人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
USBとHD
◆先週月曜日(1月23日)、クラッシュしたUSBだけでなく、HDひとつの修理見積のため、バッファロー大阪営業所に送る。返事が来て、USBは13万円というのでヤメ。これ日常用で、目の前の仕事のデータとかが入っていたが、まあなんとかする。一方のHDは、前からアクセスできなくなっていたもので、ある資料集成のデータ専用としていたもの。これについては、「約70GB、約7,000ファイルのデータが復旧の見込み」とのこと。料金は7万円、しゃーない、何物にも代えがたいオリジナルデータなので、お願いした。ただ全体がどれだけだったのかが不明なので、救えるデータの比率がわからないが・・・。
【結果】16 GB、67,000 ファイルが復旧したとのこと(破損しているファイルを含むらしい)。帰ってきたものを整えるのがたいへんそうだ。
【結果】16 GB、67,000 ファイルが復旧したとのこと(破損しているファイルを含むらしい)。帰ってきたものを整えるのがたいへんそうだ。
カミサンが移籍します
◆いまの職場にいる間にも、いろいろ公募や持ち込まれる話やらがあり、応募してきたが採用されなかったが、ついに変わることになりました。夏に三田市に行ったのは、そういう理由です。引っ越しも考えられるが、住居を変えるのは、この年になるとなかなかしんどい。伊丹あたりに1人用の居所を借りるという案もあったが、授業数も少なくなり、必要な時にホテルというのでいいのではないか、ということに今はなっている。
◆定年が68才なんだそうです。なので、2023年度からで計算すれば、わたしは6年、カミサンは12年ということになります。
◆定年が68才なんだそうです。なので、2023年度からで計算すれば、わたしは6年、カミサンは12年ということになります。
2023年1月29日、文化財専門職説明会
◆家でZOOMでという選択肢はあったが、うちの修士修了生が登壇するので、出かける。たっぷり17時まで。会場が同志社に移った最初の年は、行事がバッティングして行けなかった。で、そのあとはコロナとなり、今回も全面的な対面とはいかなかった。が、京都市内在住の学生・院生らを含め、50人ほどが会場に集まった。遠隔でつないだ数が思ったより多くなかった印象。
◆少し早く京都に着いたので、かつて下宿していた銀閣寺道界隈に行く。「ますたに」のラーメンを食べに行こうとすると、列になっていたのでやめ、その2軒先の下宿屋はと見ると、建物が解体され駐車場になっているではないか。今出川通りに面し、それに沿って疎水が流れ、6月くらいになると蛍が部屋の前に飛んできたり。
2023年1月28日、洗濯機
◆夕方、洗濯機がクラッシュし、止まる。少し前からへんな音が出て、悲鳴を上げていた。即、やはり買い替えざるをえないので、電気屋に行き、はじめて乾燥機能つきのものを購入することになった。到着は少し先。
◆この洗濯機、2000年に単身赴任になった時に購入したものだろうか。いろいろ入れ替えたような気もするが・・・。洗濯途中だったものは、翌日、コインランドリーで処理。
◆この洗濯機、2000年に単身赴任になった時に購入したものだろうか。いろいろ入れ替えたような気もするが・・・。洗濯途中だったものは、翌日、コインランドリーで処理。
2023年1月27日、メールが・・・
◆朝、カミサンが痛みを訴え、市立病院に行く。原因不明だが、別の検査もして、結果待ち。この日は、会議日だったが、午前中は病院にいて欠席する。この病院、骨折入院し、その後、肩のカルシウムを抜いてもらったり、お世話になった。赤字が常に問題にされているようだが、地域の総合病院として不可欠。久しぶりに行き、なつかしい。支払いが機械になっていた。
◆数年前、2018年から2020年あたりは、親の入院・介護その他で、病院に行く機会が多く、いまの日本の縮図だな~と思ったが、現在は、3人まで他界し、うちの母親は施設に入り、あまり病院に行かなくなっていた。が、そうこうするうち、今度は自分らが病院にお世話になる機会が増える時期になるのだろう。カミサンの同僚だった先生は、すい臓ガンが発覚し1年もたずに亡くなったが、61才だったという。
◆この日、午後は職場に行き、会議に出る。が、この日は、3つの会議がすべてZOOMで、どなたも研究室には来てなかったようだ。で、メールを処理していて、失敗し、過去数年分、ここ最近のものを含め、受信メールを失った!。細かい理由はよしとして、ひとつは誤った操作、そしてゴミ箱行きになったものを、全削除してしまった。ある程度マメに処理してきたので、古いところは逆にすっきりした感はあるが、ここ最近で保留にしていたものについて、困る案件がいくつかありそうだ・・・。
◆数年前、2018年から2020年あたりは、親の入院・介護その他で、病院に行く機会が多く、いまの日本の縮図だな~と思ったが、現在は、3人まで他界し、うちの母親は施設に入り、あまり病院に行かなくなっていた。が、そうこうするうち、今度は自分らが病院にお世話になる機会が増える時期になるのだろう。カミサンの同僚だった先生は、すい臓ガンが発覚し1年もたずに亡くなったが、61才だったという。
◆この日、午後は職場に行き、会議に出る。が、この日は、3つの会議がすべてZOOMで、どなたも研究室には来てなかったようだ。で、メールを処理していて、失敗し、過去数年分、ここ最近のものを含め、受信メールを失った!。細かい理由はよしとして、ひとつは誤った操作、そしてゴミ箱行きになったものを、全削除してしまった。ある程度マメに処理してきたので、古いところは逆にすっきりした感はあるが、ここ最近で保留にしていたものについて、困る案件がいくつかありそうだ・・・。
2023年1月22日(日)鈴鹿市大下遺跡シンポ
◆前日の土曜日にパワポの準備。以前にやったものの調整なのだが、それでも図を差し替えたり、1 日近くかかった。この時点で、しゃべる時間に対して枚数が多いことにあまり注意が行かなかった。ひととおり完成し、デスクトップからUSBに保存しようとする。資料やパワポだけでなく、木樋のオリジナル画像ももっていこうとし、フォルダは確かに容量が多かったのではあろう。USBへの移動がやたら時間がかかり、途中、やめたり、なにか反応がおかしいなとは感じた。でもなんとかUSBに移す。カット&ペーストで。そのUSBデータをノートPCにコピーしようと差し込んだら、「フォーマットせよ」と来てあわてる。まずい、常用のUSBがいかれた!。
◆しかたながいので家に帰り、あれこれデータ復旧無料ソフトでやってみたがダメ。再び、前にやった時のパワポからの再調整をひととおりやり、寝る。
◆12時白子。津で1時間ほどコーヒーを飲みながら、持って出た修論1本を読んだりして、白子。A氏 とともに、会場の小学校へ。このたび、取り上げた木樋の保存処理が完了し、その実物とレプリカ、それと溝の底面に据えてある模型などが、会場に展示してある。申し込みのあった80名でほぼ満席。A氏の発表に感銘を受ける。すごい!。またNPOの活動などについても、いまやっていること、また犬山学センターを設置した大学に協力し、教員としてやっているお仕事などについて、ご教示いただく。自分の報告は失敗ですね。
◆しかたながいので家に帰り、あれこれデータ復旧無料ソフトでやってみたがダメ。再び、前にやった時のパワポからの再調整をひととおりやり、寝る。
2022年12月26日、天草へ
◆天草に向かうため、半島南端の口之津に向かう。有馬からはすぐ近く。フェリーが出たところで、1時間ほど時間あり。ごはんを食べようとしたが、店が閉まっていたりした。このフェリー乗り場のところも、2階が資料館になっており、また港の先にある古い税関?の建物が分館になっているが、月曜日で閉まっていた。
◆天草の鬼池港までフェリー。
2022年12月26日、原城
◆島原市をあとにして、途中、高速も使い、南下。原城に向かう。有馬氏の日野江城にも立ち寄り たかったが、フェリーの時間もあって寄らず。
◆日野江城。以下、ウィキ。鎌倉時代前期の建保年間(1213年 – 1219年)に高来郡を領する藤原経澄が築城した。 経澄は築城時に姓を有間と称し、後に有馬と改称した。有馬氏は当初島原半島南部の一勢力に過ぎなかった。貴純の時代になると半島内の諸勢力を制圧し戦国大名へと成長していった。貴純は日野江城の支城として原城を築城している。晴純の時代に有馬氏の版図は最大となり21万石を領するまでに成長した。しかし、後ろ盾となっていた大内氏が滅亡すると龍造寺氏の圧迫を受けるようになった。13代目当主の晴信はキリシタン大名となり城下にセミナリヨを建設し、逆に寺社を破壊し城の築材とした。江戸時代初期には晴信は4万石を領し、日野江城は島原藩の藩庁となった。しかし、慶長17年(1612年)晴信は岡本大八事件に連座した罪により甲斐国で切腹となった。嫡男直純が後嗣となったが慶長19年(1614年)に日向国延岡城に移封となり、有馬氏は約400年間にわたる在城に別れを告げた。有馬氏が去り元和2年(1616年)に松倉重政が入城するまでの間は天領となった。松倉氏は入封後、日野江城に不便を感じ新たに島原城を建設し、日野江城を廃城とし歴史の幕を閉じ
た。
◆日野江城にやはり行くべきでしたね。原城、なかなかきれいに整備されている。畑があり、耕す人がおり、のどか。海が広がり、天草が見える。
◆日野江城。以下、ウィキ。鎌倉時代前期の建保年間(1213年 – 1219年)に高来郡を領する藤原経澄が築城した。 経澄は築城時に姓を有間と称し、後に有馬と改称した。有馬氏は当初島原半島南部の一勢力に過ぎなかった。貴純の時代になると半島内の諸勢力を制圧し戦国大名へと成長していった。貴純は日野江城の支城として原城を築城している。晴純の時代に有馬氏の版図は最大となり21万石を領するまでに成長した。しかし、後ろ盾となっていた大内氏が滅亡すると龍造寺氏の圧迫を受けるようになった。13代目当主の晴信はキリシタン大名となり城下にセミナリヨを建設し、逆に寺社を破壊し城の築材とした。江戸時代初期には晴信は4万石を領し、日野江城は島原藩の藩庁となった。しかし、慶長17年(1612年)晴信は岡本大八事件に連座した罪により甲斐国で切腹となった。嫡男直純が後嗣となったが慶長19年(1614年)に日向国延岡城に移封となり、有馬氏は約400年間にわたる在城に別れを告げた。有馬氏が去り元和2年(1616年)に松倉重政が入城するまでの間は天領となった。松倉氏は入封後、日野江城に不便を感じ新たに島原城を建設し、日野江城を廃城とし歴史の幕を閉じ
◆日野江城にやはり行くべきでしたね。原城、なかなかきれいに整備されている。畑があり、耕す人がおり、のどか。海が広がり、天草が見える。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。