人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
今井町について
◆ヤマダさんが、今井町の資料を送ってくださった。今井町の古文書には、森本さんが第一人者。森本さんの書いたガイドブックを読み、理解した今井町の歴史をまとめている。まだまだ頭に入らないが。
◆で、天文期の浄欽、その後裔と思われる今井兵部と、天正11年に登場する今井兵部、これはつながらないんだそうです。これは定説になっているよう(古い理解では一度今井を離れて戻ってきたと考えられてきた)。あとの今井兵部は、近江出身の河瀬氏で、それが名跡を継いだのだろう、とのこと。
◆で、大阪の住吉郡五箇庄の話。文禄2年だかに、前年に今井宗久が死に、子の宗薫が継ぐが1000石に減らされた。が、翌年の文禄3年に、奈良・今井の今井兵部に代官職を与えられたという。その文書が称念寺にはある。【着陸するので、またあとで】
◆だが、慶長3年の関が原で今井宗薫は東軍に協力し、300石加増されて1300石の知行地を与えられる。いまの堺市北花田と大豆塚は、幕末まで今井領なのです。これ、こないだの杉本村山野家文書でも確かめられた。今井宗久以来の五箇庄の領地は、こうして幕末まで、旗本となった宗久の家筋の領地だった。堺の今井宗久は信長に優遇され、秀吉になると奈良・今井の今井兵部、で再び徳川の時代になると今井宗薫が取り戻す、というのが大筋の流れのようである。
◆で、前から常々わからないのは、今井宗久が奈良・今井町と関係があるのかないのか、ということ。近世の家譜によると、今井宗久は近江国高島郡の出で、なんたらの3男ということになっているらしい。で、本願寺衆徒であったようで、奈良・今井にやってきて、そこから堺の納屋宗次の居宅に身を寄せ、武野紹鴎に茶を学ぶ、といったことが推測されている。先の住吉郡五箇庄の領地や代官職のことを考慮すると、今井宗久は今井町とやはり無関係でないように思うが…。今井宗久と今井町を結びつける根拠を調べないといけません。
【画像追加】依網(羅)郷土史からコピーしていたものがあったのを思い出した。
◆で、天文期の浄欽、その後裔と思われる今井兵部と、天正11年に登場する今井兵部、これはつながらないんだそうです。これは定説になっているよう(古い理解では一度今井を離れて戻ってきたと考えられてきた)。あとの今井兵部は、近江出身の河瀬氏で、それが名跡を継いだのだろう、とのこと。
◆で、大阪の住吉郡五箇庄の話。文禄2年だかに、前年に今井宗久が死に、子の宗薫が継ぐが1000石に減らされた。が、翌年の文禄3年に、奈良・今井の今井兵部に代官職を与えられたという。その文書が称念寺にはある。【着陸するので、またあとで】
◆だが、慶長3年の関が原で今井宗薫は東軍に協力し、300石加増されて1300石の知行地を与えられる。いまの堺市北花田と大豆塚は、幕末まで今井領なのです。これ、こないだの杉本村山野家文書でも確かめられた。今井宗久以来の五箇庄の領地は、こうして幕末まで、旗本となった宗久の家筋の領地だった。堺の今井宗久は信長に優遇され、秀吉になると奈良・今井の今井兵部、で再び徳川の時代になると今井宗薫が取り戻す、というのが大筋の流れのようである。
◆で、前から常々わからないのは、今井宗久が奈良・今井町と関係があるのかないのか、ということ。近世の家譜によると、今井宗久は近江国高島郡の出で、なんたらの3男ということになっているらしい。で、本願寺衆徒であったようで、奈良・今井にやってきて、そこから堺の納屋宗次の居宅に身を寄せ、武野紹鴎に茶を学ぶ、といったことが推測されている。先の住吉郡五箇庄の領地や代官職のことを考慮すると、今井宗久は今井町とやはり無関係でないように思うが…。今井宗久と今井町を結びつける根拠を調べないといけません。
【画像追加】依網(羅)郷土史からコピーしていたものがあったのを思い出した。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。