人を幸せにする人になろう

2021年10月17日、条里制古代都市見学会

◆行こうか行くまいか前から考えていたが、カミサンが行くというので、行くことに(自分では決 められない)。13時、西大路駅集合。10時過ぎに家を出て、JR高井田から京都駅に向かう。久津川車塚古墳の発掘現場2トレと3トレの写真を撮る。
◆ひと駅移動して西大路12:45くらい。そこから若一神社、松尾社御旅所、西寺、羅城門、東寺で解散。西寺は30年前に一度来たのだろう。公園になっていて、南は小学校なので、主要部は公共用地で確保されている形。で、新たに西側で塔の跡 が見つかっている。ここは古い集合住宅で、発見地は追加指定されたそうだが、まわりを取り囲む集合住宅の部分は民地だが、これもなんとかなりそう。で、西隣の工業高校を普通科高等学校に立て替える調査で、羅城が検出されたのだそうです。
◆羅城門跡も、30年前の同じ時に来たのだろう。聞くと、小さな公園があり石碑が立っている地点の南の地蔵堂あたりが門の本体のよう。公園の南端部を掘れば基壇が出るのではと思った。
◆東寺は、昔その東側に5年住んでいたので、時々、弘法さんに行っていた。宝物館は初めてかもしれない。終了近く、虹が出る。

2021年10月16日、茨木市の講演会

◆ばたばた木曜日と金曜日に準備して、金曜の夕方に資料提出。当日、職場で2時間ほど画像だけ のパワポを作り、車で茨木市文化財資料館へ。14時からだが13時に着き、喫茶店でパワポを確認しと思ったが、御茶を飲めるところなし。マンション前のお尻を載せるベンチでパワポをいじり、13:45に館へ。
◆14時から15:35までしゃべる。ハイブリッドで、研修室に対面の30人くらいを前にしゃべりつつ、ZOOMで配信されたよう。要するに太田茶臼山古墳はオホホド王でええんちゃうという話。とはいえ、本体は、古市・百舌鳥の大きいものしかいじっていない現状で、ちゃんと太田茶臼山古墳の墳丘復元をやり、その設計寸法を出し、その上で、上石津・誉田・市野山と比べて。どれがモデルかを導くというももの。結論は誉田です。これは高槻市の図録に書いたような気もするのだが、まったく思い出せず、その文献も探し出せないまま・・・。
◆終了後、東奈良遺跡発見50周年展を解説付きで見せていただきました。青銅器鋳造の最先端の研究を教えてもらいました。世の中、進んでいます。
【追記】要約文のところ、1行半ほど書いて、本体の作成にかかり、ひととおり作った上で、要約文に戻るのを忘れてます。9月の近鉄文化サロンの文章がそのまま残ってます。

2021年10月18日(月曜日)久津川車塚の前方部前面の割り付け

◆朝、現場。30分いて、3トレ埴輪のオルソ用写真をコンデジで撮る。職場に行く、研究室(10:40)。今 日は現地説明会資料の点検と、まとめの前方部の復元図を作る。まあ、その前に、土日の片づけからか。
【追記】前方部前面の復元をするだけで1日かかっちまった。

2021年10月24日(日)、久津川車塚古墳の現地説明会

◆2021年は3本のトレンチ調査を実施しています。城陽市教育委員会では、申込制で、30人の5セット、150人に限定して公開します。5回目の終了時間は15時。これまでの調査参加OB・OGのみなさんで、当日、見に来てくれる場合、時間が許すなら、15時頃にお集まりください。公式ツアーは150人の人数限定なので、この申し込み枠は一般の希望者にお譲りください。
【追記】明日の茨木市の講座、なんとか資料は出した。明日当日午前、パワポを準備しよう。

太田茶臼山古墳と誉田御廟山

◆前方部幅が、左が60歩で、右が50歩で、非対称。右が上石津ミサンザイ、左が誉田御廟山、とい うことかもしれない。例えばミサンザイをモデルとして築造され、そのあと、誉田御廟山にもとづき前方部幅の拡大という改修が片側について行われた、といったことがあるのだろうか。
【追記】疲れが取れません。

太田茶臼山古墳の墳丘復元

◆なんとか大枠はやっつけた。市野山型ではない、誉田御廟山型でよいと思う。

2021年10月9日、三島地図

◆茨木市の講演会、なにもしていない。ひとまず市史を借り出す。で、まずいつものように地図を 作り始める。

2021年10月9日(土曜日)

◆8:50研究室。(1)昨日の編集委員会の整理(9:15)。(2)ヒストリア10月号の再校、点検、いろいろ指示(10:38)。鈴鹿市の古墳の復元(13:28)。会計簿(13:34)。『新修茨木市史』2冊を借り出す(13:57)。『茨木市史』を読む、うとうと(15:15)。三島地図、一旦、区切り(17:35)。大歴9月委員会資料を整理(17:54)。11日の記者発表にむけて遺構の整理。途中だが帰る(18:50)。

N先生の紀年論

◆読みました。さすがですね。そうなんでしょうね。が、雄略については、末年は489、つまりは古事記崩年干支に一致。『日本書紀』を問題にしており、古事記の崩年干支については直接的なコメントはない。
◆で、応神。385から425。しかし仁徳以下の雄略までの間の王、そこは延長紀年を認めるわけです。応神紀とそれらと、区別できるのだろうか(何の記事もない紀年が多いとか)。応神については41年の在位を認め、仁徳以下は認めない、極端にいえばそういうこと。応神紀年の41年が正しく応神の在位期間を示す、とみることができるのか。正確にいえば、延長紀年を考えるものと、こういう差があるから応神はいけるのだ、、という判断は示していない。
◆41年が正しいとすると、在位年は385から425になるという記述だったが、最後のところで、白石先生のいうように、誉田御廟山は応神墓でよいと断定になる。誉田御廟山は誰かさんが5世紀前半のまんなかくらいと言っており、応神没年の425年と合うやん、と。しかし、応神没が425年であると、まだ決められないと思う。

テラスの礫敷

◆『考古学研究』で、造山の埴輪列の写真が掲載されてました。が、ほんとうにテラス面に礫敷はないのでしょうか。
◆うちでは、口酸っぱく、礫敷は動いている、流土に入っているというので取り除くと残らないよ、と言っている。まあ基本は動いていて、上からの土が入り込み、葺石のように原位置というわけにはいかない。浮いた高い位置のものはともかく、面的なものは動いても置け、残せと言っている。ガリで削れば簡単に飛びます。
◆玉7・3・1、すべて礫敷でした。渋谷向山も礫敷、網野銚子山も礫敷。そうでないものもあるのではあろう。しかしスタンダードは礫敷、墳頂平坦面も。斜面は葺石、平坦面は礫敷、日本の古墳はそのように仕上げるのである。これは規範である。天下の造山古墳がそうでない、というのは腑に落ちないのである。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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