人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
鬼の雪隠俎
◆が気にかかっています。さて、あれこれ数日考えているところを。
◆舒明が641年10月に死んで、642年12月に岩屋山古墳に葬る。
◆この年、今来双墓の記事があり、大型方墳である小山田古墳の造営も本格化したか。
◆舒明改葬は、こうした文脈からすると、岩屋山古墳は八角でなく方墳で、小山田と同格になってしまうので、改めて八角墳を創出し区別した、とみるのが妥当のように思います。押坂になったのも考える必要があります。岩屋山古墳の改造は、既に葬られている以上、難しかったのでしょうか。段の塚への埋葬が643年9月なので、モガリ中に着工しているのだろう。改葬前提で、ひとまず生前造墓の岩屋山に当初の予定通り葬るが、その間にも段の塚を造営していたのだろう。段の塚の埋葬施設は不明だが、岩屋山式石室とみておきたい。
◆問題の皇極=斉明。643年に母の吉備姫王をカナヅカ古墳に葬っている。舒明期に正妃の母の独立した墳墓を営むことができたかどうかはわからない。が、自分が皇極王となったからこそ、実現できるのではないか。だとすると、642年着工。舒明のモガリ期間で、小山田古墳の造営も進行中、別途、段の塚も造営中で、同時にカナヅカ古墳を造る。これ岩屋山式石室です。
◆皇極は王となって自分の墓造りにも着手するだろうが、カナヅカの隣の整地を進めるくらいであったのかもしれない。母、吉備姫王が643年9月に死去し、その埋葬がまずは最優先。
◆ところが645年6月に乙巳の変。孝徳が死ぬのは654年10月、約10年間、王ではない。ところで、やはり前期難波宮から考えれば、孝徳は、大王+大兄でなく、王1人への権力の集中を実現させようとしていたと理解すべきである。皇極を退位させ、古人大兄も殺し、唯一の王となる。だからこそ反発されるわけだ。
◆孝徳墓を追及しないといけません。
◆なので、カナヅカの隣の鬼の雪隠俎は、640年代前半の土地造成はあるにせよ、墳墓造営の本格化は655年からとみておきたい。そうすると、当然、八角墳ではないか、とみるべきですね。鬼の雪隠俎は既に墳丘も流出し、尾根の加工と墳丘部の張り出しを現地形にとどめるくらいで、なんとも判断できないが。いまの俎はかなり上にあるので、段の塚のように段々を重ねて、頂部に八角墳が載る、と考えてみたい。問題は東石槨もあって、八角にふさわしくないように思われることです。
◆658年、建王が8歳で死ぬ。鬼の雪隠俎が、斉明と建王の墓とすると、設計のし直しが必要ですね。8歳の子にあんな石槨を造るのか、という問題も。そこが変となれば、間人は初めから予定されていたということになる。舒明正妃で、自分の娘。6世紀における正妃墓の伝統が続いていたなら(なので用明正妃墓はどこかにあるか)、別に造られておかしくない。まあしかし、牽牛子塚古墳の2槨が事実としてあるので、斉明が655年以降、自分の王墓を造営する際に、舒明正妃の間人の石槨とならべた鬼の雪隠俎をプラニングすることはあっていいようにも思う(問題はそれを八角に収められるかだが)。
◆したがって花崗岩刳り抜きタイプの横口式石槨は、650年代後半にはある(太田の越塚御門667年あたりまでの幅を押さえることができる)。
◆658年の建王の死去は想定外なのだろう。自分が入るべき石槨に先に入れときゃいいんでは。
◆661年7月、斉明は九州で死ぬ。埋葬記事はない。普通だと翌年の11月だろうが、まあ記事がないので不明。鬼の雪隠俎に予定通り葬った、と。
◆で、665年2月、間人が死ぬ。埋葬の記事はない。一旦、鬼の雪隠俎に葬ったか。しかし問題は牽牛子塚古墳になぜ改葬するかである。なんでだろう~なんでだろう~。
◆舒明が641年10月に死んで、642年12月に岩屋山古墳に葬る。
◆この年、今来双墓の記事があり、大型方墳である小山田古墳の造営も本格化したか。
◆舒明改葬は、こうした文脈からすると、岩屋山古墳は八角でなく方墳で、小山田と同格になってしまうので、改めて八角墳を創出し区別した、とみるのが妥当のように思います。押坂になったのも考える必要があります。岩屋山古墳の改造は、既に葬られている以上、難しかったのでしょうか。段の塚への埋葬が643年9月なので、モガリ中に着工しているのだろう。改葬前提で、ひとまず生前造墓の岩屋山に当初の予定通り葬るが、その間にも段の塚を造営していたのだろう。段の塚の埋葬施設は不明だが、岩屋山式石室とみておきたい。
◆問題の皇極=斉明。643年に母の吉備姫王をカナヅカ古墳に葬っている。舒明期に正妃の母の独立した墳墓を営むことができたかどうかはわからない。が、自分が皇極王となったからこそ、実現できるのではないか。だとすると、642年着工。舒明のモガリ期間で、小山田古墳の造営も進行中、別途、段の塚も造営中で、同時にカナヅカ古墳を造る。これ岩屋山式石室です。
◆皇極は王となって自分の墓造りにも着手するだろうが、カナヅカの隣の整地を進めるくらいであったのかもしれない。母、吉備姫王が643年9月に死去し、その埋葬がまずは最優先。
◆ところが645年6月に乙巳の変。孝徳が死ぬのは654年10月、約10年間、王ではない。ところで、やはり前期難波宮から考えれば、孝徳は、大王+大兄でなく、王1人への権力の集中を実現させようとしていたと理解すべきである。皇極を退位させ、古人大兄も殺し、唯一の王となる。だからこそ反発されるわけだ。
◆孝徳墓を追及しないといけません。
◆なので、カナヅカの隣の鬼の雪隠俎は、640年代前半の土地造成はあるにせよ、墳墓造営の本格化は655年からとみておきたい。そうすると、当然、八角墳ではないか、とみるべきですね。鬼の雪隠俎は既に墳丘も流出し、尾根の加工と墳丘部の張り出しを現地形にとどめるくらいで、なんとも判断できないが。いまの俎はかなり上にあるので、段の塚のように段々を重ねて、頂部に八角墳が載る、と考えてみたい。問題は東石槨もあって、八角にふさわしくないように思われることです。
◆658年、建王が8歳で死ぬ。鬼の雪隠俎が、斉明と建王の墓とすると、設計のし直しが必要ですね。8歳の子にあんな石槨を造るのか、という問題も。そこが変となれば、間人は初めから予定されていたということになる。舒明正妃で、自分の娘。6世紀における正妃墓の伝統が続いていたなら(なので用明正妃墓はどこかにあるか)、別に造られておかしくない。まあしかし、牽牛子塚古墳の2槨が事実としてあるので、斉明が655年以降、自分の王墓を造営する際に、舒明正妃の間人の石槨とならべた鬼の雪隠俎をプラニングすることはあっていいようにも思う(問題はそれを八角に収められるかだが)。
◆したがって花崗岩刳り抜きタイプの横口式石槨は、650年代後半にはある(太田の越塚御門667年あたりまでの幅を押さえることができる)。
◆658年の建王の死去は想定外なのだろう。自分が入るべき石槨に先に入れときゃいいんでは。
◆661年7月、斉明は九州で死ぬ。埋葬記事はない。普通だと翌年の11月だろうが、まあ記事がないので不明。鬼の雪隠俎に予定通り葬った、と。
◆で、665年2月、間人が死ぬ。埋葬の記事はない。一旦、鬼の雪隠俎に葬ったか。しかし問題は牽牛子塚古墳になぜ改葬するかである。なんでだろう~なんでだろう~。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。