、イメージの話を聞くことができてよかった。
◆びしっと線で引かれた領域でないなら、どんなんや!と言いたいわけだが、こっちはモワッと曖昧な円みたいなイメージでいたのだが、違うみたい。要するに口分田の班給状況からすると、要は込み入っているということのよう。あいまいで中間地帯ゾーンがあるようなイメージでなく、いちおう、この右は○○郷の田地、左は○○郷の田地、という区切りはあって、主な分布域はあるんだが、要するに口分田はあっちこっちにあって飛び地がいっぱい、というイメージなのだそうだ。ほんまかいな!、とは思うが、要するに錯圃の議論のようです。入り乱れていると。で、史料はそういうあり方を示す、それこそがかっこたる根拠、拠って立つべき立脚点、そうなると、どんなに領域だといっても通じない。が、そんな口分田の復元、何郷の戸主だれの土地がここ、といったことが復元できるのは、荘園領しかないんだろう。
◆一般化できないですよ・・・。荘園開発を進めるにも、東大寺から100人を連れて行くわけでなく、国司、郡司の地元有力者がかかわり、要するに地元の労働力を投入して開発を進めざるをえない。そのときに、寺田があり、実際にそこの開発をやらせる人間の口分田をその周囲に配置することはありうるんではないかと思います。坂井郡の多くの郷の戸主の口分田があるというのは、そうした特別体制と思うんですけどね。が、史料主義でいくと負けるのかな。ふつうじゃないという方の史料がないから。根拠があり確かなことがいえるのは向こうだから・・・。正倉院文書ってスゴイということがよくわかるが、そこから見える世界は実像であるが、宇宙を見たときの望遠鏡の視野のようなもので、シャドウ部が取り巻いているのだろう。資料の偏りの著しさ、そのシャドウ部に光をあてていくのは資料的な偏りの少ない考古資料なんだろう。だからといって、郷が領域かみたいな議論において考古資料から何か言えるわけではないが。
◆どうしたらいいんでしょうね。郷のエリアがそんなにごちゃごちゃで、この世はうまくまわらないだろうに!。さてさて・・・。そんなで、19寺に大学に戻り、郷=領域論の手直しをしようと、もひとつ指摘された『播磨国風土記』の部分を書き加えなアカンと思って、自分の出身地の印南郡のところを床に寝ながら読んでいたら、そのまま寝入ってしまった、ということです。
◆あした日曜日は、大歴のたまった仕事をすべて片付けるつもり(条里の原稿はまた月曜日)。家に戻って、原稿を書いてもいいんだが気力なし。缶チューハイを飲みながらブログを書いてウサをはらそうと。続けざまに、いろいろ書いていきます。
◆郷域のこと、栄原先生にお願いし目を通していただいていたのだが、20日金曜日(先生の授業の曜日)、コメントをいただいた。で、やっぱり簡単には納得していただけなく、イメージの話を聞くことができてよかった。
◆びしっと線で引かれた領域でないなら、どんなんや!と言いたいわけだが、こっちはモワッと曖昧な円みたいなイメージでいたのだが、違うみたい。要するに口分田の班給状況からすると、要は込み入っているということのよう。あいまいで中間地帯ゾーンがあるようなイメージでなく、いちおう、この右は○○郷の田地、左は○○郷の田地、という区切りはあって、主な分布域はあるんだが、要するに口分田はあっちこっちにあって飛び地がいっぱい、というイメージなのだそうだ。ほんまかいな!、とは思うが、要するに錯圃の議論のようです。入り乱れていると。で、史料はそういうあり方を示す、それこそがかっこたる根拠、拠って立つべき立脚点、そうなると、どんなに領域だといっても通じない。が、そんな口分田の復元、何郷の戸主だれの土地がここ、といったことが復元できるのは、荘園領しかないんだろう。
◆一般化できないですよ・・・。荘園開発を進めるにも、東大寺から100人を連れて行くわけでなく、国司、郡司の地元有力者がかかわり、要するに地元の労働力を投入して開発を進めざるをえない。そのときに、寺田があり、実際にそこの開発をやらせる人間の口分田をその周囲に配置することはありうるんではないかと思います。坂井郡の多くの郷の戸主の口分田があるというのは、そうした特別体制と思うんですけどね。が、史料主義でいくと負けるのかな。ふつうじゃないという方の史料がないから。根拠があり確かなことがいえるのは向こうだから・・・。正倉院文書ってスゴイということがよくわかるが、そこから見える世界は実像であるが、宇宙を見たときの望遠鏡の視野のようなもので、シャドウ部が取り巻いているのだろう。資料の偏りの著しさ、そのシャドウ部に光をあてていくのは資料的な偏りの少ない考古資料なんだろう。だからといって、郷が領域かみたいな議論において考古資料から何か言えるわけではないが。
◆どうしたらいいんでしょうね。郷のエリアがそんなにごちゃごちゃで、この世はうまくまわらないだろうに!。さてさて・・・。そんなで、19寺に大学に戻り、郷=領域論の手直しをしようと、もひとつ指摘された『播磨国風土記』の部分を書き加えなアカンと思って、自分の出身地の印南郡のところを床に寝ながら読んでいたら、そのまま寝入ってしまった、ということです。
◆あした日曜日は、大歴のたまった仕事をすべて片付けるつもり(条里の原稿はまた月曜日)。家に戻って、原稿を書いてもいいんだが気力なし。缶チューハイを飲みながらブログを書いてウサをはらそうと。続けざまに、いろいろ書いていきます。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。