人を幸せにする人になろう

ことのついで

◆パワポを作り始める。で、こないだ欽明墓の原稿を書いていて、檜隈坂合陵が五条野丸山古墳と する根拠として、森浩一が既に言っているので強調しなかったが、兆域がある。
◆舒明以前は、延喜式にあるのは基本は王墓で(列の白いヤツ。灰色の網は明治以降。)、そうでないのはそれなりに理由があると考える必要がある。このへんはレッカキョウの例会でしゃべったが。例えばイワノヒメ。これは多分に光明立后と関係があるだろう。ほかに古墳時代の皇后稜なんて延喜式にはない。で、兆域のなかで、牧野の15町なんてのは特別であって馬見丘陵を大きく取り込んでいるのだろう。5世紀代の陵墓なんて、だいたい順当に墳丘・周濠がカバーできる大きさになっているでしょ。そのなかででかいのが、仁徳であり、履中であり、応神。だから、持統朝には、つまり記紀段階では、仁徳陵は大仙に、履中陵はミサンザイに、応神陵は誉田御廟山にあてている。いまの治定は持統朝にそう決めたことに正しくたどりついている。が、それは事実ではないわけです。持統朝にいじっているから。なんでそういえるかは白石先生が解説済みなので、もうええ。だから文字資料からは辿り着けないんですよ。考古学です。
◆で、坂合陵は4町四方でしょ。BIG3に次ぐ兆域。これ墳丘だけで330mある五条野丸山でしょうね。平田梅山ではない。
◆ついでに、そういう基本大王だけの国家的祭祀対象の陵墓になっているのが、厩戸、そして山背なんですよ。厩戸は大王格なのです。そして山背も大王格なんです。これが大兄というものです。山背の北岡墓。7世紀前半の方墳で、岩屋山式石室とみられるもの、平群郡内で、となると西宮しかないんとちゃいますか。河上さんの見方は当たってますよ。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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