人を幸せにする人になろう

1/5里から1/4里へ

◆ひとおおり黒崎さんの本を読む。里というのは、いつ登場するんでしょうね。大宝1里は300歩533m、和同に639mとなる。黒崎さんは都市の里と農村の里、といった言葉にしているが、いちいちどっちの里かを言わなければならん。大宝令以前の里が、いくら歩を1里としていたかも不明ですよね。7世紀に1000歩といった大きな開発が始まり、なんとか里という言い方が必要になることはよく理解できる。律令の知識として「里」を知っていても、倭の国土開発がそう規模が大きくならなければ必要ないわけだ。大仙の墳丘が360歩というのも気になる数字ですね。もしかすると1里なのかもしれないが(1歩1.5mですが)。
◆結論は、推古朝にはない、7世紀第2四半期頃に(根拠は百済大寺、飛鳥京Ⅱ期など)高麗尺50歩を単位とする地割が始まり、第3四半期に(根拠は後岡本宮など)高麗尺62.5歩を単位とする地割に転換するのだという。飛鳥寺が起点で、その北・西に方格がのび、川原寺あたりに展開するのは第3四半期頃、だったかな。難波京は125歩、孝徳朝にさかのぼるとすると、62.5歩の市街地方格が始まっていた、ということになる。
◆なんとなくイメージとしては、条里地割の規模でもある50歩方眼が、飛鳥や斑鳩で始まり、孝徳期に本格的な京を構想するなかで、同時に圃場の区画整理計画も立案され、50歩は田地の区画とし、市街地は62.5歩とする区別が考えられた、のではないか。時期差ではあるが、役割分担でもあるか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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