人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2023年9月30日 徳島2 徳島城博物館
◆市街地に戻り、お城。駐車場に入れ、歴史館に行く。蜂須賀25万7000石。 この建物はいつ造ったのですかね。
◆常設展の展示の導線がよくわからんし、パネルの筋もよくわからん。いまの素材を使い、もっと構成をわかりやすくできるようにも思うが。水軍?を扱う人がいて、お城の脇に本拠地があり、あと3か所にも配置されていた、とか書いてあった。面白いのだけれど、常設展の図録がない。
◆企画展示室の展示を見る。大正期のまちなみ写真が3枚、文献から複写し大きなパネルになっていた。これ空襲でほぼ焼けたのだろう。どこともそうだが、失われた町屋、そのなかにあった調度類や美術品、古文書など、すごい量になるのだろう。
◆博物館横の庭園に入るには50円。博物館に入れば庭園にも入れるのだが、50円を取る庭園などフリーにすればいいのに。蜂須賀家第19代の女性はアメリカ在住で研究者らしいが、子供なく、いずれ蜂須賀宗家は断絶です。明治になってのお家騒動?は洲本の博物館で学んだが、どんな話だったか?。以下、ウィキ。庚午事変というのだそうな。
徳島藩洲本城代家老稲田家(1万4千石)は、戦国武将稲田植元を祖としており、植元は蜂須賀正勝(小六)と義兄弟の契りを交わし揃って織豊政権に仕えていたが、蜂須賀家政の阿波入府にあたって植元は蜂須賀家の「客分」となった。以降、稲田家は徳島藩の家臣としては破格の待遇を受けてきたが、幕藩体制が進むにつれ、蜂須賀家と稲田家の関係は対等関係から主従関係へ変化し差別的な待遇をうけるようになった。このような経緯から主家である徳島蜂須賀家との様々な確執が生じることとなった。
幕末期、徳島藩側が佐幕派であったのに対し稲田家側は尊王派であり、稲田家側の倒幕運動が活発化していくにつれ、徳島藩側との対立をさらに深めていくようになった。そして明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島蜂須賀家の家臣は士族とされたが、陪臣の稲田家家臣は卒族とされたことに納得できず、自分たちの士族編入を徳島藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや、今度は洲本を中心に淡路を徳島藩から独立させ、稲田氏を知藩事とする稲田藩(淡路洲本藩)を立藩することを目指す(そうすれば自分たちは士族になる)ようになり、明治政府にも独立を働きかけていくようになる。稲田家側は幕末時の活躍により、要求はすぐ認められると目論んでいた。
明治3年5月13日(1870年6月11日)、稲田家側のこうした一連の行動に怒った徳島藩側の一部過激派武士らが、洲本城下の稲田家とその家臣らの屋敷を襲撃した。
◆常設展の展示の導線がよくわからんし、パネルの筋もよくわからん。いまの素材を使い、もっと構成をわかりやすくできるようにも思うが。水軍?を扱う人がいて、お城の脇に本拠地があり、あと3か所にも配置されていた、とか書いてあった。面白いのだけれど、常設展の図録がない。
◆企画展示室の展示を見る。大正期のまちなみ写真が3枚、文献から複写し大きなパネルになっていた。これ空襲でほぼ焼けたのだろう。どこともそうだが、失われた町屋、そのなかにあった調度類や美術品、古文書など、すごい量になるのだろう。
◆博物館横の庭園に入るには50円。博物館に入れば庭園にも入れるのだが、50円を取る庭園などフリーにすればいいのに。蜂須賀家第19代の女性はアメリカ在住で研究者らしいが、子供なく、いずれ蜂須賀宗家は断絶です。明治になってのお家騒動?は洲本の博物館で学んだが、どんな話だったか?。以下、ウィキ。庚午事変というのだそうな。
徳島藩洲本城代家老稲田家(1万4千石)は、戦国武将稲田植元を祖としており、植元は蜂須賀正勝(小六)と義兄弟の契りを交わし揃って織豊政権に仕えていたが、蜂須賀家政の阿波入府にあたって植元は蜂須賀家の「客分」となった。以降、稲田家は徳島藩の家臣としては破格の待遇を受けてきたが、幕藩体制が進むにつれ、蜂須賀家と稲田家の関係は対等関係から主従関係へ変化し差別的な待遇をうけるようになった。このような経緯から主家である徳島蜂須賀家との様々な確執が生じることとなった。
幕末期、徳島藩側が佐幕派であったのに対し稲田家側は尊王派であり、稲田家側の倒幕運動が活発化していくにつれ、徳島藩側との対立をさらに深めていくようになった。そして明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島蜂須賀家の家臣は士族とされたが、陪臣の稲田家家臣は卒族とされたことに納得できず、自分たちの士族編入を徳島藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや、今度は洲本を中心に淡路を徳島藩から独立させ、稲田氏を知藩事とする稲田藩(淡路洲本藩)を立藩することを目指す(そうすれば自分たちは士族になる)ようになり、明治政府にも独立を働きかけていくようになる。稲田家側は幕末時の活躍により、要求はすぐ認められると目論んでいた。
明治3年5月13日(1870年6月11日)、稲田家側のこうした一連の行動に怒った徳島藩側の一部過激派武士らが、洲本城下の稲田家とその家臣らの屋敷を襲撃した。
プラグイン
カレンダー
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
最新記事
(01/16)
(01/13)
(01/11)
(01/05)
(12/27)
最新トラックバック
プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。