人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
網野とちがうが
◆応神は執政王位を簒奪したと考えているわけです。前任の執政王が倒された。が、神聖王はまだいるわけです。応神が385年に執政王になったとして、5年間は佐紀の神聖王と並立状態にあったのではないか。そして五社神古墳被葬者の没後、オオササギを神聖王に立てた。これによって完全に河内政権が樹立される。そんなことを考えていました。
◆いま中四研の論文を書いていて(4月あたまが締め切り)、五社神型前方後円墳の部分はだいたい書き終わりましたが、これらは中期前葉。これらは佐紀後半期に築造に着手、没したのは河内政権に移行した中期のはじめになったものと考えているが、まあ、ことごとく中期に入る。なので、五社神そのものも、埋葬年は390年で、応神の段階ということはありうることだろう、と。
続き
◆雄略が467から489になるんでしたっけか。とにかくも、応神君が425年までやってたら、その間は全然つじつまがあわないだろう。仁徳っていつからいつ?、履中はいつからいつ?、反正はいつからいつ?、允恭はいつからいつ?、そういう整合性がとれないだろう。そこは、応神紀に関する卓抜な研究であるが、最後はあれれとなる。390じゃなく385なんですね、5年ちゃうんですね、というくらい。応神が41年間在位したことは証明されていないのである。先に古事記崩年干支の信憑性を反正まで示したように、古事記崩年干支の応神没394のほうが、実際ではないのか。
◆SGさんが、笠井倭人さんの、書紀紀年で記事のある条を数え、それでほんとの在位年を考える研究を使う。それを見ると、古事記崩年干支とほぼ近似する。その時どっちを使いますか。日本書紀で、紀年はあっても記事のない空白年は架空で、記事のある年の足し算が実際の在位年を示すというひとつの見方、考え方は間違っていないかもしれない。だけど、SGさんは、考古学の古墳の年代と対比する倭国王の在位年として、この笠井年を使って議論する。なんでやねん。
◆古事記崩年干支を絶対視することはできない。が、これは史料にある年代の手がかり。それに対し笠井説は、一定の見識で近似的なものが導かれているが、これは日本書紀編纂のフィルターがあり、20世紀の研究者がひとつの仮説的見方で足し算をしたもの。そっちがなぜに古事記より信頼できるのか、原著論文ではどう書いてあるのだろうか。
網野つづき
◆とにかく、古事記崩年干支は、雄略の489、允恭の454、反正の437、と一定の信憑性があることが裏付けられる、ということ。考えたかったことは応神なのだが、とにかくこんなことを、声を出しながら思考し、頭の体操をしながら丹後へ向かいました。
【写真】会議の行われた会場から望む銚子山。伐採が進んで、側面がよく見える。
2024年3月15日 網野
◆で、まあ、溜まっていたものを片付けてすっきりした上で、本日、丹後にでかける。カミさんは筑波大学日帰り。互いに出張です。
◆車で行こうと思っていたが、昨日は鉄道にしようと思い、車中で読む論文を4つプリントした。が、朝調べると(前日に調べとけよ)、うまいぐあいのものが短時間でわからず、結局、車になる。朝、ガソリンを入れて、走行距離メーターをリセット、帰ってきたら、362キロでした。片道180キロあるんですね。2時間半から3時間というところ。
【写真】西都原の菜の花。
高輪築堤と旧門司駅の遺構
◆また高輪築堤の続きのところでも、いろいろ新たなことがわかってきているようです。
『歴史科学』最新号
◆いま16学協会では、ワーキングを作り、人によって異なる古墳名を、学会側として統一案を出そうとしているとのこと。やれることをやる、これを主導するTさん、頑張っています。
◆この論考で驚いたのは、イコモスの評価書には、祭祀が続けられていることも日本の文化として重要だ、といった書き方をしていたこと、これに対し日本側は、それは本質ではないと反論していた、ということ。知らずに恥ずかしい限りである。
2024年3月10日、富田林
◆尼崎に行こうかと思ったが、富田林にする(なかなか尼崎の博物館に行けませんね)。で、びっくり。大勢の観光客でごったがえしている。なにかフェアをやっていて、いろいろ回って回答して何か当たる、といったことのようだが(延長しますとの書き込みもあった)、各家の雛飾りとも重
◆きわめつけは酒蔵を改造した地ビールが飲める店。こんなん、なかったぞ。入口からは想像がつかなかったが、中に入ると酒蔵は広い。客も次から次へと覗いては入って行き、みなさん10種類くらいのなかからビールを頼み、適当なツマミを取って、ほんとに楽しくしゃべっている(わたしはノンアル)。こういうの必要ですよね。
◆驚きの富田林寺内町でした。
2024年3月8日、西都原の委員会 記事№6200
◆文化庁のふるさと歴史の広場事業が、平成元年スタートだったと記憶する。そのあと、より大型の事業メニューが用意されるのが1990年代半ば。その頃のイケイケ時代にわたしは役所に在籍していたわけだ。で、西都原は、大規模遺跡等総合整備事業、そのあとの地方拠点史跡等整備事業と、1995年からいまに続く整備事業がスタートする。
◆その採択にあたって作成した基本計画からだいぶ経過する。そこで、今日では、保存活用計画を作りましょうという指導を受けているようである。5か年計画Ⅴ期が今年度までで、来年度からの次の第Ⅵ期のなかで、保存活用計画(ホカツとよびならわされているようである。ホカツ・ホカツ・・・)を作るメニューを組み込む県の意向が示された。これについて主に議論する。話題に出たことは、まあもっともなところです。西都市は国府も国分寺・国分尼寺もかかえ、西都原古墳群の調査や整備は宮崎県がやっている。分担しながら、県と市がともに両者を一体としていかにこの地域の文化財のパワーを盛り立てていくか、同じ方向を向いて力をあわせる今後の体制をいかに作っていくかが課題であるということが確認された。
◆鬼の窟古墳の石室に入る。昼間は、13号墳の埋葬施設とともに、開錠され、石室内に入れるようになっていることはうれしい限りですね。ただし、石室のハラミも指摘され、モニタリング用の計測点マーカーが奥壁を中心に貼ってあった。
◆その採択にあたって作成した基本計画からだいぶ経過する。そこで、今日では、保存活用計画を作りましょうという指導を受けているようである。5か年計画Ⅴ期が今年度までで、来年度からの次の第Ⅵ期のなかで、保存活用計画(ホカツとよびならわされているようである。ホカツ・ホカツ・・・)を作るメニューを組み込む県の意向が示された。これについて主に議論する。話題に出たことは、まあもっともなところです。西都市は国府も国分寺・国分尼寺もかかえ、西都原古墳群の調査や整備は宮崎県がやっている。分担しながら、県と市がともに両者を一体としていかにこの地域の文化財のパワーを盛り立てていくか、同じ方向を向いて力をあわせる今後の体制をいかに作っていくかが課題であるということが確認された。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。