人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
関東の開発
◆若狭さんの話を聞く。やはり5世紀後半に100m級の前方後円墳があっちこっちで造られることが注目できる。ほかでは允恭・雄略の時期には、基本的に前方後円墳を規制し、大型円墳が卓越する時期に、いよいよ前方後円墳が築造されていくのである。5世紀前半までのあり方は、畿内や周辺の状況ともとくに異なるものでなく、地域大首長連合体制的で、特定の首長系譜のみが大型古墳を築く。そのあとの話である。
◆やはりまだまだ未開地で、手を入れてやれば可耕地になるような場所が広がっている関東地方の各所で、開発が推し進められるイメージ。上野のあり方と、埼玉古墳群のあり方は、通底するのだろう。上野の5世紀後半の開発には、それぞれ渡来人がかかわっているという。これ、王権の意図があるんでしょうね。王権といっても複合体ではあるが、一定の総意はあるように思うし、これにかかわる特定中央豪族の目論見もあるのだろう。
◆そして、ある種の優遇政策を取りつつ、軍事力としての舎人の出仕などとの交換条件が考えられる。前方後円墳の築造というものの示すのが一定の地位でありステイタスとすると、太田天神山や白石稲荷山時代には彼らの覇権のうちにあった首長層が、王権と結びついて前方後円墳被葬者として位置づけられ、一定の奉仕義務を負うものの、支援をえて地域開発に向かうイメージということになろうか。そこに物部氏集団が関与しているとすれば、系列化による実利および影響力の扶植、王権内の地位上昇に結びつく。
◆在来の地元集団との関係が再編されたという面が基本であろうが、6世紀を含めて、そればかりでなく、けっこう遠隔地からを含めて人を動かし新たに入植させるような面もけっこうあるようにも予想するが・・・。
◆やはりまだまだ未開地で、手を入れてやれば可耕地になるような場所が広がっている関東地方の各所で、開発が推し進められるイメージ。上野のあり方と、埼玉古墳群のあり方は、通底するのだろう。上野の5世紀後半の開発には、それぞれ渡来人がかかわっているという。これ、王権の意図があるんでしょうね。王権といっても複合体ではあるが、一定の総意はあるように思うし、これにかかわる特定中央豪族の目論見もあるのだろう。
◆そして、ある種の優遇政策を取りつつ、軍事力としての舎人の出仕などとの交換条件が考えられる。前方後円墳の築造というものの示すのが一定の地位でありステイタスとすると、太田天神山や白石稲荷山時代には彼らの覇権のうちにあった首長層が、王権と結びついて前方後円墳被葬者として位置づけられ、一定の奉仕義務を負うものの、支援をえて地域開発に向かうイメージということになろうか。そこに物部氏集団が関与しているとすれば、系列化による実利および影響力の扶植、王権内の地位上昇に結びつく。
◆在来の地元集団との関係が再編されたという面が基本であろうが、6世紀を含めて、そればかりでなく、けっこう遠隔地からを含めて人を動かし新たに入植させるような面もけっこうあるようにも予想するが・・・。
中国皇帝陵のはなし
◆中国皇帝陵は生前造墓なのに、墳丘後行型という話が出た。そう言われると不思議である。生前造墓と言っても、地下の墓室や付属施設、陵苑の造営に大半を費やし、死んで埋葬したあとで、墳丘を構築するのであろうか。投入する人員の数の桁が違うし、膨大な人員を投入し、棒で突き固めれば問題はないのかもしれないが。しかし、後漢代には横穴式になるわけで、これだと問題はなくなり、おおよそ完成させておくことが可能となる。
生前造墓
◆吉井君の発表を聞いて、方形周溝墓以来の、倭韓の墳丘墓の展開を整理する必要があるんだろうと思う。日本の内部でも墳丘墓一色と考えることはできない。
◆墳丘後行型というのは、基本的に没後造墓だろうし、土饅頭くらいなもので、それも陥没すればわからなくなるような埋葬を繰り返す、そうした伝統の上に、しかしある時期以降、マウンドを構築することが後付で始まると、まあ考えられる。そこにはやはり外来の影響があるのだろう。そして、都出先生の王陵論はあてはまるのであって、ある時期に大きく造るという力学が働いていると理解することができる。ただし、墳丘後行型でそんな大きな墳丘はできない。
◆墳丘後行型というのは、基本的に没後造墓だろうし、土饅頭くらいなもので、それも陥没すればわからなくなるような埋葬を繰り返す、そうした伝統の上に、しかしある時期以降、マウンドを構築することが後付で始まると、まあ考えられる。そこにはやはり外来の影響があるのだろう。そして、都出先生の王陵論はあてはまるのであって、ある時期に大きく造るという力学が働いていると理解することができる。ただし、墳丘後行型でそんな大きな墳丘はできない。
歴博研究会
◆韓国のなんとか島の三角板短甲を出した古墳の発掘の報告を聞く。28mくらいの円墳で竪穴式石室。結論は倭人だろうということになった。石室から福岡平野東部出身の首長ではないか、とも。
◆多島海は危険な海域で難破が絶えないという。また半島西海岸では干満の差が8mもあるという(東シナ海はすごい)。こうした地域の島に倭人が一定の集団を引き連れ入り込んでいく。集落遺跡では子持ち勾玉など、倭人が同居しているとも考えられるが、墓域は別で、新たに調査された古墳は単独墳とのことである。その意図は、この多難な海域をつないで、伽耶地域から西海岸へと行き来するための海上交通上の停泊地であり必要なものの補給基地といったところか。
◆大枠では半島にかかわる倭人諸集団の総意があるのかもしれないし、実際に海上交通を担っている集団の自発的なものなのかもしれない。いずれにしても、倭人の渡海は弥生時代にさかのぼるとしても、そこで骨を埋め古墳を築いて葬られるという現象が生じるのは、いまのところ5世紀以降のようである。活動の活発化、あるいは情勢の流動化か。棲み分けた形ではあるものの、倭人がより入り込む形に進んだと言えるだろう。6世紀初頭の前方後円墳が話題性ゆえに注目されているが、顕著な一時的現象といえるが、それも5世紀以来の、こうした土着していく運動の延長にあると捉える必要がある。
◆多島海は危険な海域で難破が絶えないという。また半島西海岸では干満の差が8mもあるという(東シナ海はすごい)。こうした地域の島に倭人が一定の集団を引き連れ入り込んでいく。集落遺跡では子持ち勾玉など、倭人が同居しているとも考えられるが、墓域は別で、新たに調査された古墳は単独墳とのことである。その意図は、この多難な海域をつないで、伽耶地域から西海岸へと行き来するための海上交通上の停泊地であり必要なものの補給基地といったところか。
◆大枠では半島にかかわる倭人諸集団の総意があるのかもしれないし、実際に海上交通を担っている集団の自発的なものなのかもしれない。いずれにしても、倭人の渡海は弥生時代にさかのぼるとしても、そこで骨を埋め古墳を築いて葬られるという現象が生じるのは、いまのところ5世紀以降のようである。活動の活発化、あるいは情勢の流動化か。棲み分けた形ではあるものの、倭人がより入り込む形に進んだと言えるだろう。6世紀初頭の前方後円墳が話題性ゆえに注目されているが、顕著な一時的現象といえるが、それも5世紀以来の、こうした土着していく運動の延長にあると捉える必要がある。
喜界島と城久遺跡(42)喜界島ともお別れ
◆上の現場に行き、Nさんに挨拶をして現場を離れる。
◆帰りは鹿児島までと伊丹までともに窓際で、ブログ用の記事をかきながら窓の外を眺めている。鹿児島湾上空は曇っていたが、遠くに開聞岳が見えた。志布志湾も眼下に見える。16:55喜界空港発、鹿児島18:00、鹿
児島発18:00(プロペラ機)、伊丹20:20。リムジンバスに乗り、カミさんも同じ頃に千葉日帰り出張から戻るので、上本町で待ち合わせて帰る。
◆喜界島の旅が終わった。喜界空港で、おや何か足りないと思ったら、イオスキッスがないではないか、現場かセンターか、レンタカーか?。鹿児島空港ホテルでも2品くらい忘れてきたが、いやはや年をとると注意力がありませんね。カメラは(途中で撮れたり撮れなくなったりしてイクシーに切り替えたのだが)、翌日、現場で「発見」され、送ってくれたという。おみやげの小包は、火曜日の朝にホテルで出したのだが、無事、金曜日になったが到着した。
◆飛行機でも、もうちょっと安い行き方があっただろう。が、いずれにしても安くはない。学生をもし連れて行こうとすると、鹿児島までピーチで行って船なんでしょう。次、行くことがあるかどうか、先のことは不明だが、できれば行ってみたいものである(写真は鹿児島空港。鹿児島-伊丹ってプロペラ機なんだ・・・)。
◆帰りは鹿児島までと伊丹までともに窓際で、ブログ用の記事をかきながら窓の外を眺めている。鹿児島湾上空は曇っていたが、遠くに開聞岳が見えた。志布志湾も眼下に見える。16:55喜界空港発、鹿児島18:00、鹿
◆喜界島の旅が終わった。喜界空港で、おや何か足りないと思ったら、イオスキッスがないではないか、現場かセンターか、レンタカーか?。鹿児島空港ホテルでも2品くらい忘れてきたが、いやはや年をとると注意力がありませんね。カメラは(途中で撮れたり撮れなくなったりしてイクシーに切り替えたのだが)、翌日、現場で「発見」され、送ってくれたという。おみやげの小包は、火曜日の朝にホテルで出したのだが、無事、金曜日になったが到着した。
◆飛行機でも、もうちょっと安い行き方があっただろう。が、いずれにしても安くはない。学生をもし連れて行こうとすると、鹿児島までピーチで行って船なんでしょう。次、行くことがあるかどうか、先のことは不明だが、できれば行ってみたいものである(写真は鹿児島空港。鹿児島-伊丹ってプロペラ機なんだ・・・)。
喜界島と城久遺跡(41)発掘の流儀 記事№1900
◆現場というのは、それぞれ学んできた流儀があり、なかなかスタンダードはない。切り合った掘立柱建物の柱穴、その掘り
方は奈文研で確立されたものがあるが、そういう掘り方はしていないようだ。段下げして、切り合っていたら段地にして、そこで遺構写真を撮り、そこから半裁していくという手順ではどうもない。
◆あと、サングラスの話も出た。オレは現場でサングラスをかけるのは平気である。色もちゃんと見える。色合いの階調がずれるのではあっても、色の違いは捉えられる。むしろ、カンカン照りのなかで、白っぽいままよりは見やすいのでは。またオレの場合は眼球の色素が人より薄く、それで目が弱いということはないのだが、照り返しで目に無理をかけるよりサングラスで保護した方がいい。
◆あと、中判の写真は撮っていないようで、35ミリのフィルム写真のようである。いま発掘現場の写真記録の主流がどこにあるかは知らないが、うちの現場でいけば、ある時期から中判の公式写真以外の、発掘の進行にともなう日誌用やメモ用の35ミリ写真はデジカメに移行している。この先、中判さえもいずれデジカメになるのではないだろうか。
◆櫓はなく、広い範囲の撮影は排土の山から撮影しているとのこと。なかなか大変ではあろうが、図面とともに、いい写真も残していく必要があるだろう。完了時期に迫られ、掘り上げることが必要で、図面を取っていくことが優先で、個々の遺構あるいは周囲くらいの写真をその都度撮っていくというのが実態なのだろう。
◆あと、サングラスの話も出た。オレは現場でサングラスをかけるのは平気である。色もちゃんと見える。色合いの階調がずれるのではあっても、色の違いは捉えられる。むしろ、カンカン照りのなかで、白っぽいままよりは見やすいのでは。またオレの場合は眼球の色素が人より薄く、それで目が弱いということはないのだが、照り返しで目に無理をかけるよりサングラスで保護した方がいい。
◆あと、中判の写真は撮っていないようで、35ミリのフィルム写真のようである。いま発掘現場の写真記録の主流がどこにあるかは知らないが、うちの現場でいけば、ある時期から中判の公式写真以外の、発掘の進行にともなう日誌用やメモ用の35ミリ写真はデジカメに移行している。この先、中判さえもいずれデジカメになるのではないだろうか。
◆櫓はなく、広い範囲の撮影は排土の山から撮影しているとのこと。なかなか大変ではあろうが、図面とともに、いい写真も残していく必要があるだろう。完了時期に迫られ、掘り上げることが必要で、図面を取っていくことが優先で、個々の遺構あるいは周囲くらいの写真をその都度撮っていくというのが実態なのだろう。
喜界島と城久遺跡(40)久しぶりに土を削ったような・・・
◆お昼は滝川の埋文センターに戻る。空き小学校でスペースはたっぷりある。小学校の本とともに、報告書
が本棚に配架されている。弁当を注文してもらい、嘱託のみなさんと同じところで食べる。この部屋には城久遺跡の報告書が積まれており、けっこう刊行されていることを知る。13:30開始なので10分には出る。
◆まずは午後の点呼。照屋さんはいち早く100名の作業員さんの名前を覚えたという。たいしたものである。15時に現場を引き払うことにして、約1時間半ほど、現場でプラプラとさせてもらう。
◆最後のところでは、L字の溝を検出しており、削ってきれいに出ているのだが、放っておくとまた乾燥してしまう。末端のところの検出を照屋さんがやっていたので、ひととおり線を引いたらということで、線引きをする。現場でガリをもち土を削るのは久しぶり。「遺構検出こそ発掘の醍醐味や」といって線を引いてもらう。15時前には掘り始めたが、あの溝はどうなったろうか。そして囲むことになったのか、その内部は何なのか、興味は尽きない。
◆まずは午後の点呼。照屋さんはいち早く100名の作業員さんの名前を覚えたという。たいしたものである。15時に現場を引き払うことにして、約1時間半ほど、現場でプラプラとさせてもらう。
◆最後のところでは、L字の溝を検出しており、削ってきれいに出ているのだが、放っておくとまた乾燥してしまう。末端のところの検出を照屋さんがやっていたので、ひととおり線を引いたらということで、線引きをする。現場でガリをもち土を削るのは久しぶり。「遺構検出こそ発掘の醍醐味や」といって線を引いてもらう。15時前には掘り始めたが、あの溝はどうなったろうか。そして囲むことになったのか、その内部は何なのか、興味は尽きない。
喜界島と城久遺跡(39)4日目、いよいよ現場
◆翌日、いよいよ現場である。10:00頃でもと言っていたが、そこから30分の休憩に入るとのことなので、10:30でよかろう。お
みやげ物、夜光貝などを小包で送ることにし、ホテルから発送。自分の荷物を詰め(とはいえ、いつもの姿形でバックパック1ヶのみだが)、チェックアウト。
◆4日借りたレンタカーをはじめて運転する(3日間はすべて照屋さんの運転)。手久津久遺跡の現場は、いま高い側と低い側の大きく2カ所に分かれて進められている。上は城久遺跡の盛期をすぎた14~15世紀の時期。調査区は広大だが、動いているところでは土壙墓4基を掘っており、いずれも人骨が出つつある。Nさんに説明いただく。
◆歩いて下の現場に行くも、初日に両方とも来ているとはいえ行き着けず、うろうろして時間を要したがたどりつく。こっちは、兼久式土器の時代で、城久遺跡の前の時期である。土器片といろんな貝がぱらぱらと出ている。ついつい交易と考えてしまうが、普通に貝を食して残された食べ滓のようである。
◆4日借りたレンタカーをはじめて運転する(3日間はすべて照屋さんの運転)。手久津久遺跡の現場は、いま高い側と低い側の大きく2カ所に分かれて進められている。上は城久遺跡の盛期をすぎた14~15世紀の時期。調査区は広大だが、動いているところでは土壙墓4基を掘っており、いずれも人骨が出つつある。Nさんに説明いただく。
◆歩いて下の現場に行くも、初日に両方とも来ているとはいえ行き着けず、うろうろして時間を要したがたどりつく。こっちは、兼久式土器の時代で、城久遺跡の前の時期である。土器片といろんな貝がぱらぱらと出ている。ついつい交易と考えてしまうが、普通に貝を食して残された食べ滓のようである。
喜界島と城久遺跡(38)ハワイ海岸で泳ぐ
◆今日も浜辺で夕暮れを見ることにし、ハワイ海岸まで足をのばすことにした。先客がおり、浜辺に降りていくと、大人2人と子
供2人で、照屋さんの知っている子であった。作業員さんの孫で、前に遊びに行って一緒に遊んだことがあるのだとか。
◆海に入り、水中眼鏡で海の中を見る。照屋さんは泳げないというので浮き輪。珊瑚礁が閉じたような小さな浜で、外海に放り出される心配はない。水中眼鏡は途中でスーパーで探したが、子供用のセットしかなく、借り物1セットだけだった。
◆海に入ったので着替えをして、去年できたという小じゃれた店に行く。とても雰囲気よく、カウンターに座ったが、目の前で料理するのを見ているのも楽しい。写真を撮りたかったが控えたので画像はなし。
◆海に入り、水中眼鏡で海の中を見る。照屋さんは泳げないというので浮き輪。珊瑚礁が閉じたような小さな浜で、外海に放り出される心配はない。水中眼鏡は途中でスーパーで探したが、子供用のセットしかなく、借り物1セットだけだった。
◆海に入ったので着替えをして、去年できたという小じゃれた店に行く。とても雰囲気よく、カウンターに座ったが、目の前で料理するのを見ているのも楽しい。写真を撮りたかったが控えたので画像はなし。
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1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。