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人を幸せにする人になろう

2月23日 岩屋山リーフを入稿する

◆2年前の研究費で、1基計測する予定だったところ、岩屋山についてはデータ提供をいただけることに なり、新規で文殊院西の計測とデータ加工、+岩屋山のデータ加工を実施し、このためリーフレット予算がなくなり、公表できてなかったもの。
◆文殊院が1尺長い・・・
◆文殊院は既に納品済みで、2月23日に岩屋山を入稿した。次は松岳山の測量概報告である。これも3月中には納品されるであろう。まだ入れてませんが。摩湯山の本報告も少し動いているが、溜まっている正式報告を加速させねばならない。それと、久津川の測量の残り、線路の東側を春にやってしまう予定だが、測量が完了したら、夏までに測量概報16頁ものを出す予定である。
◆この日、『市大日本史』の入稿作業にも着手する。
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2月22日 空調の工事のために部屋の荷物を移動する

◆3月にかけて文学部棟の空調機器を取り替える工事が、何期かに分けて実施中。部屋の吹き出し口 のある下部について、その範囲およびそれよりやや広い範囲にあるものをすべて片づけないといけない。このため、廊下に段ボールがならぶ風景となっている。
◆自分の部屋は、目隠し本棚もずいぶん前に撤去し、比較的すいているので、空調機のない窓側に寄せるのでなんとか済む。2月22日の午前、午後、病院に行く前にだいたいやりました。

2016年2月14日 近つ

◆午前、考古で近つの速報展に行く。ついでなので、代表的な横口式石槨として鉢伏山西峰・観音塚と、聖徳太子墓を見てから、館へ。
◆論文試問にむけて読んでないのを読まないといけないので、わたしはここまで。院生・学生らは奈良に向かう。

2016年2月12日 301部屋の整備など

◆考古の作業日。136/127の遺物、暗室の遺物などを、301に運び込み、展示ケースならびに研究資料棚に収め、あわせて報告書の整理もすこしやる。

21日の日曜日

◆招聘したお二方とも、やはり都城関係で何度も来られていて、奈良はまわっているので、堺市に 続き、大阪側の見学地をセットする。大阪歴博の方に車を出していただき、最初に藤井寺市のシュラホールに行き、古市古墳群を知ってもらい、そのあとは富田林の寺内町を案内する。ほんとはわたしの車だったはずなんですが、免停なもので・・・。和風の屋敷や民家をけっこう楽しんでいただけましたよ。そこでお昼もすませる。
◆午後は高槻市に行き、今城塚の資料館。館長さんにお願いしており、古墳現地から展示室まで、丁寧に案内いただきました。企画展の最終日でもあったようです。そのあと新池の窯跡にも行き、大阪に戻り少し時間もあったので、大阪城の石垣も見てもらいました。18 時から懇親会。
◆朱先生は日本語はまったく問題なく、梁さんはそうではないので、日本語、筆談、英語で、意思疎通を図ろうとするが、こっちの英語があきれるくらいお粗末で、ぜんぜん出てこないが、まあ仲良くなれるものである。

シンポ当日

◆あいにくの雨。やはりやや客足に影響したかも知れません。330席に対し、事前の申し込み、抽選 で、来ない人も2割程度はあるので、考慮の上で抽選したが満席にはならなかった。むろん寂しくはなく、多くの人に集まっていただきました。
◆みなさん、ものの見事にほぼプログラム通りの時間で進む。最後のディスカッションに臨むも、一定予想はされたが、メインの中国や韓国の報告に対する質疑でほぼ終わってしまい、日本側の共同研究メンバーもそれぞれ15分発表し、ディスカッションに登壇したが、座っているだけでした。
◆改進論で議論を闘わすには、大阪側の者は改新そして難波宮を大きく評価することでまとまってしまっているので、それほど大きく評価しない側の研究者と議論する、ということが必要ですね。
◆学情に場所を移して懇親会。お開き後、もう一軒、久しぶりに雪国に行く。

おふたかた

◆今回、中国から朱岩石先生と、韓国から梁正錫先生を招いた。朱先生の名前はどこかで知ってい るのだが、覚えておらず・・・。来日された18日の木曜日は大阪歴博の方がたに対応いただき、19日の金曜日はうちの大学側で対応することになっていた。朝、ゲストハウスに行くと、朱先生に「久しぶりです」と声をかけていただき、1993年に奈良の研究所で研修された時に、平城の考古第3が受け入れだったので、その時に顔をあわせていたのでした。すいません・・・。ひっかきまわすと、当時の名刺がでてくるかもしれません。考古研究所では、秦漢から明清までという途方もなく守備範囲の広い第3研究室(歴史時代)の主任になっておられる。
◆韓国の水原大学校の梁さんもまた、カシコーケンで4年いて、浄御原宮を掘っていたという。今回は新羅王京の話をしていただいた。水原城、いわゆる華城、むかし歩き回ったことがあるが、その後、イ・サンを見たが、この正祖が作った朝鮮時代の王城である。チェジウの話もする。ちなみに中国や韓国にパチンコはない。
◆で19日は、午前、堺市博物館にお世話いただき案内いただき、大学に戻り、副学長に挨拶をして、午後は打ち合わせと会場の下見(田中記念館ホール)、そのあと昭和町で懇親会。写真はその時のものです。

2月22日の月曜日

◆卒論試問と院入試の週を越え、20日の改新シンポも終わり、中国・韓国から招聘した研究者の方の21日(日)の案内も終え、ぐったりとしながらも、ここまでたどりついた。また終末に向けての準備と、久津川の測量調査ほかにむけての準備が始まる。大学入試があるが、今年は後期担当で25日は免除になった。
◆今日はしかし、病院に行き、それと大歴の委員会があって、これはこれでうまく立ち回らないといけない。が、ブログを書かないと一段落した気になれないもので。

網野銚子山の調査

◆はっきりしなかった前方部前端を確かめようと、コーナー部を中心に4本のトレンチが。前端ラインがほぼつかめてきた。周壕の外ラインはもっと明瞭。問題は前方部コーナーであるが、おそらくだいぶ削り込まれているんだろう。転落石は多くあるが、裾部がちゃんと残っていて、それを覆っている状況にはない。
◆来年度、もう1年掘って、基本設計に入る。墳丘部は必要に応じてまたやるとして(あまり掘る必要がない)、基本設計にむけて墳丘と壕の平面形がなお不明瞭なところを、来年度、いますこし掘るくらいでよい。島状遺構がありうるので、その有無は整備にもかかわるため、来年度、追及してほしい。新たな測量図も作成されつつある。
◆会議終了後、ホテルに送ってもらい、セットの風呂に入り、17:20で大阪に戻る。
◆さて今日は211集会で、2年ぶりに行くつもりだったが、仕事が山積、さてどうするか。

2月10日、網野銚子山委員会

◆10月9日に、確認調査中に第1回の会議が開催されたが、骨折直後で入院中につき行けず。今回は、発 掘調査の最終報告と次年度にむけての会議。前からカミさんがついてきて くれるということになっており、鉄道で行くか車で行くか、ということだったが、行き帰り読まないといけないものがあるので、鉄道にする。教育委員会は京丹後市でも旧大宮町にある。そこに昼ご飯+温泉のセットをやっているホテルがあり、カミさんは会議中、風呂。前日、卒論提出〆切で一段落したようである。
◆福知山→宮津→橋立まで行き、そこから丹後鉄道。これが赤松1号というやつ。なんじゃこれ?。あとで調べると1日2本、というか上り下り1本ずつで、ちょうどそれになったのである。特別内装の観光列車で、2両編成、普通(自由席)1両、特別車両の指定席車両1両。あいていたので、指定料金を払い、特別車両に乗り込む。おもわず地ビールを・・・、すいません。豊岡まで乗っていきたいが、 橋立、岩滝口、与謝野、そして丹後大宮。わずかでしたが楽しめました。
◆予約を入れていたので、ホテルの送迎バスが待っていてくれ、到着。昼を食べる。食後、シンポ資料のことで、印刷屋などとメール。そう携帯を落としたらしく・・・。そこから大宮庁舎まで25分かかって歩いてゆく。途中、10分ほど遅刻するかと思ったが、なんとか13:30にすべりこむ。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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