人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
大阪の狭山藩
◆狭山藩が北条氏とは知らなかった。無知ですね~。以下、ウィキ。
小田原城開城の際、隠居の氏政および氏照は切腹、鉢形城で捕虜となった氏邦は出家となり前田利家に預けられた。当主の氏直は助命されて高野山に流された。謹慎は早々に解除され、大名待遇で大阪城下に屋敷を与えられ、また賄領1万石を給され、徐々に格式を回復しつつある最中の翌天正19年(1591年)、氏直は疱瘡にかかり、数え30の若さで死去した。氏直には男子がいなかったため、北条氏の家督は叔父の氏規に継承され、河内国丹南河内二郡において6,980石余を給う。その子氏盛も1591年に下野国内で4000石を拝領しており、1600年(慶長5年)の氏規の死後に氏規の遺領も次いで都合1万1000石の大名となった。
1616年(元和2年)に狭山陣屋を本拠とするようになり、河内狭山藩が生まれた。以降、後北条氏は12代にわたって狭山に在封し、明治維新を迎えた。この間、領地はたびたび変動したが、5代北条氏朝以降は近江、河内の両国内にまとまった。 だが、11代の北条氏燕(先代の養父は先々代の娘婿で氏燕は先々代の甥)の代で北条氏綱以来の北条家の血は絶え、次代以降は他家の人間が北条家を継承していく。
小田原城開城の際、隠居の氏政および氏照は切腹、鉢形城で捕虜となった氏邦は出家となり前田利家に預けられた。当主の氏直は助命されて高野山に流された。謹慎は早々に解除され、大名待遇で大阪城下に屋敷を与えられ、また賄領1万石を給され、徐々に格式を回復しつつある最中の翌天正19年(1591年)、氏直は疱瘡にかかり、数え30の若さで死去した。氏直には男子がいなかったため、北条氏の家督は叔父の氏規に継承され、河内国丹南河内二郡において6,980石余を給う。その子氏盛も1591年に下野国内で4000石を拝領しており、1600年(慶長5年)の氏規の死後に氏規の遺領も次いで都合1万1000石の大名となった。
1616年(元和2年)に狭山陣屋を本拠とするようになり、河内狭山藩が生まれた。以降、後北条氏は12代にわたって狭山に在封し、明治維新を迎えた。この間、領地はたびたび変動したが、5代北条氏朝以降は近江、河内の両国内にまとまった。 だが、11代の北条氏燕(先代の養父は先々代の娘婿で氏燕は先々代の甥)の代で北条氏綱以来の北条家の血は絶え、次代以降は他家の人間が北条家を継承していく。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。