人を幸せにする人になろう

今回の渋谷向山

◆再度です。渋谷向山古墳では過去17回、立ち会いも含めて調査されている。また過去に出土し  ている埴輪をひととおり見て、図を描き直し、こうした過去の調査区と出土埴輪を ぜんぶまとめたのは『玉1』の報告書なのです。
◆で今回の成果。下段裾を2箇所で確認、テラス面の埴輪列、そして最下段の葺石の残存が2箇所で確認したようであるが、最下段の裾は未確認。宮内庁の資料では最下段(第1段)の根石列を「検出した」とある。これをめぐって前半組と後半組で説明が食い違っていたらしい。第3トレンチの石列の評価は確かに理解の分かれ目でポイントになりうるだろう。最終判断はどうなるか。遺構的には、第4トレンチより、この第3トレンチの所見判断が重要ですね。
◆第8トレンチの赤土が遠目にもなんだろうと思った。地山かどうか。いずれにせよ、この位置は後円部の下段斜面ないし、陸橋移行部くらいになりそう。なんとなく、この堤は下段に取り付き、最下段は陸橋にぶつかって終わり、となっているのでは。ここより手前の前方部側は最下段に取り付く陸橋だが、後円部の背後近くにまわってきた第8トレンチのところでは、周囲からの掘削も深くなり、陸橋も高く、下段に取り付くものと復元できるのではないか。
◆とはえい、陸橋に関して確実なことを言える所見はえられなかったようだ。そのへんは、自分が土を見ていないのでなんとも。とにかく文久には水田だった周濠を掘削して水堀とし、その土で外側に土塁をめぐらし、陸橋も大きくかさ上げしているので、もともとの姿がイメージしにくい。この時期はまだ外堤は未整備なので、周濠の外の肩は掘り込んで終わりだったろう。だけど、陵山の事例からすると、いまより低い陸橋があったとして、外界との切断に、陸橋上に埴輪を配置していることも考えられる。
◆『玉1』の時に、周濠の外の等高線もなぞり、いまの高い土塁を取っ払ったイメージの等高線を描いた記憶がかすかにあるが、これも現地調査の上で精査し、文久前の姿がイメージできるものにする必要がある。ちょこっとやれば、やれそうではあるが。また次の機会に・・・、かな。
※渡り堤(土手)か陸橋か。ひとまずぜんぶ陸橋とよんだ方が、誤解がないように思う。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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