人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
5月18日、市大日本史学会
◆栄原先生の講演を聞いた。正倉院文書とはいかなるものか、全体をまとめたらこういう内容ということを示された。これ図
化すべきですね。裏表はあれ、要するに写経所としての文書があり、そこには反故紙として再利用されたものがあり、それがどういうグルーピングができるのか。全体の脈絡を明らかにするという話。
◆大会そのものの参加者も多く、また懇親会も盛り上がった。N林さんにブログを見ていますと言われ、びっくり。6月あたまのレキハクの研究会の準備をボチボチしているが、そこではひととおりの古墳時代の王権論をやり、一方で、実際に突っ込むところを考えていて、佐紀東群と馬見丘陵をはじめとする奈良盆地西部の古墳の評価のことを、最終報告書ではやろうかと考えている。
◆懇親会の最後でなんかしゃべれと言われ、和泉市の調査の話、博物館課程の話、大学統合の話、そして市大日本史学会の話をした。人は入れ替わってはいくが、若い人が加わり継承されていく世界がここにはある。なんでもそう、家もそうだし、こういう研究組織でも、年寄りばかりで先細りというのでなく、重なりをもちつつ継承されていくのが、あたりまえながら健全な姿
といえる。
◆昨日、船王後首の墓誌のことを書いていて(松岳山の測量報告をまとめている)、新任の磐下さんに闕字というのを教えてもらった。668年の埋葬の墓誌がなんで8世紀に下るのか、その説明は難しかろう。偽物説もあるのかもしれないが、7世紀第3四半期の墓誌として理解していいのではないだろうか。そんなことをグダグダ考えるのは、古墳の測量報告としてはふさわしくないのかもしれないが、そこは市大日本史にいる人間としては、高尚な判断はできないながら、どう理解されているのか、自分なりに理解した上で書きたいと思う。
◆大会そのものの参加者も多く、また懇親会も盛り上がった。N林さんにブログを見ていますと言われ、びっくり。6月あたまのレキハクの研究会の準備をボチボチしているが、そこではひととおりの古墳時代の王権論をやり、一方で、実際に突っ込むところを考えていて、佐紀東群と馬見丘陵をはじめとする奈良盆地西部の古墳の評価のことを、最終報告書ではやろうかと考えている。
◆懇親会の最後でなんかしゃべれと言われ、和泉市の調査の話、博物館課程の話、大学統合の話、そして市大日本史学会の話をした。人は入れ替わってはいくが、若い人が加わり継承されていく世界がここにはある。なんでもそう、家もそうだし、こういう研究組織でも、年寄りばかりで先細りというのでなく、重なりをもちつつ継承されていくのが、あたりまえながら健全な姿
◆昨日、船王後首の墓誌のことを書いていて(松岳山の測量報告をまとめている)、新任の磐下さんに闕字というのを教えてもらった。668年の埋葬の墓誌がなんで8世紀に下るのか、その説明は難しかろう。偽物説もあるのかもしれないが、7世紀第3四半期の墓誌として理解していいのではないだろうか。そんなことをグダグダ考えるのは、古墳の測量報告としてはふさわしくないのかもしれないが、そこは市大日本史にいる人間としては、高尚な判断はできないながら、どう理解されているのか、自分なりに理解した上で書きたいと思う。
見せる工事現場
◆昨日の新聞記事です。姫路城はわかりますが、国交省も工事現場のリストを公開し見頃の時期に10人以上で受け付けて工
事現場を見せるのだという。現場の安全管理も行き届いていることでもある。
◆この記事を見て、またまた考古学研究会大会で、東大の構内調査の現場で、遮蔽してしまうのでなく、透明にした一画を作り、外から内部が見えるようにしたという話を思い出した。発掘調査でも、現場を説明会だけでなく公開することも準備すればできるだろうし、それ以前に東大のように、なかに入れずとも外から見える世界にするのも重要だと思った。興味ある人は立ち止まりのぞき込むだろうし、だんだんに掘削が進行し遺構が見えてきたり、土器を掘っている姿もわかり、調査のプロセスなども理解されるであろう。問題は遺物の盗難だが・・・。
◆この記事を見て、またまた考古学研究会大会で、東大の構内調査の現場で、遮蔽してしまうのでなく、透明にした一画を作り、外から内部が見えるようにしたという話を思い出した。発掘調査でも、現場を説明会だけでなく公開することも準備すればできるだろうし、それ以前に東大のように、なかに入れずとも外から見える世界にするのも重要だと思った。興味ある人は立ち止まりのぞき込むだろうし、だんだんに掘削が進行し遺構が見えてきたり、土器を掘っている姿もわかり、調査のプロセスなども理解されるであろう。問題は遺物の盗難だが・・・。
牽牛子塚古墳について書いたもの
◆前にだいたいの考えは書いた。これが原稿になったので掲げておく。
658年に天智の子である孫の建王が八歳で没し今来谷に葬られ、斉明は自分の死後、必ず合葬するように指示したという。斉明は661年7月に筑紫で没するが、その後、しばらく埋葬の記事はない。665年に間人皇女が没し、667年2月の記事で両者が小市岡上陵に「合葬」されたことが記され、この時、小市岡上陵の前に大田皇女を葬ったという。そして30年後の699年10月に天智陵とともに越智山陵の修造が命じられる。
2010年に牽牛子塚古墳およびその東南で新たに発見された越塚御門古墳が調査され、牽牛子塚古墳が斉明陵であり、また越塚御門古墳が大田皇女の墓であることが確定した。
また西光慎治は、敏達未完陵である平田梅山古墳、その東の吉備姫王墓であるカナヅカ古墳に続く、二つの石槨を内蔵する「鬼の俎・雪隠古墳」(明日香村、長辺40m)を、斉明と建王の合葬墓とみる。そうすると、665年の間人皇女の死没にともない、天智が新たに牽牛子塚古墳を造営し移葬したところ、667年に大田皇女が没し、隣接して越塚御門古墳に葬ったということになる。
以上が妥当とすれば、花崗岩の底石と蓋石の組み合わせによる鬼の俎・雪隠タイプの横口式石槨は、650年代末から660年代に位置づけられる。そして、それと重なる660年代半ばに、凝灰岩刳り抜き式の石槨が導入されたことがわかる。
これに対し、白石太一郎は、牽牛子塚古墳の石槨が7世紀末から8世紀初頭のものとみて、岩屋山古墳が斉明陵で、その前面に大田墓も造営されたが、699年に場所を移して新造したものが牽牛子塚古墳と越塚御門古墳と主張する。
問題は牽牛子塚古墳の石槨の年代である。牽牛子塚古墳では、羨道や明確な墓道は検出されていないが、塚御門古墳では墓道がある。688年に天武を埋葬した檜隈大内陵である野口王墓古墳では、約3.5mの前室があり、その前面に「石橋」があり、墳丘側面に入口を開いていた可能性がある。キトラ古墳のような石槨のみで、それを墳丘に埋め込む形態は確かに8世紀に下る。牽牛子塚古墳の前面については、構築過程はなお明確ではなく、現状は8世紀末にふさわしいとみることもできるが、隣接する塚御門古墳の墓道の存在と矛盾する。修築を考える余地があろう。
鬼の俎・雪隠タイプでは蓋石は花崗岩を刳り抜くものであるが、益田岩船のように花崗岩を完全に刳り抜くことが試みられるが、刳り抜きの容易な凝灰岩の導入へと進んだと考えられる(西光慎治)。また凝灰岩によるものは、刳り抜き式から、接合部の合い欠きなどの加工を施した精緻な切石の組み合わせ式に進むと考えてよいだろう。そして切石組み合わせ式のなかでは、完全に導入部をなくし石槨のみを墳丘に埋め込む方式へ最終的に推移する。以上のような変遷観からすると、牽牛子塚古墳の凝灰岩刳り抜き石槨は、花崗岩による鬼の俎・雪隠タイプと、凝灰岩でも切石組み合わせ式の野口王墓古墳の間にやはり位置づけられるのではないだろうか。
牽牛子塚古墳は、665年の間人没後に、凝灰岩を導入することとし、完全刳り抜き式として築造されたものと考えておきたい。
658年に天智の子である孫の建王が八歳で没し今来谷に葬られ、斉明は自分の死後、必ず合葬するように指示したという。斉明は661年7月に筑紫で没するが、その後、しばらく埋葬の記事はない。665年に間人皇女が没し、667年2月の記事で両者が小市岡上陵に「合葬」されたことが記され、この時、小市岡上陵の前に大田皇女を葬ったという。そして30年後の699年10月に天智陵とともに越智山陵の修造が命じられる。
2010年に牽牛子塚古墳およびその東南で新たに発見された越塚御門古墳が調査され、牽牛子塚古墳が斉明陵であり、また越塚御門古墳が大田皇女の墓であることが確定した。
また西光慎治は、敏達未完陵である平田梅山古墳、その東の吉備姫王墓であるカナヅカ古墳に続く、二つの石槨を内蔵する「鬼の俎・雪隠古墳」(明日香村、長辺40m)を、斉明と建王の合葬墓とみる。そうすると、665年の間人皇女の死没にともない、天智が新たに牽牛子塚古墳を造営し移葬したところ、667年に大田皇女が没し、隣接して越塚御門古墳に葬ったということになる。
以上が妥当とすれば、花崗岩の底石と蓋石の組み合わせによる鬼の俎・雪隠タイプの横口式石槨は、650年代末から660年代に位置づけられる。そして、それと重なる660年代半ばに、凝灰岩刳り抜き式の石槨が導入されたことがわかる。
これに対し、白石太一郎は、牽牛子塚古墳の石槨が7世紀末から8世紀初頭のものとみて、岩屋山古墳が斉明陵で、その前面に大田墓も造営されたが、699年に場所を移して新造したものが牽牛子塚古墳と越塚御門古墳と主張する。
問題は牽牛子塚古墳の石槨の年代である。牽牛子塚古墳では、羨道や明確な墓道は検出されていないが、塚御門古墳では墓道がある。688年に天武を埋葬した檜隈大内陵である野口王墓古墳では、約3.5mの前室があり、その前面に「石橋」があり、墳丘側面に入口を開いていた可能性がある。キトラ古墳のような石槨のみで、それを墳丘に埋め込む形態は確かに8世紀に下る。牽牛子塚古墳の前面については、構築過程はなお明確ではなく、現状は8世紀末にふさわしいとみることもできるが、隣接する塚御門古墳の墓道の存在と矛盾する。修築を考える余地があろう。
鬼の俎・雪隠タイプでは蓋石は花崗岩を刳り抜くものであるが、益田岩船のように花崗岩を完全に刳り抜くことが試みられるが、刳り抜きの容易な凝灰岩の導入へと進んだと考えられる(西光慎治)。また凝灰岩によるものは、刳り抜き式から、接合部の合い欠きなどの加工を施した精緻な切石の組み合わせ式に進むと考えてよいだろう。そして切石組み合わせ式のなかでは、完全に導入部をなくし石槨のみを墳丘に埋め込む方式へ最終的に推移する。以上のような変遷観からすると、牽牛子塚古墳の凝灰岩刳り抜き石槨は、花崗岩による鬼の俎・雪隠タイプと、凝灰岩でも切石組み合わせ式の野口王墓古墳の間にやはり位置づけられるのではないだろうか。
牽牛子塚古墳は、665年の間人没後に、凝灰岩を導入することとし、完全刳り抜き式として築造されたものと考えておきたい。
近つの図録に書いたものから抜粋
(2)松岳山古墳の年代
松岳山古墳では特異な鰭付楕円筒埴輪が知られるが、副葬品から前5期と位置づけられる紫金山古墳でも確認され、両者は同時期のものと位置づけられる。これは典型的な鰭付円筒埴輪が成立する佐紀陵山古墳を標式とする前6期(埴輪Ⅱ期1段階)の前となる。以前に、蓋形埴輪や盾形埴輪といった器財埴輪の成立を陵山古墳造営に求め、櫛山古墳を同時期とみたが、楕円筒埴輪を多用する櫛山古墳を、鐘方正樹の指摘の通りⅠ期末にさかのぼらせることが適当かもしれない〔鐘方03〕。そうすると蓋形埴輪や盾形埴輪といった器財埴輪の出現は陵山古墳に先立つことになる。松岳山古墳では、蓋形埴輪の立ち飾りのほか草摺形埴輪らしい破片が出土しているが、これらは櫛山古墳例とともに最古の器財埴輪となりうる。もっとも、櫛山古墳と佐紀陵山古墳の器財埴輪は同巧であり、陵山古墳も器財埴輪の出現期に相当し年代が近接することを示し、そのなかで陵山古墳がやや後出する程度であろう。そして、定型化した鰭付円筒埴輪と器財埴輪からなる大和北部様式の埴輪が、陵山古墳を起点として普及するとの見方は改める必要はなく、陵山古墳を前6期の最古相ととらえておく。副葬品と埴輪の時期区分が一致するわけでないが、右記してきた相対順の理解はおおむね了解されるであろう。
ただし、安村俊史は、松岳山古墳を7号墳よりやや古い4世紀前半に置く(図3)。紫金山古墳の年代観も念頭にあると思われるが、1号墳との共通性、すなわち板石垂直積みの土壇や楕円筒埴輪の共通性を重視することによる。つまり松岳山古墳の年代観には、1号墳を古く位置づけることも影響しているのである。筆者は、松岳山古墳の器財埴輪を重視しており、佐紀陵山古墳からそれほどさかのぼらせることはできないと考える。1号墳と松岳山古墳の白色円礫の使用も含めた共通性は、7号墳に後続する時期の両者の近接性を示すとみている。埋葬施設を墳頂上の方形壇内に設置する方式が、1号墳・松岳山古墳そして佐紀陵山古墳で共通することも重要である。オオヤマト古墳群のなかで出現する鰭付円筒埴輪が玉手山古墳群にはなく、この地域で確認できるのが松岳山古墳前方部前面の茶臼塚古墳であることも、松岳山古墳を中心とする一帯の古墳の後出性を示すだろう。
この問題は佐紀政権の理解にかかわる。オオヤマト古墳群段階の纒向遺跡に代わり佐紀遺跡が王権本拠となるのは、318年の崇神没後のことで、これを筆者は「佐紀遷都」と呼んでいる。4世紀第2四半期には佐紀が本拠となっており、中国の混乱や金官国成立にともなう対応と推測している。佐紀陵山古墳の登場およびこれにともなう五色塚古墳や網野銚子山古墳、また和泉地域における古墳の出現に、水陸の重要な交通路の把握がうかがえるが、こうした政策は、これに先立つ4世紀第2四半期に動き出すとみている。大和川に面する松岳山古墳のみならず、紫金山古墳の被葬者もまた、弁天山古墳群などの高槻市域のオオヤマト古墳群に対応した有力古墳に代わり、のちの西国街道にあたる三島と豊島をつなぐ重要な交通路を押さえるために起用された考えられる。
以下の記述のため、4世紀第2四半期を佐紀初頭(前期5)、中頃から第3四半期を佐紀前半期(前期6)、4世紀後半を佐紀後半期(前期7)とする。
佐紀初頭とする4世紀第2四半期は、オオヤマト段階の様相と佐紀段階の様相の混在期ともいえる。佐紀陵山型前方後円墳の共有と大和北部様式の埴輪は連動し、東は上野の高崎市域、西は北部九州におよぶが、こうした佐紀前半期以降の拡大期の前に、佐紀政権下の新しい動きは畿内のなかで動き始める。紫金山古墳はその典型であり、そこに見られる伽耶系器物の存在は、畿内の倭人が4世紀前半には半島に渡るようになったことを示し、沖の島祭祀もこの時期にさかのぼると考えている。
◆以上、ばらばらに部分を抜粋したが、要するに埴輪でいうⅠ5とⅡ1・Ⅱ2を佐紀段階とし、「初頭」「前半」「後半」とした。4世紀第2四半期の準備を経て、陵山以降、佐紀政権諸政策が顕著に進行する、という理解である。
松岳山古墳では特異な鰭付楕円筒埴輪が知られるが、副葬品から前5期と位置づけられる紫金山古墳でも確認され、両者は同時期のものと位置づけられる。これは典型的な鰭付円筒埴輪が成立する佐紀陵山古墳を標式とする前6期(埴輪Ⅱ期1段階)の前となる。以前に、蓋形埴輪や盾形埴輪といった器財埴輪の成立を陵山古墳造営に求め、櫛山古墳を同時期とみたが、楕円筒埴輪を多用する櫛山古墳を、鐘方正樹の指摘の通りⅠ期末にさかのぼらせることが適当かもしれない〔鐘方03〕。そうすると蓋形埴輪や盾形埴輪といった器財埴輪の出現は陵山古墳に先立つことになる。松岳山古墳では、蓋形埴輪の立ち飾りのほか草摺形埴輪らしい破片が出土しているが、これらは櫛山古墳例とともに最古の器財埴輪となりうる。もっとも、櫛山古墳と佐紀陵山古墳の器財埴輪は同巧であり、陵山古墳も器財埴輪の出現期に相当し年代が近接することを示し、そのなかで陵山古墳がやや後出する程度であろう。そして、定型化した鰭付円筒埴輪と器財埴輪からなる大和北部様式の埴輪が、陵山古墳を起点として普及するとの見方は改める必要はなく、陵山古墳を前6期の最古相ととらえておく。副葬品と埴輪の時期区分が一致するわけでないが、右記してきた相対順の理解はおおむね了解されるであろう。
ただし、安村俊史は、松岳山古墳を7号墳よりやや古い4世紀前半に置く(図3)。紫金山古墳の年代観も念頭にあると思われるが、1号墳との共通性、すなわち板石垂直積みの土壇や楕円筒埴輪の共通性を重視することによる。つまり松岳山古墳の年代観には、1号墳を古く位置づけることも影響しているのである。筆者は、松岳山古墳の器財埴輪を重視しており、佐紀陵山古墳からそれほどさかのぼらせることはできないと考える。1号墳と松岳山古墳の白色円礫の使用も含めた共通性は、7号墳に後続する時期の両者の近接性を示すとみている。埋葬施設を墳頂上の方形壇内に設置する方式が、1号墳・松岳山古墳そして佐紀陵山古墳で共通することも重要である。オオヤマト古墳群のなかで出現する鰭付円筒埴輪が玉手山古墳群にはなく、この地域で確認できるのが松岳山古墳前方部前面の茶臼塚古墳であることも、松岳山古墳を中心とする一帯の古墳の後出性を示すだろう。
この問題は佐紀政権の理解にかかわる。オオヤマト古墳群段階の纒向遺跡に代わり佐紀遺跡が王権本拠となるのは、318年の崇神没後のことで、これを筆者は「佐紀遷都」と呼んでいる。4世紀第2四半期には佐紀が本拠となっており、中国の混乱や金官国成立にともなう対応と推測している。佐紀陵山古墳の登場およびこれにともなう五色塚古墳や網野銚子山古墳、また和泉地域における古墳の出現に、水陸の重要な交通路の把握がうかがえるが、こうした政策は、これに先立つ4世紀第2四半期に動き出すとみている。大和川に面する松岳山古墳のみならず、紫金山古墳の被葬者もまた、弁天山古墳群などの高槻市域のオオヤマト古墳群に対応した有力古墳に代わり、のちの西国街道にあたる三島と豊島をつなぐ重要な交通路を押さえるために起用された考えられる。
以下の記述のため、4世紀第2四半期を佐紀初頭(前期5)、中頃から第3四半期を佐紀前半期(前期6)、4世紀後半を佐紀後半期(前期7)とする。
佐紀初頭とする4世紀第2四半期は、オオヤマト段階の様相と佐紀段階の様相の混在期ともいえる。佐紀陵山型前方後円墳の共有と大和北部様式の埴輪は連動し、東は上野の高崎市域、西は北部九州におよぶが、こうした佐紀前半期以降の拡大期の前に、佐紀政権下の新しい動きは畿内のなかで動き始める。紫金山古墳はその典型であり、そこに見られる伽耶系器物の存在は、畿内の倭人が4世紀前半には半島に渡るようになったことを示し、沖の島祭祀もこの時期にさかのぼると考えている。
◆以上、ばらばらに部分を抜粋したが、要するに埴輪でいうⅠ5とⅡ1・Ⅱ2を佐紀段階とし、「初頭」「前半」「後半」とした。4世紀第2四半期の準備を経て、陵山以降、佐紀政権諸政策が顕著に進行する、という理解である。
フォッサマグナ
◆カミサンが糸魚川に行くというので、来るかと言われたが、そうはいかない。でフォッサマグナとは何か、ちゃんと知らない。そ
して中央構造線との関係はどうなっているのか。ちょこっと調べた。中央構造線の延長は、茨城県
までのびているんですね(渥美半島と同様に、御前崎のところもそうかと思っていたが、それは違うらしい)。図を見る限り、中央構造線が先で、そのあと、フォッサマグナが形成されたと考えられる。
◆ナウマン?が、窪んでいると言ったそうな。むろん地形ではなく、地質的に両側に比べて新しいもんだということなのだが、よくまあ、そんなことがわかるもんだ。
◆しかしフォッサマグナ、なんでそんなもんができているのか、ウィキを読んでもようわからんかった。プレートの境界みたいだが。この図を見る限り、中央構造線が南から押された、のでしょうね。
◆ナウマン?が、窪んでいると言ったそうな。むろん地形ではなく、地質的に両側に比べて新しいもんだということなのだが、よくまあ、そんなことがわかるもんだ。
◆しかしフォッサマグナ、なんでそんなもんができているのか、ウィキを読んでもようわからんかった。プレートの境界みたいだが。この図を見る限り、中央構造線が南から押された、のでしょうね。
岩倉の報告書の下図
◆こないだから、少しづつ引っ越しを見越した片付けをやっている。古いクリアファイルが出てきて開くと、『岩倉』の下図だった。
トレースしたものそのものは、クラブボックスなんだろうか(ハブ池の折り込みの測量図のトレースだけは
はさまっていた)。
◆瓦の図を2枚出しているが、オレとしては、測量図の下図が感動的で、仕上がりの2倍大に原図をトレペに縮小コピーし、それを方眼紙に貼り付け、用意したものがごっそり出てきたことに感動したわけである。ちょっともったいないので、思い出深いものをスキャンした上で、ぜんぶ捨てました。それはそれですっきりした。
◆いまやイラレ。土器の図や瓦なども、昔はみな方眼紙に割り付けて製図したものだ。
◆とにかく、大学に入って、こういう図面作り、本作りの基本を教えてもらったのが五十川さんでした。大学1年生にとっては衝撃的だった。むかし、本多勝一が、大きい原図を縮小してマンガが印刷されていることを知らず、実大で書いていた、みたいなことをどこかで記していた。とにかく、『トレンチ』という会誌を作るのに、地図や遺構の図面、遺物の図面というものをどのように、割り付け、そして原図を作っていくのか、ということを一から教えてもらったわけである。割り付け用紙、というのがあるのだ。ワープロなどない時代のことである。
◆瓦の図を2枚出しているが、オレとしては、測量図の下図が感動的で、仕上がりの2倍大に原図をトレペに縮小コピーし、それを方眼紙に貼り付け、用意したものがごっそり出てきたことに感動したわけである。ちょっともったいないので、思い出深いものをスキャンした上で、ぜんぶ捨てました。それはそれですっきりした。
◆いまやイラレ。土器の図や瓦なども、昔はみな方眼紙に割り付けて製図したものだ。
◆とにかく、大学に入って、こういう図面作り、本作りの基本を教えてもらったのが五十川さんでした。大学1年生にとっては衝撃的だった。むかし、本多勝一が、大きい原図を縮小してマンガが印刷されていることを知らず、実大で書いていた、みたいなことをどこかで記していた。とにかく、『トレンチ』という会誌を作るのに、地図や遺構の図面、遺物の図面というものをどのように、割り付け、そして原図を作っていくのか、ということを一から教えてもらったわけである。割り付け用紙、というのがあるのだ。ワープロなどない時代のことである。
宮本順三
◆さきの、グリコのおまけを作っていたのが宮本順三。その子供さんもテレビに出てきて語っていた。そして宮本のコレク
ションを展示している施設を運営している。場所は字幕で出たんだろうが、見逃していて、その風景を見たとき、これは大阪や、どこやろ、なんとなく布施あたりちゃうか、と思った。調べてみると、「宮本順三記念館 豆玩舎(おまけや)ズンゾ」というものらしい。場所は、東大阪市下小阪5-1-21の山三エイトビル3階という。
◆以下WEB
当館は、洋画家でグリコのおもちゃデザイナーとして活躍したZUNZOこと宮本順三(1915-2004)が幼年期から生涯に渡り蒐集した日本各地の郷土玩具や世界の人形玩具・仮面などの民族文化コレクションと作品(絵画・おもちゃ)を保存し一般公開する私設展示館です。1998年、順三・賀子夫妻により設立。全国のファンに支えられ開館15年を迎えました。各地の素晴らしい芸術文化と、小さなおもちゃの夢の世界を楽しみください。
◆グリコのおまけそのものは江崎グリコの博物館がある。
◆以下WEB
当館は、洋画家でグリコのおもちゃデザイナーとして活躍したZUNZOこと宮本順三(1915-2004)が幼年期から生涯に渡り蒐集した日本各地の郷土玩具や世界の人形玩具・仮面などの民族文化コレクションと作品(絵画・おもちゃ)を保存し一般公開する私設展示館です。1998年、順三・賀子夫妻により設立。全国のファンに支えられ開館15年を迎えました。各地の素晴らしい芸術文化と、小さなおもちゃの夢の世界を楽しみください。
◆グリコのおまけそのものは江崎グリコの博物館がある。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。