人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
ある原稿
◆白石の筆者への反論のもうひとつの柱は、被葬者論に寄りかかっているとの批判である。しかし、横穴式石室や須恵器について、白石をはじめとする考古学研究の成果をふまえており、本稿では不十分ながらも須恵器について多少言及する。ここでは、被葬者論についての考えを述べておく。
◆石室と須恵器の変遷観はおよそ共通理解にある。良好な資料が増えれば、石室型式と須恵器型式の厳密な対応関係が確立するだろうが、現状はまだそうなっていない。横穴式石室の暦年代は、現在、須恵器の年代観を前提とし、石室と須恵器の対応関係(現状は未確立)から導かれている。しかし、須恵器の推移の大局はわかるものの、例えば飛鳥Ⅰの古・中・新相といった編年は確立しておらず、暦年代を与える根拠も新相をのぞけばあまりない。横穴式石室の暦年代を須恵器に依拠するには、須恵器の年代基軸が未確立なのである。
◆そもそも、七世紀の考古資料の暦年代は、『日本書紀』から年代の判明する特定の遺跡にもとづいている。特定の遺跡を『日本書紀』に年代が記載されている宮殿や寺院あるいは個人墓にあて、暦年代の手がかりとする方法は、遺物である須恵器も遺構である石室も同じである。例えば、山田寺整地土の須恵器資料が六四一年以前となることと、石舞台古墳が蘇我馬子墓であると判断して、その石室を六二六年以前と考えることに、方法論として違いはない。違いは遺跡の種別にあるのではなく、ある遺跡を特定のものに比定する確度の差である。
◆石室の暦年代を須恵器の暦年代を介して決めなければならない理由はない。厩戸皇子の叡福寺古墳や蘇我馬子の石舞台古墳など、没年のわかる被葬者をあてうる古墳にもとづき石室の年代を考えることは、須恵器編年に暦年代を与える方法とまったく同じであり、須恵器の有無にかかわらず独立した方法である。むしろ、一括性や出土状況をふまえなければ年代基準となりにくい須恵器よりも、より直接的に年代を導くことができる。年代の基軸として未確立な未確立を介在させることで、石室の暦年代がいびつなものとなっているのである。
【改訂しました】
◆石室と須恵器の変遷観はおよそ共通理解にある。良好な資料が増えれば、石室型式と須恵器型式の厳密な対応関係が確立するだろうが、現状はまだそうなっていない。横穴式石室の暦年代は、現在、須恵器の年代観を前提とし、石室と須恵器の対応関係(現状は未確立)から導かれている。しかし、須恵器の推移の大局はわかるものの、例えば飛鳥Ⅰの古・中・新相といった編年は確立しておらず、暦年代を与える根拠も新相をのぞけばあまりない。横穴式石室の暦年代を須恵器に依拠するには、須恵器の年代基軸が未確立なのである。
◆そもそも、七世紀の考古資料の暦年代は、『日本書紀』から年代の判明する特定の遺跡にもとづいている。特定の遺跡を『日本書紀』に年代が記載されている宮殿や寺院あるいは個人墓にあて、暦年代の手がかりとする方法は、遺物である須恵器も遺構である石室も同じである。例えば、山田寺整地土の須恵器資料が六四一年以前となることと、石舞台古墳が蘇我馬子墓であると判断して、その石室を六二六年以前と考えることに、方法論として違いはない。違いは遺跡の種別にあるのではなく、ある遺跡を特定のものに比定する確度の差である。
◆石室の暦年代を須恵器の暦年代を介して決めなければならない理由はない。厩戸皇子の叡福寺古墳や蘇我馬子の石舞台古墳など、没年のわかる被葬者をあてうる古墳にもとづき石室の年代を考えることは、須恵器編年に暦年代を与える方法とまったく同じであり、須恵器の有無にかかわらず独立した方法である。むしろ、一括性や出土状況をふまえなければ年代基準となりにくい須恵器よりも、より直接的に年代を導くことができる。年代の基軸として未確立な未確立を介在させることで、石室の暦年代がいびつなものとなっているのである。
【改訂しました】
宮崎に来ています
◆毎年のことですが西都原の委員会が明日あり、今日の教授会後、宮崎に飛びました。朝から『市大日本史』の古代史のややこしい原稿をアルバイトに頼み、インデザインで編集してもらいました。その間、大歴の仕事をして、教授会後もやっていると、遅れそうになりましたが、空港リムジンが渋滞なくスムーズに伊丹まで行ってくれ、間に合いました。
◆大学を出てからは、義務の論文1本を書き始めました。大化の薄葬令の論文です。書きたい論文というのは尺度の論文で、7世紀の古墳については両者で住み分ける必要がある。両方を書き進めて、あまり重複しないようにしないといけない。電車・バス・飛行機のなかで、ある程度書き進めました。
◆いつもは夕方に入り懇親会があって、最後はうどんを食べて、となるのですが、いちばん遅い便のため、久しぶりに空港線の電車に乗り宮崎駅まで行き、ホテルに入りました。
◆大学を出てからは、義務の論文1本を書き始めました。大化の薄葬令の論文です。書きたい論文というのは尺度の論文で、7世紀の古墳については両者で住み分ける必要がある。両方を書き進めて、あまり重複しないようにしないといけない。電車・バス・飛行機のなかで、ある程度書き進めました。
◆いつもは夕方に入り懇親会があって、最後はうどんを食べて、となるのですが、いちばん遅い便のため、久しぶりに空港線の電車に乗り宮崎駅まで行き、ホテルに入りました。
日曜日は休む!
◆2016年からは日曜日は仕事をせず、あっちこっち行っていろんな世界を知ったり、家のことを
したりと、思ってはいるのですが、今日も朝から研究室で仕事をしております。市大日本史の原稿もボチボチ集まってきております。ほんとは自分の論文を書きたいのですが。論文2つと書評1本がありますが、論文のひとつは義務。もう一本がほんとうに今書きたいこと。1週間あれば書けると思いますが、そんなまとまった時間がないというのが、いまの大学研究者です。これは夜、シコシコとやるんですかね、1時間ももたないように思いますが。
◆そんなんで、堺の台場の話を聞きに行きたいものである。
【追記】あさからモロモロやっつけているが、既に18時過ぎ。なんにも、まとまった仕事はできていない。すべて細切れの雑用であります。
◆そんなんで、堺の台場の話を聞きに行きたいものである。
【追記】あさからモロモロやっつけているが、既に18時過ぎ。なんにも、まとまった仕事はできていない。すべて細切れの雑用であります。
小山田古墳
◆3月2日に新聞発表されました。ネットでだいたいのことはわかります。豊浦寺の瓦片が出土したのだという。年代を絞り込む情報もさらにえられたということのよう。そして70mにもおよぶ方形墳ということからも、既に以前から名前が挙がっていたように、舒明初葬墓か蘇我蝦夷墓か、ということになってきた。さながら、7世紀中頃の、もっといえば改新直前の、大王と蘇我大臣の力関係がどうであったか、ということに確かにつながる。蝦夷説でいけば、『日本書紀』に書かれた蘇我の振る舞いを裏付けることになり、乙巳の変も理解しやすくなる。
◆榛原石の問題もある。確かに段の塚との近さが感じられるのであろうが、蝦夷だって使おうとするだろうし使えるのであろうし、必ずしも決め手にはならないだろう。それよりは解体されていることをどう理解するか、であろう。猪熊さんがいってるように、天皇の改葬事例で、初葬の古墳はほとんどわかるはずもないが、植山古墳は推古初葬墓とみるのが有力で、これは石室や墳丘を取り壊してはいない。東石室の石棺も残っている(改葬先が磯長谷だからであって、比較的近い場所なら石材等の再利用もありうるのかもしれないが、事例が少なすぎて、まあわからん)。一般論的には、新たに作り、旧の方はそのままにする、という方が理解しやすいように思う。また、白石先生のコメントのように、あれだけの規模のものを作り上げながら、改葬する理由はなかなか見出しがたい。あれが舒明初葬墓だったなら、飛鳥の都市整備ということも指摘されてはいるが、確かによほどの理由がないと考えにくいこと。解体されている事実は蝦夷墓説に有利なように思う。とはいえ、舒明墓が移設されたのは事実で、その理由は引き続き考えないといけないし、「よほどの理由」があったことも、「ありえない」と棄却できるわけではない。
◆そして場所の問題ですね。これについては既に議論があるところで、舒明墓があそこにあることを「ありえない」ともいえないし、一方で蝦夷墓なら「なるほどね~」と納得できるように思うが、議論が深まっていくことをながめておこう。わたしは宮ヶ原古墳や菖蒲池古墳をあわせたあの地域と、もひとつ南の平田梅山古墳の東西方向の地域、この墓域の区分に説得力を感じているところです。とはいえ、さらに小山田古墳の調査も継続するようですし、大陵とした場合、小陵をどこに考えるか、という調査や研究が進むことを期待しよう。
◆で、なぜ現地公開をしないのか。養護学校内ということへの配慮なのかもしれないが、ほんとうにできないことなのだろうか。7世紀史にとってこれだけ重要な調査成果が、公開されないことが残念だし、なぜなんだという疑問がわく。
◆榛原石の問題もある。確かに段の塚との近さが感じられるのであろうが、蝦夷だって使おうとするだろうし使えるのであろうし、必ずしも決め手にはならないだろう。それよりは解体されていることをどう理解するか、であろう。猪熊さんがいってるように、天皇の改葬事例で、初葬の古墳はほとんどわかるはずもないが、植山古墳は推古初葬墓とみるのが有力で、これは石室や墳丘を取り壊してはいない。東石室の石棺も残っている(改葬先が磯長谷だからであって、比較的近い場所なら石材等の再利用もありうるのかもしれないが、事例が少なすぎて、まあわからん)。一般論的には、新たに作り、旧の方はそのままにする、という方が理解しやすいように思う。また、白石先生のコメントのように、あれだけの規模のものを作り上げながら、改葬する理由はなかなか見出しがたい。あれが舒明初葬墓だったなら、飛鳥の都市整備ということも指摘されてはいるが、確かによほどの理由がないと考えにくいこと。解体されている事実は蝦夷墓説に有利なように思う。とはいえ、舒明墓が移設されたのは事実で、その理由は引き続き考えないといけないし、「よほどの理由」があったことも、「ありえない」と棄却できるわけではない。
◆そして場所の問題ですね。これについては既に議論があるところで、舒明墓があそこにあることを「ありえない」ともいえないし、一方で蝦夷墓なら「なるほどね~」と納得できるように思うが、議論が深まっていくことをながめておこう。わたしは宮ヶ原古墳や菖蒲池古墳をあわせたあの地域と、もひとつ南の平田梅山古墳の東西方向の地域、この墓域の区分に説得力を感じているところです。とはいえ、さらに小山田古墳の調査も継続するようですし、大陵とした場合、小陵をどこに考えるか、という調査や研究が進むことを期待しよう。
◆で、なぜ現地公開をしないのか。養護学校内ということへの配慮なのかもしれないが、ほんとうにできないことなのだろうか。7世紀史にとってこれだけ重要な調査成果が、公開されないことが残念だし、なぜなんだという疑問がわく。
東京にいます
◆ところが、2日目の夜に電話が入り、急遽、東京に行くことになりました。3日目の予定を変更することになり、みなさんに迷惑をおかけしました。いますこし注記の残るものをアイリスインで継続してもらい、既に完了した箱を整理室に戻すのを午後にやって東京に向かうことにしていたが、昼飯の段階で早めてもらうことにし、13:30過ぎに近鉄で京都駅に向かいました。
◆さいわい、急遽入ったマターも解決し、4日、大阪に戻ってきました。
◆さいわい、急遽入ったマターも解決し、4日、大阪に戻ってきました。
明日3月1日から3日まで城陽で合宿
◆2015の埴輪整理。46箱分の注記です。一気にカタをつける時間も取れず、やはり3月になる。
1日は10名(泊9人)、2日は11名(泊7名)、3日は8名。わたしは2日の昼、大阪城の豊臣石垣の会議で一時抜ける。めでたく予定通り完了。台帳も一部追加補訂し、土器の分離は洗いの時にやったが、抽出できていなかった埴輪箱に残存していたものも分離した。注記しながら袋単位で接合して問題ないものは接合する。また特徴的なものでは、これは見た、というものは袋を越えて接合するものもあった。そして、洗いの時に基本的に地区別に箱を区分したが、再度、箱に収納している内容を確認しつつ、造り出し上面、墓坑上、東西南北の列、南斜面・西斜面・北斜面など、箱詰めをして表書きを明確にした。
◆アイリスインという宿泊施設。1日2日と夜の10時までやる!、と宣言していたが、21:45までほぼ予定通りやる。8:30~12:00、13:00~18:00、19:00~21:45、缶詰め状態でやりきりました。写真は2日目21:30の作業風景。
◆1例を挙げると、これこの個体の天側が手前の写真になってしまってますが、囲いの横トゲです。板状の破片と、
発掘時から注意してたトゲ破片が見事にくっついた。K君のひらめきでした。すごい!。横トゲ、本邦、2例目となりました。手前の板破片の縦線は、柵塀の板の継ぎ目表現です。かなり間隔があり、大ぶりなトゲになるはずですが、折れたトゲの破片は見当たりませんでした。あと、南斜面、すなわち造り出し南辺と前方部側面とのくびれ部に配置されていた?水鳥の破片が、ある程度識別できるようになり、ひとつの箱に集めておきました。
◆アイリスインという宿泊施設。1日2日と夜の10時までやる!、と宣言していたが、21:45までほぼ予定通りやる。8:30~12:00、13:00~18:00、19:00~21:45、缶詰め状態でやりきりました。写真は2日目21:30の作業風景。
◆1例を挙げると、これこの個体の天側が手前の写真になってしまってますが、囲いの横トゲです。板状の破片と、
2017年2月28日末日、今日もようやったで
◆27日の晩は完全な徹夜。何をしていたかというとほぼ朝6時頃まで大歴の仕事をしていました。委員会のあと、やっとかなという義務感に燃えてました。で、今日は3つあって、大学史運営委員会、第1回卒論演習、市大日本史学会の委員会。なんも準備しとらん。朝8:30に研究室に着き、まずは第1回卒論演習の準備をする。例年の「卒論とは」という説明資料を読みながら直した方がいいところを直しつつ、言葉で補うところを資料に書き込んでいく。だいたいできあがったところで、10:40から大学史運営委員会。つつがなく終了した後、ワーキングのメンバーは残るように言われ、展示室のワイヤーやら照明やら、結局、展示するのがこっちなものなので、事務局サイドがほぼほぼ考えてくれているが、最終的にはこれでよいかという確認。実際に展示室に行き、あ~だこ~だ、と。金があれば旧学長室を展示室に改装する、展示設計なども業者に投げて、というところだが、大学史の引っ越し関係の執行が先で、残額が確定した段階で、どこまでの工事や物品の購入するかを検討しているわけです。
◆まあ、手作り感がありますね。全面的にやる、という専門性があるわけでもなく、照明は何ルクスといわれてもわからん。が、しかし、そこはわからん者同志が、カタログを見つつ、必要最低限の整備を、できるだけ安価な形で実現させようというもの。
◆このくらいで。12:30くらいまでかかり、文学部に戻り、13時から第1回卒論演習で、「卒論とは」といった説明を教務担当なものでやる。それから現3回生(新4回生)の1人5分の構想発表5分の質疑でまわし17:30頃までかかる。そこから、明日から3日間の城陽での埴輪注記大会で使うものを車に積み込み、科研の出勤簿を出しに行き、市大日本史の資料を作って印刷して18:30に会議室に滑り込む。20:00、ああ終わった。
◆まあ、手作り感がありますね。全面的にやる、という専門性があるわけでもなく、照明は何ルクスといわれてもわからん。が、しかし、そこはわからん者同志が、カタログを見つつ、必要最低限の整備を、できるだけ安価な形で実現させようというもの。
◆このくらいで。12:30くらいまでかかり、文学部に戻り、13時から第1回卒論演習で、「卒論とは」といった説明を教務担当なものでやる。それから現3回生(新4回生)の1人5分の構想発表5分の質疑でまわし17:30頃までかかる。そこから、明日から3日間の城陽での埴輪注記大会で使うものを車に積み込み、科研の出勤簿を出しに行き、市大日本史の資料を作って印刷して18:30に会議室に滑り込む。20:00、ああ終わった。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。