人を幸せにする人になろう

前期難波宮

◆宮内の官衙の様子もわかりはじめ、また宮外かと思われる官衙の報告もあった。建築的には、八 角建物、複廊、前殿と後殿をつなぐ工字形の建物、白壁、巨大な門、すべて前期難波宮が初出。むろん広大な朝堂に朝庭、内裏前殿の構造も。16朝堂にみあう中央官制が打ち立てられたであろう。また曹司もともなうと。当然に京もあるはずだ。難波に10年、ミヤコがあったわけだ。宮の造営が進むのと平行して、京域も整備されたはずだ。もっとも宮完成から飛鳥にもどるまで2年、どこまでできあがっていたかは別として、プランがあり施工されつつあったのだろう。
◆7世紀の大化の政府がめざした姿がそこにうかがえる。最後に振られてしゃべったこと。蘇我排除は必然。新機軸を打ち出すのに、飛鳥を離れる刷新をめざす。その場合に、なぜ難波か。それは全国区の政府を打ち立てるには、やはり淀川流域に出てこそではないか。その際には、古くからの拠点がある大阪を選ぶのも必然だろう。改進の最大の考古学的証拠は難波宮。朝堂からは中央官制が、そして木簡から地方行政制度も作られた、と。
◆ただ問題は、飛鳥に短期間で戻ってしまうこと。また反対派も多かったと一般にはみられており、急進的改革に対する反動があったとみられている(いまの大阪市を考えればイメージしやすい?)。しかし、飛鳥に戻るのは政治的な問題であって、戻った以上、それは狭い飛鳥でやっていかねばならず、だからといって改進で打ち出した方針が後退したかどうかは、また別と思う。まったく頓挫してしまい、天智朝を待たねばならん、などとは思っていない。天下立評され、665の国-評-五十戸の木簡が出てくるのは、スムーズだと思う。美濃が特別だとは思わないし。中央官制だって、飛鳥の執務形態は知らんが、それですっかりご破算になったなんて考えることはないだろう。
◆すべてが順調にとはいえまい。だが、そんなに反動の証拠はあるのだろうか。

改進シンポおわり

◆朝、出発遅れ、結局、1時間ほどくらいしか手直し時間はなかったが、パワポの改良をやる。 12:30開始、11:30に杉本町駅、なんとか15分前にすべりこむ。
◆報告者4人で各40分。なんとか40分で終わったんじゃないかな。こういう市民向け企画、いわゆる業績調書では講座みたいな扱いだが、今回は自分のなかでは最先端の話。さて、理解はしてもらえただろうか。
◆予想されたことだが、打ち上げ。帰って来週の報告準備をしたいところだが、これはよかった。大阪歴博の関係者と、こんな呑み会をする機会もほとんどないし。本日は市大の新任古代史の教員も大阪市デビューといったところで、みなさんと名刺交換もして、これもよかったと思う。彼はまだこれから30年ある。難波宮の調査や普及事業に、これから長いつきあいが始まるだろうから。オレとしては、博物館協会のM女氏と30年ぶりくらいで呑めて、とてもよかった。
◆今回のシンポのコーディネートのS氏は、オレと同じく、来週の条里制・古代都市研究会の報告者、また来週の呑み会で、と別れる。お互い、準備はこれからのようです。

新たな石切丁場

◆まったく知らなかったが、昨年6月の新聞に、山科で石切場がみつかったとのこと。写真は今年1 月の京都新聞。森岡さんに教えてもらう。

さて条里

◆明日の改新シンポのパワポがようやくできあがった。40分だが、73枚になり、これではとても無 理。明日の午前中にまたスリム化しよう。芝が原の原稿の手直しもしたし、2月22日13:28、さて条里制研究会の大会報告準備にかかろう。木・金出張で、月曜日もほぼ丸つぶれ。本日、日・火・水でやっつけなければならない。ちと厳しいわな・・・。
◆既に原稿があるヤツをレジュメにするのは、しんどいわ。あ~あ疲れた。

岩屋山は実に目立つ

◆天武持統陵のことはこのくらいにしておきます。早めに所見をまとめておき、正式には『ヒスト リア』4月号に報告しよう。事後検討会は橿原公苑事務所で、飛鳥駅に向かう道すがら、岩屋山古墳がぽっかりとよく目立つことを確認する。けっこうな大きさですよね。やはり7世紀前半でしょう。

で天武持統陵

◆13:30から14:50まで観察。墳丘構造はよくわからんが、基壇上に4段の墳丘がある、としておこ う。むろん5段の5というのに意味があるとも言われているようです。ひとまず40度とも言われる斜面部が4段分あるとされているわけだが、それが明瞭に視認できるわけではない。そのへんは、盗掘され、墳頂部にも穴を開けられ、封土がかなり崩された関係で、舒明陵や天智陵よりも改変が大きいのだろう。
◆で、その最下段斜面の裾部から外周にかけて、斜面基部の貼り石、地覆石、その外の凝灰岩板石ブロック3石分幅の基壇について、8角のほとんどの箇所について、昭和36 年段階に宮内庁が発掘調査をしている。それと昭和50年の末永雅雄の調査のレポートなどの記録が、『牽牛子塚』の報告書に掲載され、現時点での復元案も示され、今回の基本文献となっている。
◆で、その稜角部の墳丘裾と基壇裾の位置に、昭和36年調査終了時にコンクリートの円柱が立ててあり、立入り観察する上で基本的な位置の手がかりになる。写真は、ひとつの稜角部のみ、上の段も追究したのか、何本もコンクリート柱を立てている箇所。ほかは基本的に裾部の2本。こんなことは、『牽牛子塚』の報告書まで知らなかったわけだが、それを知れば、外からでも何とか視認でき、裾部の位置のイメージをつかむことができる。
◆これを見て思った。遺構表示してくれないかなと。とくだん、さらなる調査をしなくてもいい(してほしいが)、コンクリートの円柱をつなぐように、なにか表示する工夫をすれば、墳丘北側であれば、立ち入り禁止区の外からでも、日本国民は八角形を理解することができる

鬼の俎

◆この古墳、鬼の雪隠・俎古墳と言うのだろうか。通称はそれでいいが、総称はないんだろうか。 指す時に困るわけです。これ、東隣にもうひとつの横口式石槨があって、あわせた方墳とすると、なおさら、古墳名がほしいところ。こういうのがゴロゴロころがっているのが、飛鳥なんでしょうね。方墳として調査もしてほしいところではある。とはいえ、現役の畑でありつづける姿もまたいいもんで・・・。
◆ちなみに今日は、オートフォーカスをやめて、すべて手動にして、あんまりよく見えてないながら、1カット1カット、ピントをあわせた。

鬼の雪隠

◆鬼の雪隠と、むこうに野口王墓を一緒に写し込んでみた。このへん、最初に飛鳥に行ったのはい つか、中学生くらいか、まったく憶えていないが、たぶん来たんでしょう ね。その後も何度か来ても、ぜんぜん何者かわかっていなかったわけ。はじめてシゲシゲ見たかもしれない。

カナヅカ古墳

◆21日(金)天武・持統合葬陵の立入り。まずい、カメラを忘れた。大学に取りに行き、時間をロ スしたので、そのまま車で橿原神宮前に。飛鳥まで電車で行き、現地まで歩く。平田梅山を望み東へ。カナヅカ古墳が見えてくる。宮内庁が陪塚としている管理地を初めて一周する。
◆吉備姫王墓で、檜隈陵域内。写真のむこうにあるのが平田梅山。梅山古墳が檜隈陵とよばれたのか、『延喜式』にはないんでしょうね。『延喜式』で檜隈(前)を冠するのは、檜隈坂合陵と檜隈大内陵、文武陵だけ。

竪穴住居から掘立柱建物への変化は近代化

◆表題のことの意味を端的に示すのはどうしたらいいのか、集落の復元イラストのいいのがあれ ば、対比的に挙げるのがいいと思うが、なかなか見あたらない。今日の研究会でも そんな話になり、ちょっと挙げてみます。
◆むろん極端な話だが、それくらいの画期が、6世紀と7世紀の間に横たわっている、と考えています。
【追記】あかん、野口王墓の勉強ができてない。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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