人を幸せにする人になろう

喜界島と城久遺跡(37)よしかわでおみやげを買う

◆けっこう買いましたよ。黒糖焼酎、胡麻と酢とドレッシング?のセット、ザラメ、塩、飴、黒糖・・・。で、照屋さんが夜光貝をくれるという。体験ダイビングの時に取ったものとい203fcc42.JPGう。それを食べたあと、貝殻をきれいにし(これがたいへんなんだという)飾ってあったものなのだろうが、それをくれるというので、頂戴しておく。
 

喜界島と城久遺跡(36)勝連家

◆そのあと勝連家に。なんでも勝連グスクの後継者争いをめぐって内輪もめがあり、どちらかが喜界島に縁があるようで逃げ1cec5267.JPGてきたのだったか。そのあと、琉球王の親征へと発展する。そういう話を聞いたが、で、行ったところの勝連家というのとの関係が不確か。しかし、照屋さんい言わせると、珊瑚の石灰岩を積んだ塀に開けられた門を入ったところに、目隠し状に塀を配置するあり方は、沖縄的という。
 

喜界島と城久遺跡(35)うどん屋さん

◆昨日立ち寄った店に、今日はお昼を食べに行く。海に出たことは昨日の記事で既に書いたので省略。a8a1ccc0.JPG
 

喜界島と城久遺跡(34)高千穂神社

◆町のなかにあるもっとも日本的なる神社、高千穂神社に立ち寄る。まあ明治以降の産物だわな。おみくじを引くと小吉だっb781846e.JPGた。「女難にとくに気をつけろ」、と。そうでっか、なんもないけど。
 

喜界島と城久遺跡(33)村田新八記念碑

◆西郷隆盛らとともに、島津久光に反抗し、村田新八はこの島に流される。その記念碑を鹿児島県知事が立てている。29df5c7b.JPG
◆村田新八については、すこし調べたが、西郷の懐刀みたいな存在のようである。政府の役人に156d3e63.JPGしてもらい岩倉遣欧使節に加わり、何年か海外で過ごし、最後は官を辞任して残るも帰国し、西郷は薩摩に帰っており、大久保が新たな官職を斡旋できないまま、村田も薩摩に戻り、そのまま西南戦争へと突入して死ぬ。若い留学生に比べると40前になっており、洋行帰りとはいえ特別な技術を身につけた訳でもなく、ただちに抜擢されるような存在ではなかったようだが、しかし戊辰戦争以来の活躍はみなに知られていたという。
◆薩摩時代の島の役所跡は「仮屋跡」という説明看板があるのみで、なにも残っていない。鹿児島県側には絵図などの資料もあるのだろう。いまの町割りにそれをたどることができるのかもしれない。武家?の屋敷に預けられていたのだったか、途中でよく知ったものが赴任し、不便はなかったようだ。1864年に西郷が許されたときに、村田も戻ることを許され、ただちに京にのぼるのだが、徳之島を出た西郷の船が喜界島に立ち寄り、一緒に戻ったという。
 

喜界島と城久遺跡(32)○○寺

◆浄土真宗の寺院が一カ所ある。喜界島には48カ所くらいの神社があるが、寺院は1カ所という。照屋さんは明治の神仏分離65af45ce.JPGや廃仏毀釈の影響を言っていた。
◆数の多い神社は、いったいそれぞれいつできたのだろう。薩摩時代なんだろうか。勝手な思いこみだが、村の祭祀場みたいなのは個々にあり、それらが明治以降に神社にさせられていったのではないのか。そして新たに勧請されたものもあるだろう。
◆お寺の境内地には、播磨から住職が派遣されてやってきて、この本願寺派の寺院を再興したみたいな説明があった(写真は撮らなかった)。
◆ところで喜界島の墓地ですが、写真は撮りませんでしたが、ふつうの日本的墓石(やっぱり花崗岩)が圧倒的ですが、なかに屋根形のものがある。きっとこれが古いんでしょう。砂岩製かなと思ったが、これは中国的なるものなんだろうと思う。風葬で再葬という風習もあったようであり、墓制についてはちゃんと調べる必要があります。
 

喜界島と城久遺跡(31)生和製糖工場

◆工場は日曜日で操業しておらず外から見る。この工場が昭和34年にできる。『町誌』によれば、1965年か、大和製糖工場を0fd4d565.JPG合併、またアウトプットが黒糖から分蜜糖と書いてある。このへんですね。喜界島で黒糖を作ら2d860588.JPGなくなるわけだ。
◆暑いので、ちょっと黒糖生産の勉強をしようかと、シリアスという喫茶店に入り、涼みつつ、すこし学習。
 

喜界島と城久遺跡(30)朝日酒造

◆3日目のスタート。まずは黒糖焼酎の朝日酒造から。ちょっと朝をゆっくりめにしようと9:30で約束する。まずは朝日酒造。見b15092f6.JPG学できるように書いてあるが、電話してもつながらないという。覗いてみると、どうぞどうぞと。
◆真夏はやはり醸造しないもので、切り替え時にあたっており、いま蒸留中のものを除き、もう完了した工程のところからタンク等の清掃に入っている。それでも、最初のところから、ひととおり、工程にしたがって説明していただく。照屋さんは醸造酒と蒸留酒のところからスタート。麹作りは米、そして黒糖を入れてアルコール発酵。蒸留タンクに移し、右側はぐつぐつ沸き立っており、左側のタンクには透明の黒糖焼酎が溜まっている。4種類から5種類くらいの焼酎を試飲する。
◆そして1年は寝かせるという。貯蔵所の建物は別のところに建っている。
◆そこでいろいろと聞かされたわけである。喜界島でサトウキビを作っても、いまやおみやげ用くらいしか黒糖が造られておらず、朝日焼酎の黒糖も沖縄産という。沖縄のサトウキビ農家には振興策としての補助金が出ているらしく、価格では勝負にならないという。どうしても安い黒糖を使うことになる。朝日酒造さんはそれはおかしいということで、喜界島産の黒糖にこだわりたいと、1銘柄だけだが、喜界島の黒糖を用いたものを作っている。それが「日の出ずる国の銘酒」というもの。1本おみやげで買って帰る。
 

喜界島と城久遺跡(29)喜界第一ホテル

◆2泊したホテル。朝食は2日とも鶏飯。ホテルはもう1箇所くらいか。あと民宿はいろいろある。あとダイバーのようだが、ウィーa7b02d50.JPGクリーマンションみたいなのがあり、けっこう入っていました。
◆喜界第一ホテルは、ネットが完備されているという風に出ていたように記憶するがLANはないし、ロビーとかにもパソコンはなかった。
 

喜界島と城久遺跡(28)呑み屋で

◆昼間、郡体でいっぱいで昼食を取れなかった店に行く。体育大会後に関係者が呑んでいるらしく、照屋さんが生涯学習課長f3a2f77b.JPGさんを見つけ、名刺を渡すと、一緒に呑んでいた教育長さんも来られ挨拶をする。
◆黒糖焼酎朝日を1本入れ、けっこう長い時間いた。
 

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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