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池田の町 池田市歴史民俗資料館

◆在郷町・池田。南下して池田市歴史民俗資料館。そこのパネルにあった池田の町の図。近世絵図では既に城はないので、絵図のトレース起こしとしては、こうなる。が、これに城を記入していただけるといいのですが。
中之町というところを少しウロウロしました。

閉まっていた川西市郷土館

◆城山のふもとに、江戸時代に多田銀山の鉱石から精錬していたマチができていたとのこと。城の登り口まであるいていると、石垣に交じって金属ケラを積み上げた壁面がある。別子銅山を思い出す。
◆で、ここに川西市郷土館というのがあるのですね。平安家というのが精錬をやっており、すごい屋敷が残っていて、それが川西市の所有となり、郷土館の構成資産になっている。ほかにも6つ?くらいの建物などがある、複合施設になっており、全体を川西市郷土館というらしい。残念ながら、耐震工事のために休館中・・・。今年の秋に再開するとのこと。改めて来たいですね。

シオジイの城 山下城(獅子山城)

◆多田庄の国人筆頭の塩川氏の居城とされるも の。シオジイはこの家筋なんだとか。

囲形埴輪だ

◆多田神社でも見ました。

2024年1月25日 多田神社

◆3回目。平日ながら参拝者は途切れなくいる。家綱の時代に源氏発祥地と して重視され、元禄にい まの本殿はじめとする社殿が整備されたとのこと。燈籠の年号も元禄がほとんどである。本殿の棟には三つ葉葵の紋が入っている。重要文化財とのこと。
◆多田源氏の本拠地が、きっと神社下や、一帯にあるのでしょうね。

2024年1月25日 川西・池田・豊中へ

◆大学院の授業のラストを現地見学にあてた。10時に阪急・川西能勢口駅集合。一般車が寄せられ る場所はなかったと思う。無事に参加者を乗せ、まず多田神社に向かうが、途中、勝福寺古墳に立ち寄る。2回目か。北側に駐車場が設けられ、遊歩道ができあがっている。古墳自体は、フェンスに囲まれ、立ち入れない。石室が北向きなんですね。丘陵尾根の制約だろうか。

2024年1月24日 実習展の設営

◆毎年のことながら、今期は、こちらでテーマを決めた。府立大阪博物場である。昨年からクラス が2つになり13人とちょうどいい人数。なんとか要所で割り当て、筋を決め、分担分について調べてもらい、パネルの文案を作り、関係資料の画像等を集め、進んできた。年明けからいよいよこちらも稼働し、パネルをインデザで作り、展示設計(パネルの配置)をやり、ごぎつけた。
◆結局はみな、今日、授業時間内にパネルを切る(お膳立てをやりすぎかも)。こっちは大学史で展示ケースの準備、パネルボードの倉庫からの取り出し、杉本図書館の博物場関係の資料の貸し出しをやり、1645の5限開始時に設営場所で「待ち」。おいおいパネルがやってきて、ボードの配置、パネルの貼り付け、展示ケース2個への資料の配置。まあ、だいたい授業時間内のなかで完結。解散後、少し残務をやって、20時。
◆ささやかなものだが、学生が週1の1コマの15回でとなると、こんなところだな。まあまあ、うまく回った年になったかな。もう仕事をする気もなく、帰るかな。次は2月2日のイベントだ。

21日(日)の城陽市のシンポ

◆北海道からの帰り、21日の資料をまずどうしようかと。近鉄文化サロンの時のものを取り込んでいたので、その4頁分と、車塚の最新の復元図を加え、午前中のうちには送信したのだったか。そのあと、2022年の考古学研究会関西例会の時のパワポに、近鉄文化サロン時の資料の内容にかかわるパワポをくっつけると、150枚くらいになる。これをどう減らすかやっていたが、あまり進捗しなかった。
◆大阪に戻り、夜頑張れず寝て、朝の3時頃に起き、ごそごそやって、再び寝る。朝起きて8時過ぎに職場に行き、3時間程度、最後のオチのところをやる。
◆上石津が左右非対称、誉田が前方部の開きが確実にわからない(210歩と220歩で揺れている)。茨木市で太田茶臼山の話をした時も、王寺町で室宮山を取り上げた時も、モデルが上石津か誉田なのかあれこれやって、両方とも誉田となる。春成論文集に書いた最新の設計寸法を記入した2基の画像をならべたスライドを最初は用意したが、わかりにくい。それをやめてシルエットのみを左右にならべ、ながめてみる。後円部に対する前方部トップの高さの差は、上石津が3m低く、誉田が2mだったか、そう差はない。前方部幅は誉田が不確実。が、前方部上段の発達は明らかに誉田の方が高くなっている。誉田は誉田で後円部下段の設計がむつかしく、墳丘長もN先生のいうように300歩で造ろうとしたが、最終的には305歩になったと考えられ、縮尺比率も難しい。が、300:125でシルエットを重ねたものを作り、これを結論とした。
◆城陽市に到着してから、スライド枚数を削り、なんとか124枚とする。あとはしゃべり。もち時間の40分より5分はオーバーしたのかな、無事、終了。KT市のUさんとか、Y市のYさんとか、K町のK君とかが参加してくれていて、立命のK君とともに、終了後、話ができたのもよかった。
◆文化パルク城陽の駐車場に行くと、前輪右がずいぶん低くなり、ガソリンスタンドで空気入れさせてと頼むと、パンクしてますといわれ、応急処置。なんとか帰り着き、何をする気にもならず眠る。

2024年1月19日(金)函館に向かう

◆前日の18日夜、北海道に行くことになる。そこで19日の朝、930の会議を欠席する連絡をし、1130の約束についてもゴメンナサイの連絡。いま、北海道に向かう新幹線  です(1144)。飛行機は高い!
◆今日の7時間があれば、博物館実習展のパネルの仕事もできるかな。明日の帰りの7時間は、日曜日の城陽市の準備。朝職場に行き、作業に必要なデータをノートPCに移して出発。夕刻、五稜郭駅に降り立つ。
◆画像は1月20日朝。よい天気である。

用明末年は588年か

◆用明末年である『紀』用明2年は、元年太歳から翌丁未年にあたり、『記』崩年干支と矛盾はない。『紀』は用明没年を丁未587年に位置づけている。
◆没月は4月で、『紀』は「4月癸丑」、『記』は「4月15日」である。
◆587年4月朔は元嘉暦・後漢四分暦とも乙巳(干支の番号41)。なので、『紀』の癸丑は9日であり、『記』の15日と6日のずれである。
◆牧尾一彦氏の主張のように、用明没年を1年あとの戊申年588年とすると、4月朔は元嘉暦・後漢四分暦とも己亥(35)なので、『紀』の癸丑は15日となり、『記』と一致する。
◆よって、用明没年は丁未年587年ではなく戊申年588年4月15日である可能性がある。蘇我VS物部戦争もまた588年ということになろう。崇峻即位も587年(『紀』元年588年)ではなく588年となる。崇峻即位については、『古事記』の「治天下4年」からすると589年であることも考えられる。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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