人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
喜界島と城久遺跡(33)村田新八記念碑
◆西郷隆盛らとともに、島津久光に反抗し、村田新八はこの島に流される。その記念碑を鹿児島県知事が立てている。![29df5c7b.JPG](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/9b81cb9acec3d207b2fd2f606e86b648/1374420252?w=150&h=112)
◆村田新八については、すこし調べたが、西郷の懐刀みたいな存在のようである。政府の役人に
してもらい岩倉遣欧使節に加わり、何年か海外で過ごし、最後は官を辞任して残るも帰国し、西郷は薩摩に帰っており、大久保が新たな官職を斡旋できないまま、村田も薩摩に戻り、そのまま西南戦争へと突入して死ぬ。若い留学生に比べると40前になっており、洋行帰りとはいえ特別な技術を身につけた訳でもなく、ただちに抜擢されるような存在ではなかったようだが、しかし戊辰戦争以来の活躍はみなに知られていたという。
◆薩摩時代の島の役所跡は「仮屋跡」という説明看板があるのみで、なにも残っていない。鹿児島県側には絵図などの資料もあるのだろう。いまの町割りにそれをたどることができるのかもしれない。武家?の屋敷に預けられていたのだったか、途中でよく知ったものが赴任し、不便はなかったようだ。1864年に西郷が許されたときに、村田も戻ることを許され、ただちに京にのぼるのだが、徳之島を出た西郷の船が喜界島に立ち寄り、一緒に戻ったという。
◆村田新八については、すこし調べたが、西郷の懐刀みたいな存在のようである。政府の役人に
◆薩摩時代の島の役所跡は「仮屋跡」という説明看板があるのみで、なにも残っていない。鹿児島県側には絵図などの資料もあるのだろう。いまの町割りにそれをたどることができるのかもしれない。武家?の屋敷に預けられていたのだったか、途中でよく知ったものが赴任し、不便はなかったようだ。1864年に西郷が許されたときに、村田も戻ることを許され、ただちに京にのぼるのだが、徳之島を出た西郷の船が喜界島に立ち寄り、一緒に戻ったという。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。