人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2019年9月18~20日、和泉市合同調査(1)
◆今年は観音寺。観音寺山遺跡。この丘陵上の宅地開発で、観音寺寄りのところは「弥生町」とな る。昔、摩湯山古墳の測量をしていたころ、この丘陵を横断し、弥生町との地番を見て、このへんかと思い込んでいたのは1丁目・2丁目あたりの西側部分。だが、実際に調査されたのは4丁目となっているあたりであった(写真下の左側)。
◆三井不動産による開発だが、当時の調査は工事に追われ、一部にとどまったらしい。同じように西北にのびる丘陵の、調査地外にどれだけ弥生の集落が広がっていたのかは、もはやわからなくなっている。そうなのだ。報 告書の経緯のあたりを丁寧に読み込む必要がある。
◆弥生の集落が、この槇尾川と松尾川にはさまれた一帯で、いくつか知られているようだ。池上のように大規模なものはない。が、観音寺山遺跡を考えると、各所にあった集団を足せば、そこそこの集団規模になるのだろう。尾根もいくつかに分かれ、住み分けることも可能だ。観音寺山遺跡は弥生後期の長きにわたって存続するという。山にあがって100年あまりは降りてこなかったのか。なぜだ、ということを考えていた。答は簡単ではないが・・・。
◆三井不動産による開発だが、当時の調査は工事に追われ、一部にとどまったらしい。同じように西北にのびる丘陵の、調査地外にどれだけ弥生の集落が広がっていたのかは、もはやわからなくなっている。そうなのだ。報 告書の経緯のあたりを丁寧に読み込む必要がある。
◆弥生の集落が、この槇尾川と松尾川にはさまれた一帯で、いくつか知られているようだ。池上のように大規模なものはない。が、観音寺山遺跡を考えると、各所にあった集団を足せば、そこそこの集団規模になるのだろう。尾根もいくつかに分かれ、住み分けることも可能だ。観音寺山遺跡は弥生後期の長きにわたって存続するという。山にあがって100年あまりは降りてこなかったのか。なぜだ、ということを考えていた。答は簡単ではないが・・・。
プラグイン
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新記事
(01/27)
(01/16)
(01/13)
(01/11)
(01/05)
最新トラックバック
プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。